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『瀬戸際レモン』(蒼井杏)を読んで

夕方、スーパーのお買い物から帰るとき、小さい子どもとすれ違った。夏休みに入った小学二年生くらいの女の子だった。少し離れた所にその母と父がいて、その二人に向かって走って行くところだった。ただ、その子とすれ違っただけだった。僕はその子を見たけど、その子は僕を見なかった。身長差もあるし。ただ、その子にとっては今向かう先はその二人であって、僕はその道には立っていなくて、邪魔にもなっていなかった。ふと、僕はなんでこの子を見てしまったのかと少し後悔した。僕は今どこにいるんだろうとか、たぶん余計なことを思って、辛くなって、聞いていた歌も止めて、家について、買っていたアイスクリームを冷凍庫に入れる時、それが溶けていて、ああ、と思った。

と、いうのを、その後に『瀬戸際レモン』を読んで、思い出した。上の話がもう直接に感想である気もする。ただの日常の一瞬のことだけど。本とは関係ないけど。

下の名を知らないままで手を振って歩いて帰って竹輪をかじる
( Ⅰ.空壜ながし)

下の名を知らないまま手を振って、その子と違う方向へ歩くとき、この主人公はうきうきしているか、無表情か、知らないことにもどかしくなっているか、どういう気持ちなのだろう、と考える。帰って竹輪をかじるあたり、下の名を知りたいのかな、とも思うし、無のまま竹輪をかじっているのかもしれない。そこは特定する必要は無いとは思うけれど、僕は無表情タイプ。僕の拙句に「知らない名前の鳥の死苺食う」というものがあるけれど、なんとなく、似ているかもしれないな、とか思ったりした。

ひとりでに落ちてくる水 れん びん れん びん たぶんひとりでほろんでゆくの
( Ⅰ.多肉少女と雨)

最初、憐憫憐憫、って、そんなに憐憫なのかな……とおもったら、音だった。水が落ちるのを「落ちてくる」と着く側からいっていて、横たわってそれを見ているのかな、と思った。これもまたいけない癖で、語られていないことまですぐに考えてしまう。「たぶん」「落ちてくる」の表現から、多分そこに主人公がいる。たぶんひとりでほろんでゆく水を見て、どう感じているのかと思いを馳せてみる。これは感想や鑑賞になっていないと思うけれど、この主人公にはひとりで滅んで欲しくない。じゃあふたりで、という訳でもなくて。

体温が足の裏から逃げてゆくわたしでなければうまくゆくんだ
( Ⅰ.ぎりぎり)

わたしでなければうまくゆくんだ、という15文字で息が暫く止まった。そんなことない、でも、そうかもしれない、と考える時間の息だった。よく、啓発書とか道徳とかスポーツ選手とか受験期の指導とかで、「私が私であること」の大切さを説かれる。たしかに、それは大切だけれど、だからこそ、大切だからこその、もどかしい窮屈感がある。私じゃなければうまくいくのに、私は私なんだ、という。私が私だからこそ上手くいくこともおそらく同等に有るだろうけど。逃避とかそういうのではなくて、たまに、私じゃなくなってみたいな、そうなったら周りは混乱するだろうけど……とかとか色々考える。

こんなにもわたしなんにもできなくて饂飩に一味をふりかけている
( Ⅱ.饂飩の湯気で眼鏡がくもれば)

後半で少し可愛い着地になって安心する。さっきの歌に通じるところが大きい。ただ、さっきの歌と少し違うのは、ちょっとだけ、こっちの方が光があること。光景に。なんにもできないわたしなのに、饂飩に一味をふりかけることは出来ている。なんだか、少し振り切っているような気もして。可愛らしいです。この子が七味をかけれるようになったら、六味分の成長。そういう日々を送りたいな〜とかとか。

キッチンの換気扇がまだまわってる気がする気がする気がする気がする
( Ⅱ.銀とぱふん)

これはすごく豪快な歌だなという感覚。気がする四連発だから。まだ回ってる気がするとき、たしかにこんな感じだな、うんうん、という感じ。この歌で注目すべきなのは、別に気がしてもどうでもいいこと。鍵を閉めてないとか、火を消してないとかならちょっと心配だけど、換気扇が回っていても別に良いのでは、というその些細すぎる点。なのに気がしまくってる。何か美味しいものでもつくったのかな、好きな人が部屋に来てくれたのかな、だから空気を回したくないのかな、とか思ったりするけど、ただの邪推。

あ、この曲、なんだったっけな、パーカーの短いほうのひもをひきつつ
( Ⅲ.銀色、きんいろ)

瀬戸際レモンを読んでいて、蒼井杏さんの短歌は「物語の初め」という印象のものが多いなと感じた。以前読んだ井上法子さん、中山俊一さんの歌集は、最盛もしくは消えていくその瞬間を詠んだものがちらほら見かけられた気がした。比べて、瀬戸際レモンは、これから物語がはじまっていくんだろうな、という予期を残して終わる歌が多い。
このパーカーの歌もそう。日常のワンシーンである。何かがあって、この曲を思い出している、というわけでも無く、ふと、これなんだっけ、と思う。そしてたぶんそこからどこかに行って、思い出すかな、思い出さないかもな、という。

