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読書 Ⅰ 俳句③(前)

①山田耕司『不純』(左右社、2018)
②金城果音『シンメトリー』(私家版、2018)
③『しばかぶれ 第二集』(邑書林、2018)

後半→https://note.mu/jellyfish1118/n/n96f3d9e1a384
④『凪 三号』(金沢大学俳句会、2018)
⑤中村安伸『虎の夜食』(邑書林、2016)
⑥鷲谷七菜子『銃身』(邑書林、1996)

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①山田耕司『不純』(左右社、2018)

小説を読んでいると、たまにあとがきが付いていて、「〜様お世話になりました」などと書いてあり、この作者は忠実なひとなのだな、と思うことがある。あとがきがついていない事の方が多い。物語の余韻だけで終わる。ハードカバーになると解説すらついていないからますます自分だけが残される。

句集や歌集は、だいたいあとがきがついていて、自分の人生や芸術観を述べ、出版にまつわる人たちに挨拶をして終わる。僕は全然嫌いではなくて、それもまた作者の性格が覗けるから好きで読む。
しかしこの句集にはあとがきがない。
小説でなれていたつもりだったが、いざ直面するとかなり動揺した。この人はどういう気持ちで、どんな性格でこれを記したんだ、と一気に気になる。ある意味でずるいな、と思った。圧倒的に気になる。あとがきを書かない、ということも一つのあとがきの形なのかもしれないと思ったり。

あとがきにお礼を言うべきひとの名は伏せておきたい私小説なら(鈴木美紀子『風のアンダースタディ』)

この歌を思い出した。山田さんもそんな感じなのだろうか。もしくは一つのからくりとしてそうしたのか。ますます気になる。

煩悩やあやとりは蝶そして塔

蝶と塔という詩的語彙がスムーズに接続して、さらに違和感がないという状況を発見したことが素晴らしい。これは早いもの勝ちという気がする。
蝶から塔へとするすると変化するあやとり。一本の紐がゆびによってさまざなものに姿を変える。あやとりがこんなに美しく見えるなんて。
そして「煩悩や」の上五が面白い。まさにあやとり。蝶や塔に沿って綺麗めな上五で、美しく仕上げることもできただろうが、この豪快な上五を衝突させるのが、この作者らしさということだろう。
個人的に、蝶も塔も好きな単語で、「そして塔」のうつくしさ、悩(no)蝶(tyo)塔(to)の韻の心地良さにうっとりとした。

おつぱいに左右がありて次は赤坂

「次は赤坂」の飛躍で笑いながら驚いた。おっぱいには左右があることの気付き、そして気がつけば次は赤坂。突然に主人公は発見したんだなというその勢いが面白い。「おつぱい」「ありて」という文語的な言い方が、妙に趣があってへんてこな(いい意味で)句だなと思う。
個人的には、「おつぱいという部位には左右があるんだ」という普遍的なことの発見だと読んだが、「次は赤坂」から、これが電車内の発見だとも読める。電車に乗っていたら、近くに女性がいて、その胸を見て、左右の大きさが異なっていたりしたのだろうか、そこで左右があることに気づき、そこで次は赤坂というアナウンスが聞こえてくる​────という。でも個人的にそういう7割痴漢みたいなセクハラは断固して嫌いだから、その読みはしたくない。まあでもこの主体のおとぼけ感はちょっと好きだ。

みつ豆の叱る側だけ泣きながら

叱る側だけが泣いているこの悲しさ。叱るということの寂しさ。この口語の表現からでてくる淡々とした映像の描写が、さらに切なく描き出す。
泣きながら叱ってくれるということの愛、叱るときに泣くしかないというどうしようもない悲しさ。これは物凄い良句だなと感じた。

末黒野や知らない家族また出てくる

この章の題が「山田耕司vs山田耕司」なのがハチャメチャで良い。題「末黒野」の山田耕司赤チームの句。
「知らない家族また出てくる」の不可解な「変」さ。末黒野というのは、枯れ草を焼いて一面黒くなっている野のことだから、見晴らしはそれなりにいいはず。じゃあ、「出てくる」とはどういう見え方なのだろうか。

