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光の広さ

第21回俳句甲子園作品集を買い、とりあえず全部全句読みました。感想は、季語が難しかったなあということ。インタビューで星野高士先生が「今年は若さがない」と述べていましたが、それは兼題に因るのでは、と感じます。

高校を卒業してから、作品集を全部読むことは決めていること。なかなか作品集の読者の反応は届きづらいもので、それがとても勿体ないと思っているから、ちゃんと読んで書こうと決めています。
ちなみに、OBやOGが読むコーナーがあり、僕も一度書かせてもらったことがありますが、あれは作者や高校名を伏せた上で読みます。なかなか大量です。今回僕は作者や高校名もふくめて読んだので、そこは差がありますが、それは選ぶ材料にはしていません。

好きな句を中心に、そして少し喋りたい句を混ぜて、選びました。メモの欄についてはまとめて最後に記述。

〈全国大会の作品〉

〈画像、作品集からの引用で四句目が「ぶうと破れるひとりぼっちの」になっていますが、試合では「ぶうと破れるひとりぼっちの草笛」だったと情報を得ました。以降の鑑賞では訂正を書いていますが、画像はこのままにしておきます。申し訳ありません。〉

蛇よ私はいつも姉の足もと/菅原わかば

独特のリズム感覚。幼い私が姉の足元に付いていく。いつまでたっても姉を越すことはできない、という若干の悔しさのようなものも感じられる。内容はふつうだけど、「よ」の呼びかけと韻律が良い。

滴りや既婚者を好きになっただけ/京野晴妃

メッセージ性が先行しすぎている感はある。ただ、無理矢理にでも引き止めるような力はある。滴りの澄みゆく中、好きな相手が既婚者だっただけだと思う。高校生が、想像で不倫を詠んだとはじめは思ったが、高校生が、既婚者を好きになったということも考えられて、考えさせられる。

戦争は知らないままで水鉄砲/山形県立山形南高校

「は」?「を」じゃなくて?というその一点だけで引き止められた。要は戦争を知らないのに水''鉄砲''で遊んでいる、ということでしょう。「は」は、単に接続する格助詞ではなく、副助詞。取り立てて言う意味を副える。意図して「は」が選ばれたのかどうか分からないけれど、じゃあ何を知って水鉄砲を撃っているのだろうと考えさせられた。戦争のない理想的な現実?

ぶうと破れるひとりぼっちの草笛/石原尚昌

(訂正前)草笛の欄にあった。音数が足りないが、誤植なのだろうか。誤植でないなら、とても良いと思う。''ひとりぼっちの''がやや強い言葉だけど、最後の断絶でうまくバランスが取れている。

(訂正後)最後に「草笛」がつくとのこと。訂正します。断絶、それはそれで好きだったが、「ぶうと破れる」は、説得力のある表現で、良いなと思う。

手でくもる回転扉秋暑し/櫻井陽輝

これは本当に「秋暑し」なんだろうかと、まだ完全に腑に落ちた訳では無い。初冬などの方が、ガラスも冷えていて、体温でくもりそうなものだ。秋の暑さの中でこの状況が生まれるということは、内側が相当冷えていた、例えば冷房が強くかかっていたということなのだろうか。「手でくもる」という確かな描写を信じて、この季語を意識的に持ってきたことに凄いと思う。

蛇泳ぐまぼろしの鰭つかひつつ/渡辺光

ぱっと見て、三橋敏雄の『まぼろしの鱶』を想起した。題名の句は〈共に泳ぐ幻の鱶ぼくのように/三橋敏雄〉。ラップで云うサンプリングみたいなものなのだろうか。それとも意識せずだろうか。
ちなみに、化蛇という中国の妖怪がいて、泳ぐように飛び回る。「まぼろしの鰭」という明瞭な幻影を通して、蛇の認識が更新される。

セイウチのたぷたぷ歩く残暑かな/簱浩平

「たぷたぷ」というオノマトペだけで頑張った句。このセイウチの様子を見ている主体がいるとすれば、なんとも言葉にし難い表情になっている気がする。「かな」のとどめもここでは良い。

くちなはや瑕瑾刻める石柱碑/玉腰嘉絃

蛇と石碑の組み合わせは出来すぎているくらいに合う。石柱碑を今までちゃんと見たことが無くて、「瑕瑾」も刻んであるんだなあ……と思った。だからこの表現に素直に発見が現れていると思った。石碑を普段から見ている人からすれば、なんてことない句に見えてしまうのかもしれないが。