コンタクトレンズ)をこする)あのひとが)きらい)だとかもう)言えない)のです。
( Ⅲ.檸檬再考)

)がコンタクトレンズにも見えてくる不思議な歌。これは一つの物語が終わったこと、でもあると同時に、これから始まっていくことの区切り、でもあると思う。嫌いだと言えないとはどういう事か考える。''このひと''と一緒にいて、あのひとを嫌いと言っていたけど、もう''このひと''の前では言わないようにしよう、とか、あのひとはもう死んでしまった、とか。ほかの歌に死んでしまったニュアンスのものがちらほら見受けられたので、そうかな、と思う。せつない。
この歌、最初は「コンタクトレンズをこするあのひとが/きらいだとか…」と読んだ。ただ二度目に読むと「コンタクトレンズをこする/あのひとがきらいだとか…」となった。)で区切られていると取るか、)はそういう役割ではないと取るかでそこは分かれる。コンタクトレンズをこするのを見る機会はなかなか無い気がするので、後者かな、と。まあ二つに差異はほとんどない。

もういちど生まれたかったなくちぶえにならないほうの風を見送る
( Ⅲ.でもたぶんどうしようもなく)

うっ、と心が動いた。「もう一度生まれたかったな」ということは、もう一度生まれることが出来ないと分かっている主人公。口笛にはならなかった風を見送る。ということは、主人公は、どちらかで言うとくちぶえにならないことを選ぶ、ということだろうか。もういちど生まれてみてもいいけど、それはいいや、と僕は受け取った。正解はわからない。
章題が「でもたぶんどうしようもなく」だから、それはたぶんどうしようもないことなのだろう。
僕は生まれ変われるなら何になるだろう。もう一回自分に生まれ変わってみようか。女の子に、猫に、鳥に、魚に、海に……。うーん。やっぱりもう、いいかな……。

僕の高校の同級生に、とても純粋な子がいた。とてもとても純粋だった。過去形なのは別に彼女が死んだという訳では無い。その子はとても世界を見ていて、とても穏やかな人だった。のんびりしていて、「みんながのんびりできたらいいね」と言う子だった。その子と話す度に、僕は何も見えていないと思うが、その子には逆に色んなことをよく見てて凄いね、と言われる。そのたびに、ううん、見えていないんだよなんにも、見えているふりだよ、と思う。どうなんだろう。
瀬戸際レモンをよんで、その子を思い出した。蒼井杏さんが、ではなくて、作品が、彼女に似ている。だから歌がどうこうではないけれど、ああ穏やかだ、と思う。
彼女は、一度、つらいときがあった。そのときに話しかけてきた。僕はそこで、「生きる理由があって生きるような人になる必要なんてないよ」と伝えた。すると、「ふらっと歩いたりしてとしをかさねていくのかな」と言われた。

どれだけのんびりしていても、くるしいことは多々ある。くるしいと、どうでも良くなる。どうでも良くなんてない!と思って自分を励ますけれど、実際どうでもよかったりする。それで、適当に死にたいとか言ってみる。「死んじゃだめだ!」と言われる。ああ、しんじゃだめなのか、と思う。
それの繰り返しなのかな、とか思う。決してくらい意味ではなくて。

この歌集のタイトル。「物語の初め」を感じると先述したけれど、そのとおりで作品中かなりおだやかで澄んだ歌が多い。けれど、題名。「瀬戸際」「レモン」が入っている歌が、連続して二首出ていて、たぶんそこからの題名だと思う。

ここがたぶん瀬戸際でしたゆっくりとレモンの回転している紅茶

いちまいのきおくのたどりつくところ瀬戸際レモン明るんでゆく

下は比較的明るいけれど、上は切実で、くるしいところがある。「ここがたぶん瀬戸際でした」、この瀬戸際が、胸に直接入ってくる。瀬戸際が海のほうの意味なのかもしれないから、特定はできないけれど。

最後、あとがきに、(……は僕が省略した部分)「もしもひとが二種類に分かれるなら、わたしはむかしむかしからうまくそっちにゆけないひとでした。でも短歌は……私を受け止めてくれます。……どれほどわたしはすくわれてきたことでしょう。」とありました。よんで、息をするように泣いてしまいました。僕の俳句の経験と人生ともいろいろ重なって。

とても大好きな歌集でした。切実に僕たちは生きているんだなあ、と、ほんわりしました。くるしいことがあったらまた読み直して、ああ生きてるなあと思いたいと思いました。とても良かった。
こう記すとなんか暗いような、「生とは」みたいな印象になるかもしれないけれど、歌集自体はめちゃくちゃに良い明るいもので、そんな重いものでもないのでおすすめしたいところ。

以下ほかに好きだった短歌。最初の上五の部分だけを。
Ⅰ.パプリカの、板チョコを、青空を、わたくしが、花びらを、それが夢、ぼくたちの、目のふちに
Ⅱ.***くね?、おさとうも
各挿話がとても良きでした。

(蒼井杏『瀬戸際レモン』書肆侃侃房 2016年)

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