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申し訳ない気持ち

彼は図書館でレイモンド・カーバー著「Careful(注意深く)」を読んでいた。その時に彼は背中で何かが這いずる回るような感覚に気付いた。
彼は代々木公園の花壇の縁に座って、お弁当を食べた。そのときにの背中の中に小さな虫が洋服の中に這入ったのだろうと彼は思った。図書館に移動して、図書館で本を読み始めるまでは全く気付か無かった。
「移動中に気が付かないのだから小さな虫だろう。」と彼は思った。大した問題ではない。
彼が読んでいる物語の中ではアル中の男が大切な話をするために訪ねてきた妻からシャンパンのボトルを隠しながら、耳の中に詰まった異物を取り除く姿をユーモアを交えた筆致で描いていた。彼の背中で這いずり回る虫は彼の背中を噛んだらしい。「大した痛みではないな。」と彼は呑気に構えながら本を読み続けた。
物語の主人公は異物を取り除いて、結末に向かう頃、彼の背中の虫はいつの間にか足首の辺りに
移動したらしい。左足の靴下の上から何かが動き回る感覚が彼には分かった。
彼は身体を捻って、自分の足首の辺りを確認した。そして、そこに人差し指ぐらいの大きさのムカデがいることを確認した。「なんだこれは!」と大きな声を出した。「マスイぞ、ここは図書館だ。騒いではマズイ。」と直ぐに気付いた。彼の周りには少し離れたところに読書中の中年男性とその反対側にファッション雑誌を読んでいる女子高生がいた。制服姿ですぐ分かった。それどころではなかった。
彼は左足を左右に大きく振った。ムカデをとにかく自分の足から振り落としたかった。しかし、ムカデは身体をS字の形にして、数十本の足で踏ん張って、彼の靴下からふり落とされなかった。彼は諦めて、自分の左足を机の脚にくっつけてムカデが床に降りるルートを作ってみた。ムカデは赤い触覚を動かしながら周囲を確認した。そして、机の脚から床へと降りていった。
そのムカデは女子高生の足元へと全速力で向かっていった。「まて、そっちには行かないでくれ」と彼は思った。しかし、ムカデは彼の気持ちを無視して女子高生の足元を通過していった。幸いなことに彼女は雑誌に夢中でそのムカデには気づかなかった。図書館で余計な騒ぎを起こしたくなかった。彼はムカデの事を誰にも言わずに読み終えた本を棚に戻して、素知らぬ顔でその場を立ち去った。

それから数日後にヒロミに会った。「結果的に代々木公園の花壇から餌が全くない人工的な図書館に哀れなムカデを連れて行った事になるよね。その時にムカデが女子高生の前から逃げるのを見逃したのはそいつを可愛そうだと思ったからじゃない?」とヒロミは彼に聴いてきたことがあった。彼女らしい意見だ。
それは爬虫類カフェで彼女が腕にヘビをまきつけているときだった。店の前を通り掛かった親子連れの男の子が彼女とヘビを見て泣き出した。子どもが好きな彼女は直ぐにその子に近づいて、「ごめんね、大丈夫だから、この子は優しいから噛まないよ。」とヘビを腕に巻き付けたままでその子に謝罪した。ヘビは店の奥からその子の目の前に移動してきた。その子は更に泣き出した。もう手のつけようがなかった。
彼は全速力で逃げるムカデに同情したのだろうか?全力で振り落とそうとした。しかし、机の脚に叩きつける事はできなかった。彼は怖くてできなかったと思っている。しかし、本当のところは彼にも分からないでいる。
#小説

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