蛇を巻く仕事少年の一生とは/大橋愛香

「仕事」「少年」「一生」という単語が、それぞれ内容を含みすぎて、一句でもうお腹いっぱいという感じ。明らかに要素過多だとは思うが、それでもなお言いたかった、という思いはひしひしと伝わる。この破調は、かなり効果的に決まっていると思う。実際に試合会場で見て、一目で気に入った句だった。

草の花畳めば薄き車椅子/細井淳平

内容としては類想は見られる。決して新しい発想ではない。ただ、草の花と結びつくことで、知的な発見に終わらず、ぽんと明るく見えてくるものがある。僕も祖母が車椅子生活だったのでとても共感した。「畳」の字の上の田が、草の花と呼応している気がする。

耳朶の重さになりて滴れり/大西遼

他の方の評にはあったが、これは果たして身体感覚を詠んだ句なのか?耳朶、切り落とさない限りは、ふにふにと触れるだけで、重さまではわからない。滴り自体も重さに触れることは出来ない。これは、その分かりえないもの同士が、滴った瞬間に通じた、その一瞬を書き留められた、という句だと思う。よくその曖昧な一瞬に気づけて、''書けた''な、と思い、その点を称えたい。

青い火を放つ死があり墓を蛇/板尾真奈美

「青い火」という魂を連想させる語に、「死」「墓」と物騒な、近い単語が並ぶ。これを否定的に取る人はもちろん多数いると思われる。ただ、この二回目の「を」の正確さと、「死があり」という死への冷静な距離の取り方、「青」「放つ」「あり」「墓」のa段の韻、「青い」「火」「死」「あり」「蛇」のi段の韻の技巧が、うまく混ざりあって、蠱惑的な世界が広がっていると感じた。今大会で一番好きな句だった。

くちなはや起き抜けに水飲む女/森島小百合

面白い。別に起きてふらふら水飲んだって良いじゃん、と思う。単に風景として見ても、蛇のや切れから、起きて、夜明け頃だろうか、水を飲む女性がいる、それだけで美しい青い世界があると思う。が、個人的には何か突き放したような、少し皮肉っているような感覚を得た。人によって読みは変わる気がする。

腸柔し鵙に裂かるるものはみな/中井望賀

「柔し」という一点が、中七下五でより鋭くなっていく。「みな」という終え方でまた循環して読めるのも良い。
鵙を詠むに当たって、完全に取り合せるか、鵙がどうこうする、という句が多い中、鵙の被害を受ける側から詠むというこの句はかなり鵙に迫っているように思えた。「腸」「鵙」の、にくづきと貝偏がにて見えるのもまた、作品世界に引きつけるものになっている。

くちなはの肉縮まりて花のいろ/松﨑美夕香

「肉縮まりて」が、生々しく良い表現だけれども、少し言い過ぎにもなってしまう、ぎりぎりのところ。それを、下五「花のいろ」でうまく昇華した。この花を通って屈折させるような景の持って行き方は、技ありだと思った。この方の句をもう少しまとめて見てみたいなと思った。

滴りや方舟に似てあなたの手/桃原康平

「似て」「あなた」というのは、音の調べには綺麗に乗るものの、詩的になりすぎる面があって、しかもこれを同時に使うとなると、なかなか難しい。
それを、「方舟」で大きく背景を想起させ、「手」という部分で着地をした、その見せ方の上手さが光る句。
この季語の斡旋については、なんだかうまく説明出来ないにも関わらず、季語が動かないという確信はある。なんとも不思議な句。手放しで最高!という句ではなく、じっくり悩めば悩むほど、色んなものが見えてくる句だなあと思う。

〈地方大会の作品〉

春眠や太陽近き保健室/城田有梨

春眠自体、陽射しでぽかぽかしてねむたくなることで、や切れしたあと改めて太陽が出現すると、迫力がある。保健室に差し込む光から、「太陽」が近いと感じたその感性が良い。夏だと、「近き」ではない。春だからこその。保健室という少し特殊な場所の、静かな空間が、一気に展かれる。

チョーク跡なかなか消えず夕蛙/高山芽吹

表現的には推敲の余地がたくさん有る。「チョーク跡」という言い方でいいのか、「なかなか」という安易な言い方でいいのか、「消えず」以外に動詞はないか、などなど。ただ、チョークの跡がなんどやっても消えない状況は確かにあり、高校生だからこそ気付けることだと思った。その発見を表そうとしたことは良いと思う。季語との響きあいなど、もっと細かく考えていくと、より鮮明に伝わるかも。

