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静か について(メモ/詩)

 静か について   丸田洋渡


静かな言葉は静かに話されるべきだと思う。
静かな言葉とはどういうものか考えるが、私はほとんど持ち合わせていないのだろうということ以外は分からない。
持っていたとしても。
静かな言葉とは静かなものであるから、自ら静かな言葉であることを喧伝しない。
存在自体が静かであるということ。
本当に静かなものは、探すこと自体が困難である。
静かに話すということはどういうことか考えるが、私が話すことが出来る話し方の手持には無いということしかわからない。
声の大小ではなく、声質の問題でもなく。
静かであるということ。
静かに話すということは、話し方が静かであるということ。
先ほどと同様に、静かな話し方は、探すことが困難である。
静かに話されたとして、それを感知できるかどうか怪しい。話し方、というのはそもそも、空中に浮遊しているものであって、今こんな話し方で為されている、と明確に指示できるものでは無いのだろう。

もし私が、奇跡的に静かな言葉を持ち合わせていて、無自覚に、静かな話し方で話せたとき、私はおそらくそれに気づくことが出来ない。うるさく話していると自分では思っている。聞き手も、まさかそれが静かな言葉と静かな話し方であるとは思っていないかもしれない。

静かな言葉が静かに発される。
それは誰にも気づかれないことが条件なのかもしれない。
自分も含めて。

静かに聞くということと、静かな声を聞くということとは、大きな差異がある。
聞こうと思って聞けるものでも、話そうと思って話せるものでもないとしたら。

静かさについて書いているこの文章が、長くなればなるほど、静かな言葉からは遠ざかっている。静かな書き方ではないということ。

静かな言葉は静かに書かれるべきだと思う。
そう初めて思った日はいつだったか忘れてしまった。

逆に、静かではない言葉のことを考える。
が、それでは全ての言葉になってしまうような気がする。
本当に静かな言葉というものを、それが静かな言葉であるとして認識したことが無い以上、静かではないという状態でさえも、私は精確に認識できていないのかもしれない。
静かではない、ということが、体感として知らされているだけである。

静かである、ということも、体感としていつか知らされるのだろうか。
何に?

静かであるという状態が、本当は実在しないのか、実在はしているが認識できていないだけなのか。
潜在的に私のなかに広がり続けているとしたら。

私は、私自身に質問ができない。
自問自答という行為は不可能であると思っている。
問う人物と答える人物が同一で、問いの後に答えがあるという先後関係がある以上、純粋に問われて、純粋に答えられるということが不可能である。
私が私に問おうとするとき、私は答えようとしているし、何を問われるかも既に分かっている。
自分が答えられない問いを自分に与える場合には、既に、答えられないという答えが得られている。その上で、問いに適した答えで答えようとするのだから、自問自答とは、創作の言い換えに過ぎない。

私は、永遠に、私の声を、純粋な聞き手として聞くことは出来ない。
私は、私において、永遠に話者でしかない。

それは静かであるということに似ている。
少しでも動けば静の状態が崩れるとしたら、静は、自身に対して何も働きかけることが出来ない。
静は、静であるしかない。
自己に対して発される言葉というのは、うるさいものでしかないと、それだけは明確に分かっている。私は。

とすると、静かな話し方、というのは、その時点で矛盾しているのかもしれない。
話さない、ことが静かさに近づく手段だろうから。
でも、話しながら静かであるということは可能である気もしている。
これは単に期待でしかない。
私は、私の声を、新しい気持ちで聞くことが出来るのではないかと、ただそれだけを考えているに過ぎない。

この文章を書いている間、私は音声を発していない。
静かに書いている、ということになる。
でもやはり、無言であることと静かであることとは根本的に異なる。
私は、とてもうるさくこの文章を書き続けている。
静かな書き方ではない。

こうなった以上は、私は話し続けるしかない。

話さない私を、聞こうとすることは、難しい。
話さないことが初めから分かっているから。
私が二人存在すれば、簡単に解決できる問題なのかもしれない。

無言でこの文章を書いている間、頭の中には螺旋状に言葉が回っている。脳内のある所を通れば、手前にあるものから次々と、指を通って画面に打ち出される。
全くもって静かでは無い。静かにさせようと思ってこの文章を書いているまである。

頭の中を静かにするということ。
音楽を聞いているときは、比較的に大人しくしているような気もする。その音楽の聞き手に回らないといけないから、言葉も喋ってはいられない。言葉は椅子に座っている。
壮大な景色を見たときは、言葉が出なかったりする。あのときの言葉はどうしているのだろうか。次々に待っているような気もするし、空っぽな気もする。

言葉が、言葉になるのには、少し時間がかかる。
速いときもあれば遅いときもある。
頭の中を静かにしたければ、言葉が言葉になるよりも早く動けばいい。言葉化よりも早く。