焚き火より手が出てをりぬ火に戻す

あとの章に出てくる句。ホラーな光景。
知らない家族も、こういう出方をしたのではないだろうか。自然発生的に、植物のように、知らないうちに、にょきにょきと、知らない家族ばかりが出てくる……。この奇妙さが癖になる。
「家族」というのがまた可笑しい。主体には、この「出てくる」ことへどう対策することも出来ない、というふうなのがまた。

湿原を君の見えつつ遠きこと

うつくしい句だ。「見えつつ遠い」というのはまさにこの句集のことなのかもしれないとも思う。君はいつも見えつつ遠い。「湿原を」の「を」がきれいに決まっている。「こと」という終え方も、ここではすとんとはまっている。湿原、君、見え、とi段の韻がリズム良く、その分「遠きこと」の遠さを深くする。
この絶妙な距離感で句が並べられた、届くようで届かないような、でも良く見えるような、不思議な力のある句集だった。

〈他に好きな句〉

うぐひすや順番が来て巴投げ

日向かと問へば大往生と云ふ

眼の球はぬれつつ裸ふきのたう

地球儀の極はネジ留め茅舎の忌

②金城果音『シンメトリー』(私家版、2018)

月一で句会をする仲である。素直な感性と、等身大の書きぶりが良いなあと思う同期の作家。自選というのはなかなか個性がでるから、どういう句を選んでくるのだろうと思いながら読んだ。

みづは木をおほきくめぐり今朝の夏

要素はシンプルで、文字も簡単。その分するすると読めてしまうが、景は豊かである。「みづは木をおほきくめぐ」ると感じられる木というのは、主体の前に厳然と立ちはだかっているだろう。目の前には木のみ在り、そこから水の巡りを感じるだけで悠久の空間があるが、「今朝の夏」が一帯をとりかこむというのが、一層に穏やか。個人的にはとなりのトトロで、サツキとメイと共に父が大樹にお祈りするシーンを想起した。

木の名前確かめ合つてゐる冬野

木の名前を確かめ合うという状況に惚れた。良い。これ、恐らく冬野にいて、主体ともう一人の誰かが、「この木は〜だよね」「うん、そうだと思う」と会話している、と読むのがふつうなのだと思う。
ただ、僕はなんだかとても静かな空間を思い描いた。主体と冬野の一対一の光景。
だから、主体が、その冬野の木に対して、「あなたの名前は〜ですか」と尋ねて、冬野が無言のうちにそれを答える、という景で読んだ。木の名前を木と確かめ合う。

その隙に手を握られて大花野

文字通りの景だとは思うが、「その隙」というのが魅力的。隙。「その隙」を想像すればするほど、広がっていく句。チープな恋愛の作品に終わっていない、充分に含みのある、大花野へと駆け出す素敵な作品だと思う。

自分で自分の作品集を作ることって大事だなあとますます強く思った。人の自選って見ているだけでこう、ぐぐっと来るものがある。その人の歴史を知る感じで。この小さな冊子でさえ、1人で作るのはかなり大変だったと思うので、届けてくれてありがとうという気持ちです。良かった。

〈他に好きな句〉

先づ夜の海へ行きたし白浴衣

鋤焼をあたためなほし夜の風

③『しばかぶれ 第二集』(邑書林、2018)

里の、主に若手の方々の作品がまとめて見られる作品集。ある方に送っていただいて早々に読みました。ご恵投感謝します。結構分厚く、ボリュームたっぷり。

〈島田牙城特集〉

島田牙城さんのことは、旭川東の知り合いからちょこちょこ聞くだけで、深く知る機会が無かったため興味深い特集だった。

岬より岬見てをり春沒日
自死の木と知らず蹴り翔つ親鴉

島田牙城「磯椿」30句より。〈岬より〉は、岬より岬、ともう一つの岬が遠くにみえることで、一気に景の奥行が変わる。春沒日という季語の壮大さがより一段と深まる。岬に岬を登場させる視野の広さに感服する。〈自死の木と〉は、木の映像と、それを飛ぶ親鴉、そして「自死の木」「と知らず」という内情を知るひとつの視点の、三つの視点が絡まりあっているのが良い。その三つが、どれも残りの二つの視点を知らずに行動している、そして読者はその全てを理解して光景を感受できるという、構造が見事。