蜜豆や幕府の町を一すくい/千葉県立千葉東高等学校

二度見した。これは、「一すくい」の対象は一見「町」だけど、おそらく「蜜豆」の方だろう。''(かつて)幕府の(おかれた)町で蜜豆を一すくいする''というのが内容に沿った流れだと思う。それがこの語順にされている。相当テクニカルだなと思う。この自在さは大事。

餡蜜やみな結ひ髪の弓道部/海城高等学校B

この試合は直接見ていて、審査員は高校生なのに出来すぎていて面白くない云々と語っていた。でもこれはこれでバシッと決まっていて僕は好きだった。このや切れは、爽快で、以降も収まるべきところにシュッと収まった。季語の中でも「餡蜜」なのが、徹底していて良い。髪や弓のなめらかさを思わせる。本当に皆が皆結髪だったのかと問いたいところはあるが、それは野暮だろう。

乗客はおほかた生徒夕蛙/折井森音

通学に皆がバスを用いるしかなく、一時間かけてバスで通学した高校の頃を思い出した。たしかに乗客は生徒ばかりだった。この句の中では何の乗り物だとか、どこへ行く乗り物かということは明示していないが、「おほかた生徒」という少し可笑しいような、安堵したような発見が心地よく広がる。夕蛙ということは帰るときのことだろうか。素敵な把握だと思う。

蜜豆の器一つに匙三つ/聖マリア女学院高等学校

そんなに分け合うものかなと思うけど、そうだったんだろう。あっさりしていて、なんとも蜜豆を食べる人の心持ちがうまく出ているのではと思った。仲のいい三人だ。

春眠の俳句はふわりふわふわり/鈴木優作

決して句として好きな訳では無いが、勝負の場にあえてこのメタ句というか、正直な所を吐露するのが面白い。それは自分たちの句へも刺さるブーメランになってしまう可能性もあるわけで。「ふわりふわふわり」で定型に揃えて一応リズムに乗っているところが、なんとも憎めない。
春眠の句、この句が言うようにふわふわした句があまりに多い。まあふわふわ感から離れすぎるとそれはそれで春眠じゃなくて良いとなるし、難しかっただろうとは思う。

翻車魚に水槽一つ春眠し/細井淳平

水槽に翻車魚が一匹、ではなく、「翻車魚に水槽一つ」なのが、素直な記述。これは、この景色を実際に見ない限りは、なかなか言えないなあと思う。季語的に、そこまで悲しさが強調されているわけでもなさそうで、この主体の性格も見えてきて、なんとも個性的な句だと感じる。翻車魚の「翻」という字、春眠さがある。

春眠や振つてから出すマヨネーズ/牛田大貴

本当に春眠で良いのだろうか、とも思うけれど、なんだか可笑しい。マヨネーズの終わり際は振って寄せてから出す。マヨネーズの体言止め、締まるようで締まらなくて、そこが面白い。何度もマヨネーズと言っていると、本来マヨネーズはフランス語︰mayonnaiseであることをまざまざと感じさせられる。

銃口のかすかに震え桜の実/楠間麗奈

銃、どこまで現実味を持って読めばいいのだろう、銃の形に指を向けているのかもしれない。本物かもしれない。銃口の震えを見ているにしては、「かすかに」がやけに引いているというか、簡単というか、軽い。本物であるならもう少し迫れると思う。
桜の実、小さい子などの可愛い系から目が合う恋愛系、弾いて遊んだりする遊戯系が多いなか、この句は毛色が違った。

青色の絵の具のにおい春眠し/西森杏奈

絵、得意じゃないから、絵の具の匂いはなんとなくわかるけど、全部一緒だと思う。もしかしたら色ごとに違うのかも。
この句の主体も、僕と同じであるような気がする。でも、確かに、その匂いは「青色の絵の具」だった。絵の具のにおいが、「青色の」と一言修飾されるだけで、ここまで映像が一段階鮮やかになるのだなあと学ばされた。

ままごとの砂のスープに桜の実/滝下真央

ままごと系の句が桜の実に溢れかえっていたが、その中で、ままごとの句としては一番良かった。「砂のスープ」とまで言われたら、もう想像してしまうわけで、砂をスープにもできる子どもの可能性まで思われる。よくぞここまで言った、という感じです。

