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化粧

彼は電車の中で青空文庫を読んでいた。原民喜の「雲の裂け目」は今は亡き家族との思い出を綴った手記である。彼はその小説に描かれた光景を実感として受け容れられない表現があった。
"庭の樹が向こう側から自分を見ている感覚"
それだけは彼には想像すらできなかった。
彼の眼前の座席では手鏡を使いながら化粧をしている女性がいた。カーゴパンツとTシャツ姿の彼女は下地クリームを器用に塗り拡げていく。そして、ファンデを薄く、ムラのないように慎重に載せたあとは薬指のチークとアイラインで仕上げをしていた。彼女の顔の輪郭が鮮明になっていく過程を怪しまれないようにチラリ、チラリと合間を窺いながら見ていた。違うだろう、盗み見ていた。彼女は化粧を終えたあとに計ったように次の停車駅で降りていった。
その後、彼は車内を見渡した。マスクをしている女性たちは隙を見せないように気を張りつめているように見えた。
化粧をちゃんと済ませた数人の女性たちは春の陽射しの中で眠っている姿が見える。彼は彼女たちの化粧前の顔を想像してみた。その時に化粧前の隙を見せないように緊張している顔が向こう側からこちらを見ているような感覚が彼の中で浮き上がってきた。
電車は街から山々に囲まれた田園を疾走っていた。彼は自然を装いながら窓の外をみた。新緑の山々は向こう側から彼を見ているようで、彼を責めているようにも感じた。
その時に彼は物語の中に描かれている”向こう側からこちらを見ているような感覚”に近づけたような気持ちになった。
「電車の中で化粧はするべきではない」と主張する人物は少数派ながら存在する。化粧をした笑顔の向こうに見たことを咎めるような顔が浮かび上がれば誰でも居心地は宜しくない。彼には受け容れられない主張にも理がある事を想像できるようにもなった。
次に彼はスマホを取り出して、その時の顛末を記入することにした。
彼の感覚はオブセッション(執着)に近いものだろう。
《オプション(私は主題との言葉を好まない)》
レイモンド・カーバーの「ファイアズ(炎)」の後書きには書いてあった。執着は文章に活力を与える。強烈な執着は衝動に変化する。それに囚われた時に書く文章ほど楽しめるものはあり得ない。
#小説

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