並ぶ評には、石寒太とか、「青」とか爽波とか裕明とか、僕の中では半分伝説のような名前がたくさん登場して、はあ凄いなあと思う。俳句史で辿るとこんなにすごい人たちが、するすると繋がり、まだまだ元気に俳句を創作していると考えると、僕もやるぞやるぞという気持になる。

不勉強にも牙城さんの句集は読んだことがないが、各評の中に出てくる、〈白桃をすすりをへたる母の闇〉(『火を高く』)、〈春は筍とりあへず米と炊く〉(『袖珍抄』)、など、食べ物を詠むのが上手な方だなと思う。美味しそう。

田中惣一郎さんのまとめの文章はかなり重厚で、すごい、という言葉しか出なかった。あまりに細かすぎる。後世、牙城さんや「青」に興味を持つ人にとっては必携になる文章だと感じる。

例えば僕は、公言してはばからないんだけれど、句会嫌いなんですね。なぜかって、読んでほしい人がもうこの世にいないからですよ。

インタビュー第二部より、牙城さんの発言。これはがつんと重く響いた。読んでほしい人がもうこの世にいない。そうなった時、僕は気丈に俳句を続けられるだろうか、自信が無い。この一文は自分のためにも記憶しておきたいなと思った。

〈各作者作品〉

「ひとこゑに」佐藤文香
遠霞口のかたちに声が出て
葭切や傘の絵柄を巻き尽くし
絵のそとはうちの中なり月の旬

〈遠霞〉、声の把握が面白い。声は息と口の開口度と舌の位置で決定される。遠霞が見えるそんなすこしぼんやりした中で、分かるのは口のかたちと、それに伴い出てくる声だけ。助詞の「が」が上手く効いている。
〈葭切や〉、葭切はヒュイルリヒュイルリ鳴く、少し細めの鳥。傘を開いて閉じる時に、傘の模様がしゅるりと畳まれる様子を、「絵柄を巻き尽くし」と述べた。単に傘ではなく、傘の「絵柄を」巻く、しかも「巻き尽くす」という勢いのある表現が好きだ。
〈絵のそとは〉、随分絵のような句だ。絵にとっては外であっても、それはうちの中。これは、そと(外)に対して、うち、を、うち(内)と読んでしまいそうになるが、実はうち(自分の家)と読まないと意味が通じないという、意味のひねりが面白い句なのだと把握している。やや論理が先行したような展開で、「月の旬」と着地するのがスーッとする。清らかな、静謐な空間を想像する。その部屋の窓は開いているだろう。

「森」坂入菜月
水無月や細胞壁の歯ごたへの
葛の花字つたなくてそれで泣く
をさなさへ声たちもどる秋桜

〈水無月や〉、細胞壁に続く「歯ごたへ」が細かい生々しさでぬるっと迫る。後半のリアリティに対しての「水無月や」、最後の助詞「の」の雰囲気が妙に頭に残る。
〈葛の花〉、これは実感のこもった切なさだなと思う。僕は恋の、過去の人がくれた手紙を見直して、相変わらず拙い字だわ、と思って、思わず泣いてしまう、という景で読んだ。葛の花というのも、はからずもクズという響きが、どこまでも落ちていくような気がして、ずん、と来る。
〈をさなさへ〉、「たちもどる」という表現が的確。風が吹いていそうな光景。秋桜という、低くて規則正しい細い花がとても合う。

「氷」堀下翔
読み出して弔辞みじかき吹雪かな
犬が出てくる晩春のこんにやく屋
きちかうを見てゐてぱつと杵の音

〈読み出して〉、うつくしい。「吹雪かな」が追い打ちをかけて「みじかき」のハッとする感覚が際立つ。吹雪の中の弔辞というその映像も良い。弔辞って、長いほうがいいのか、短い方がいいのか。案外葬式に出る機会が無いから分からない。でも「読み出して」あたりから、多分もう少し長いのを期待していたんだろう。
〈犬が出て〉、面白い。この句の形ならなんでも作れてしまう、とも思うが、こんにゃく屋から犬が出てくるってなんか、くすぐったくて面白い。晩春、ほのぼのとして、昔話のよう。
〈きちかうを〉、まるで桔梗自身から聞こえてくるような。向こうの世界の入口のような気もして良い。