実桜やプレパラートの擦過傷/高橋恵美彩

着眼点が光る句。取り合わせがすっと入ってくる。桜の実という小さいものから大きいものを対比させる句が多く見られたが、この句はより細かい所を見ていて、実桜の方が大きい。プレパラートについた傷が、少し心配になる。初めてプレパラートの身に立って、想いを馳せた。一句としての完成度が高い。

流産の兄の名が好き桜の実/島田包

この文体の軽さで見過ごしてしまいそうになったが、内容が物凄い。鳥肌が立った。本当の話なのか虚構なのかはおいといて、12音で描く物語の量が多い。流産、その子に付けられていた名前を、「好き」と思うこと。「兄」と述べているところからも、主体はすべてわかった上で「好き」と言っているのだろう。
一点、表現の面で指摘するならば、うえから読むと流産の兄、になり、兄の妻が流産したようにも読めてしまう。そこは見た目で少し損しているかもしれない。しかし、未生なる、とかだとまた意味が変わってきそうで、この内容はこの表現から動かせないな、とも思う。

〈メモについて〉

読んでいて思ったメモからいくつか書く。この記事を高校生が読むのかどうか分からないが、もし見る人がいれば、参考にしてほしい。

①い抜き言葉

口語で軽めの俳句に、い抜き言葉が見られた。しかもそんなに少なくない。「〜してる」等。音数の都合でそうする俳句や短歌を見かけることはあるが、やはり印象は良くない。「〜している」と言ってほしい。もしその表現がそぐわないのなら、他の言い方を考えてみてほしい。

②取り合わせになりきらないもの

おそらく取り合わせ、二物衝撃を狙って作られたのだろうなという句の中で、取り合わせになりきらないものを多く見た。季語との取り合わせがほとんどになるが、季語と結び付けられることで生まれるもの、響きあいのようなものが薄いもの。
二文、という印象を受けた。一句、ではなく。
兼題が与えられ、そこからの勝負だから、どうしても取り合わせで奇を狙ってみたくなる気もするが、それがかえって季語を詠まないことになる可能性も、常に考えたい。

③カタカナ

カタカナを、ふつうに入れている句がある。別に良いけれど、カタカナにはぱっと見て軽く見えることを把握したい。単に印象の問題。「花」と「フラワー」だと、フラワーの方が軽めに見える。
カナで文字数をかなり取るわりには、内容が薄い、ということが起きやすい。だから、カタカナを使うことは良いけれど、それがどう見えるかということも同時に考えるのが良い。

④作者の我

作者性というか、「僕/俺/私が、詠みました!!!」というのが過剰に伝わる句が結構ある。
僕としては、作品は作品として没頭したいから、作者が強く干渉してこられると、読みづらい。 これが、作者がわかった状態、例えば句集のような形態で読まれるなら、作者が伺えて良いと思う。しかしこれは名を伏せて見られるものだから、その扱いはやや考えどころ。
作者と作中の主体、自分が書いたときの思いと、読まれるときに想起される思いは必ずしも同一ではないということを意識したい。

⑤頻出単語

俳句作品を批評するとき、しばしば「類想」という言葉が使われる。似た発想がありますよ、ということ。作品集の俳句を全部いっぺんに読むとよく分かるが、表に分けられるのではないかと思うほど類想が綺麗に見られる。でもこれはある意味季語のはたらきで、季語それだけである程度多くの人に想起させる共通イメージのようなものがあり、それが具現化した、と取れる。
だから、あまり類想に関しては、(俳句甲子園において)気にならなくなった。
一方で、頻出の「単語」が気になる。教室系(黒板、光、先生、席、美術室など)、勉強系(カンブリア紀、星の名前、方程式、ノートなど)、恋愛系(目が合う、好きな人、名前など)、まあ様々にわたって、単語レベルでの類似が見られる。
これらを使って詠むのは、それだけで不利だということを感じる。審査員は同じ季語の俳句を見るわけだから、その中で単語が重なると、やはり辟易してしまう。
俳句甲子園に使われがちの単語、というのは、ここ数年の作品集を読むだけで分かることだから、一度調べてみるのがいいと思う。

僕はこれらを使うな、と言っているわけではなく、不利だ、と言いたい。パッパッと見ていく中で、見た目だけで類想を察知するから。
だから、もしそれらの題材を使うのであれば、使ってまで言いたい世界があったり、新しいそれらへの発見などがなければ、高評価には繋がりにくい。だから、ハードルは上がる。
もちろん、そこから名句が生まれることはいくらでもあるのだから、忌避はしなくていいけれど、気をつけてほしい。