つまり、私はこの文章を書き続けている以上は、頭の中が静かになることは無いということである。書き尽くす、という場合を除いては。

静かな言葉が静かに話されるということ。静かに書かれるということ。
それを、静かに聞かれ、静かに読むということ。
もしそれが可能だとして、その空間で渡される言葉は、とても美的な状態であると思う。
その言葉がどんな意味の言葉であろうとも。

俳句や短歌を書くとき、これは初めから、どうやっても静かにはなれない詩型だと思う。永遠に話者でしかない人物が、自分への問いも忘れて、滔々と話しかけているように見える。話し方や書き方自体が制限されていることに特徴のある詩型であるから、言葉の意味に頼るしかない。
これは直感でしかないが、静かな言葉というのは、その意味とは関係がない。というよりむしろ、意味が荷になってくるだろうと思う。意味よりも、それがある状態が肝心なのだろうと思う。
用意された場所自体も強制的に手が加えられて、意味を頼りに、世界を継ぎ足して類推していくというのは、静かになっていくのとは完璧に逆方向の動きである。

今、それがさも不利だと言うように記述したが、あくまで静かさという点においてであり、音を広げていく、音圧を大きくする点においてはかなり得意であると思う。〈古池や蛙飛びこむ水の音/松尾芭蕉〉、これほどうるさい句もなかなかないと思う。これを静かである、というのは、これは静かなものだとして必死に懸命に読もうとした結果である。これが俳句である時点で、これを静かであると読もうとしている時点で、それを必死に頭の中で想像している時点で、随分うるさい。だから、そのうるささこそに価値があると、私は感じている。
音が歪んだりむやみに増幅したりする、かなり現代的な音楽であると私は思っている。いかにも静かであるふうに発される言葉は、まるで悲しそうに弾かれるピアノのようである。

この文章の終着点を見失っている。私は静かさを短詩で体現したいという訳では無い。不可能であるからそれはしない。現実をそのまま追認したりそのまま機械的に描写したもの、そこから世界が全く発展しないもの、が一瞬静かに思えることもあるが、それは先に述べたように、静かさとは違い、無言に近いのだろうと思う。あると思っていた言葉がなかった。断崖のような。短詩の良いところはその静かさとは反対にある音の歪みや爆音や徹底的に話しかけてくる粘着質なところだと思っているから、私はそれを武器としたものばかりを作ってきたしこれからも作るのだろう。静かなふりをしたものを作ることもあるだろうが、それが一番うるさい。一番うるさい、を作るには、そのふり、皮肉を用いるのが良いだろうと思う。

現実の生活で聞こえてくる言葉は、静かさとは程遠い。言葉自体の状態も、その話し方や書き方も。静かさとは遠いことが最初から決められていて、音の表現をこちらで意図的に操れる短詩は、その分誠実である気もしていて、私には凄く好意的に映っている。
悪意のあるうるささは、静かさに近い。

だから、言葉と向き合うためには、言葉から離れるという段階が余計に必要になる。
人が言葉に近づきすぎて、ろくなことは無い。
見て分かるように。


まるで詩のような文章だが、これは詩ではない。

私は、初め、詩になるかもしれないと思ってこの文章を書き始めた。詩になればいいなとも思った。
でも、それ自体が、自分にとって詩にはならないことを意味していた。
私にとって、詩とは、初めから詩であるものである。途中から詩になっていく、ということはない。初めから詩であり、その傾向が強まっていくということはあるだろう。
私にとって、詩とは、責任を持つことである。初めから詩であるということとほぼ同じ意味だが、詩を作ろうと思って作られた詩でないといけないと思っている。私の作った短詩のすべてが、私が作ったということでなければならない。そうでないと、私が責任を取れない。
単に私が、責任を取りたいというだけの話であるとは思う。
例えば道端の子どもが、青空を見て詩のような言葉を偶然発したとき、それは私にとって詩ではない。詩的ではある。そして、それを私が聞いて、こんなことが聞いたという状況を考えて詩として改めて表現し直したとき、それは詩になれる。私が責任を取れるから。

これは静かさとも関係している。
言葉のランダム性、を面白がった詩というのは多々あるが、私には乗れるものと乗れないものがある。意味の無いランダム性、は、興味が無い。ただランダムに語を配置しただけのものは、とてもうるさい。うるさく、そのうるささに意味もない。静かな書き方ではない。それに、その言葉について、全く責任を取る気がないように見える。読者が詰め寄ると、言葉が勝手にやったことだから私には聞かないでと逃げていきそうな気がする。
本当にランダムな言葉というのは、別に書かれなくても、というか、そもそも最初から、言葉はランダムな状態にある。
ランダムであることが価値を持つとしたら、徹底的に、精確に配置されたものの場合のみだと私は思っている。最初に生まれたときから、最後に終えるまで、意図されたランダム。そして作者が責任をもっているもの。
意図された時点でランダム性は汚されると思う人もいるだろうが、私はそれは逆だと思っている。

言葉が静かであるということよりも、静かな話し方の方が、大事であるということを、最後になって思い出した。

静かな言葉は静かに話されるべきだと思う。
この文章を書き終えて更に思った。


20220721

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