「黙る」青山ゆりえ
潮さわがし墓にはまなす咲いたらし
永き夜の薬缶うるさき不倫かな

〈潮さわがし〉、さわがし、墓、はまなす、咲いた、らし、ととことんa段の韻が踏まれている。声に出して面白い句。墓に咲いたらしいこと、それに同調するように潮が騒がしくなること、ひとつの光景として非常に美しいと思う。
〈永き夜の〉、下五「不倫かな」はぶっ飛んでいて良い。不倫という要素からは、「永き夜」も、「薬缶うるさき」も、近いとは思う。けれど、これは上から見ていってハッとする系の句だから別に嫌ではない。二人の世界に溺れこんで、永い夜、遠くで鳴っている薬缶が聞こえない。いや、二人とも聞こえているのに、聞こえていないふりをしているのかもしれない。薬缶よりも熱い、冷えた恋愛だ。映画「昼顔」を思い出した。

「逆さまの小森ウタ」中山奈々
献血の出来ぬ身体や冴返る
飛ばぬときも翼ひろげてシクラメン
春はあけぼのもろだしの大天使

〈献血の〉、かつて僕が好きだった人は、度を超えた貧血で献血に行ったら逆にすぐさま病院に行ってくださいと言われて病院で点滴を受けていたというエピソードがある。その人を思い出した。何か元々病気をもっていたり、健康な状況でなければ、献血はしたくても出来ない。「冴返る」という季語がまた刺さる。天使がテーマだから、天使が献血しようとしたのかもしれない。人間じゃないからそもそも献血ができない、というふうな景なのかも。
〈飛ばぬときも〉、これは見事なテーマ詠だと思う。天使は羽を閉ざすことなく、飛ばない時も羽が広がりっぱなし。物凄くリアル。上を向いてふわっと咲くシクラメンが響き合う。
〈春はあけぼの〉、ワードチョイスが面白い。枕草子のように始まり、「もろだしの大天使」。もろだし、とは、何がどうもろだしなのだろうか。他の句にも見られたように、性器とか、躰とか、そういうものがもろだしなのだろうか。しかも「大天使」なのが地味に良い。もろだしのだいてんし、発音が楽しい。個人的に相当気に入っている句。

「DIVE」川嶋健佑
家族集まって晩秋の木の匂い
秋終わるねって聡子がぽつり…

〈家族集まって〉、初読では、家族が集まり、その家族たちが木の匂いになる、と読んだが、なんとなく変な感じがする。集まって、で多少切れて、家族が集まり、晩秋の木の匂いを感じている、と読むとスムーズに行く。晩秋という季語が若干浮ついている気もするが、なにか妙な面白さを発散している句だと思う。
〈秋終わるね〉、詩とか、ショートショートの題名とかにありそう。ぽつり。自由な一句。

「声、匿名の川」青本柚紀
泉の構造エスカレーターきらきらす
排泄に鹿の眼が濡れてゆく
ささやくと濃い霧でかへして強く

〈泉の構造〉、最初エレベーターに空見して、そのままだなと思っていたが、あとあと「エスカレーター」だと気づき、おおっ、と思った。泉、出づ水、を語源としているように、地面を湧出する水。エスカレーターは、永遠に回り、湧き出るように段が出てくる。構造という視点を介して、繋がりようのない泉とエスカレーターが繋がったこと、まさにきらきらしている。俳句のなせるマジックだと思う。
〈排泄に〉、排泄という語は、個人的に印象的な語である。(あるミステリの短編で、キーになる単語であり、ネタバレに繋がるため題は伏せるが、凄くいい短編だった。)鹿の眼が濡れる、生生しくて、心配してしまいそうになる。踏ん張っているのか、何か別の感情が鹿にあるのか。もしかして、排泄と言いつつも、子を産んでいる最中なのかもしれない。格助詞の「に」が上手く効いている。
〈ささやくと〉、いまいち全部理解した気にはなっていない。順当に上から読めば、君に「ささやくと」、周りは「濃い霧で」立ち込めて、君がぼんやりとしか見えない。だから君、反応して、言葉や動きでもっと反応を「かへして」、「強く」。となるのだろうか。まさに濃い霧のような句。「と」と「で」が簡単なようで凄く働いている。