⑥575のこと句のテイスト

575、定型に当てはめる句が多い。いや、それが俳句であり、全くそこに問題は無い。
ただ、定型に当てはめさせられている句も多く感じる。
明らかに内容は大きいのに、無理に音数の都合で削られた、という感触をよく得た。その句の内容、発見、世界に対して、表現が追いついていない。
なぜその内容でこんな律儀に留まっているんだ、と、勿体無い句がたくさんあった。推敲したい。

リズムだけでなく、表現、単語の選択等も同じで、句の雰囲気に明らかにそぐわないカタカナが突然ぼーんと出てきたり、格調高い雰囲気で動詞が可愛かったり、なんとも一句内でバランスが取れていないものがある。
何を言いたいか、それがどこまで言えたか、確かに大事。だけど、それが一番うまく表れるために、どこまで俳句を支えてあげるか、これも大事だと思う。育ててきた子どもが、一人暮らしするぞと言い始めたが、何も持たせないで、「行ってこい!」と言っているような。
その子に合ったアドバイスをしたり、食べ物や家具や服を渡したりする。
そういうところにこだわった句が、ばしっと心に届くのだと、僕は思っている。

⑦勝つ/作りきる

読んでいて思うのは、「勝ち」を視野に入れている人たちと、そうでない人の俳句のこだわり方が全然違うな、という点。
あくまでこれは大会であって、勝負が付きまとう。僕が現役の時はそれをかたくなに厭悪して、自分の好きなようにやっていたが、それは勿体なかったな、と今になり思う。

全員が全員勝ちを狙う必要も無いとは思うけれども、やはりそこは想定に入れた方が、句作の力は上がる気がする。
受験のようで嫌だけど、傾向と対策みたいなものが、俳句甲子園では可能だと思っている。本当に、読めば大体の傾向は掴めると思う。入選とか特に。そして、それを分かったうえでそこを狙っている句もたまに見かける。賢いな、と思う。
といっても、芸術であるから、勝てれば何でもいいのかという訳でもないと思う。自分が詠みたいように詠んで、書きたいように書くのが理想だとおもう。

僕は、高校生には、その理想を追い求めてほしいと思う。そして、その理想を叶えながら勝ちを得るには、作り方が多いほうがいいと思うし、見え方をよく知っている方が、強いと思う。そして、実際、勝っているチーム、優秀賞や入選を取るひとたちは、そこをある程度意識している人たちだなと思う。

当然の話だが、武器が剣だけよりは、弓を持っていた方が攻撃方法に広がりがあるし、何も無いよりも望遠鏡があった方が遠くまで見える。
たくさん勉強したり、他人の句を見てみると、表現が多彩になる。ぜひ、理想を追いつつ、それでいて勝って行ってほしい。せっかくの大会なのだから。(これは個人的な思いであって、誰がどう大会に向き合おうと、自由です。あらためて。)

⑧嘘と虚構

読んでいて、いやそれは嘘でしょ、というものと、虚構を良くかけている、というものがあった。
多分それは、その内容の飛躍の度合いにもよるけれど、「こう見てほしい」という作り手と読み手の間に溝ができるかどうかである気がする。

たとえば、「月の音が聞こえた」と言うとき、虚構として読ませたいのであれば、それらしく書けばいいけれど、本当に聞こえたんだというふうに読ませたいなら、「月の音が耳元で聞こえた」など工夫をしなければ、現実味が出ない。
そう見てほしいならそう見られるように書くこと。
読む側の問題もあるけれど、虚構/奇跡的現実への手がかりが欲しい。

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僕は高校生のときかなり好きなように乱暴な句を作っていたから、今の高校生達の句のレベルにはびっくりすることもある。とても学ばされることが多い。
俳句甲子園が終わったら自由に詠めるからはしゃいで量産した記憶がある。

別に俳句の世界は勝ち負けではないから(戦いだと言っている人もいるけれど)、好きにやって欲しいと思う。そしてその好きにやれるために、どんどん練習してほしいと思う。
この作品集を作るだけでも多くの人が大変な作業をしていることと思うので、高校生たちはぜひじっくり読んで、自分の創作に還元してほしい。
高校生ではない僕も、参考になるところはたくさん有るので、自分の俳句を作るときに少し考えてみようと思いました。良い読書でした。

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