「話す」脇坂拓海
伝聞に方言のある狗尾草
梨切ってお前に番号ありかける

〈伝聞に〉、啄木の〈ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく〉を思い出す。方言、ずっとそこに居れば少しダサく聞こえるようなものだが、一歩違う場所に行ったり、違う地方の人と話したりすると、自分の地域の方言が急に愛くるしく思えることはよくある。「伝聞」や、季語の「狗尾草」の距離感が良い。寺山修司の、〈ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし〉と合わせて読みたい。
〈梨切って〉、内容自体はよく見るもので、新しさは無い。ただ、「お前に番号あり」の把握の仕方が長けている。君に電話をかける、ということだと思うが、電話番号を人につけられた番号という認識をしたことが、良い着眼点だと思う。梨を一緒に食べませんか、という事だとしたら、よほど連絡相手は自宅の近くにいるだろう。仲良し。

「ふるい熱」青本瑞季
おほみづあを睡りのなかに透けてゐる
睡りぐすりが喉とどこほる蔦の部屋
木の実降るとくちぐちに明るいんだ

〈おほみづあを〉、綺麗なみどりいろ。青というか碧というか。透けるような色であることは見ればわかるが、「眠りのなかに」というのが良い雰囲気。美しい宝石のよう。
〈睡りぐすりが〉、この独特の世界観が良い。喉に引っかかるあの感じ、それが睡眠薬であるということ、そして蔦の部屋という空間内で行われているということ。一句の美的世界が、初めから終わりまで丁寧に作り込まれている。「睡りぐすり」、「とどこほる」の語の選択にもそれは伺える。
〈木の実降ると〉、わあぁ……!って感じだろうか。「くちぐちに」がこの句で一番いいところだと思う。それに合わせて、軽い「明るいんだ」というのびのびした語がでてきて、ここまで言われると木の実も降りがいがあるだろうなと思う。

「看経諧和」田中惣一郎()内は詞書
(ところどころにひこそいでぬれ「竹馬狂吟集」)
ひとりきてひとくづほるる火焔壜
(Ametçuchiヒラキ ハジマツテ ヨリ「日葡辞書」)
あれ月と煤けてしがな匣の屈輪
(Catatoqi。すなはち、スコシノ アヒダ「日葡辞書」)
ひとつぶえりのひとつきの編年史

国文学の講義で見かけるような俳諧の本や日本語学で見かける当時の日本語の発音が知れる本などの名前が出てきて、しばかぶれを読む前にこの名前をここで見るとは絶対に想像しなかっただろうもの達が詞書に連なっていた。パワーがある。
〈ひとりきて〉、シリアとかの戦争を想起する。人が「くづほるる」ことの怖さや哀しさ、それを与える火焔壜。恐ろしい景である。楸邨の〈火の奥に牡丹くづるるさまを見つ〉(『火の記憶』)に重なるところがあるなと思う。
〈あれ月と〉、難解。ググッた。まず「てしがな」をど忘れしていて、''〜したいものだなあ''と知る。次に「屈輪」を調べて、''連続紋様''と出て、画像で見る。中国文明の石器に描かれていそうな模様。匣のその屈輪の模様、月と煤けたい。なんか妙に惹かれる句であるが、詞書の天地開闢のような文言が、どう響き合うのかが理解しきれず。時間を空けて再読したい。
〈ひとつぶえりの〉、「編年史」には「くろおにか」とルビがふられてある。「ひとつぶえり」は一粒選で良いのだろうか。「ひとつき」は、一月と読むのがいいのか、一ツ木と読めばいいのか、日と月と読めばいいのか。なかなか迷う。そして編年史が「くろおにか」と読まれる理由も分からない。ほぼ何もかもわからないが、詞書に片時のことが載せられているから、恐らく少しの間の時間が編年体で描かれていて、それが歴史としてそこに一瞬としてだけでも存在したのだ、というふうな内容なのだと推測する。それであれば「一月」と読むのが妥当だろうか。編年史という落とし方がすきだった。

各作者工夫を凝らした作品が揃っており、かなり読み応えと満足度は高かった。最後堀下さんが遅刊の弁を述べていたが、これだけの本を作るのは大変なことであろうと思い、よくぞ完成まで、という気持ちになった。第五回芝不器男賞受賞者が二人いて、佐藤文香さんは『天の川銀河発電所』を刊行し、かなり手強い面子だなと恐れ入る。満足でした。

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