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重い水辺

怯えた顔の友人が僕のもとに駆け寄ってきて、僕の手を取る。それに連れられて、辿り着いた場所にいた上級生に背中を殴られたあと、晩夏の川で友人とともに川に落ちた。

殴られるとき、友人は兎みたいな目をしていた。上級生に「やめてくださいよー、そろそろ痛いっす」とへらへらしていた。うまいことを言って切り抜けようとしているんだなと思った。
その上級生は、僕たちを「豚」と呼んだ。もしくは「カス」と。別に太っている訳ではないが、下僕、という意味でそう呼ばれた。
「おい豚共、川に飛び込んで何か拾ってこいよ」
BB弾の銃を片手に、僕たちに照準を合わせて、そう脅した。
川の底に何かがある訳では無い。ただ単に、僕たちを弄びたいという心からだろう。
「早く行けよ、撃つぞ、ほら、豚!アハハッ」
数発、友に弾が撃たれ、友はそのまま川に飛び込んだ。
「お前も行け」
僕は怖くて、それに続いて川に飛び込んだ。
僕は水泳が苦手だった。飛び込んだはいいものの、泳げる友のようにすいすいと戻っては来れず、上級生に高笑いをされた。僕が溺れるのを見て、笑っていた。
川を上がって、僕と友は、背中を思い切り抓(つね)られていた。
「痛いっす」
「分かってるよそんなの、カスはアホだな」
僕は一切言葉を発することは無かった。殴られて、背中の皮膚を抓られていても、友のように、やめてくださいと救済は請わなかった。いつ、逃げるか。ただその隙だけを狙っていた。

一瞬、上級生が殴り疲れて、手を痛そうにした。そこで僕は友の手を取って、思いきり逃げた。
「すいません、今日は帰らせてもらいますー」
さっきの友の言い方を真似て、僕は後ろを振り返ることなく叫んで言った。
上級生は笑って、BB弾の銃をこちらに乱射しながら、
「また来いよ、待ってるから」
走る僕たちの背には高速の玉が当たり、友は、
「痛いからやめろよ」
今度は小声で言っていた。隣で走っていた僕には聞こえた。

随分走って、なんども角を曲がった。どう追ってきても見つかりはしないような、廃れた知らない家屋の倉庫に二人で隠れた。追ってきていないことは分かっていた。だけど、二人共こうするしかなかった。
「あいつは誰なの?」
僕は彼に訊ねた。そもそも、僕はその上級生は初めて見る人だった。初対面の人に、何故か殴られたわけである。
「S。同級のMの兄で、二個上」
僕たちは小学校四年生だから、Sは六年生。小学生とは思えない躯体で、中学生と見間違えるほどだった。
女子のMに関しては、僕も彼も仲は良くなかった。Mの親は酷い親、かつ暴力団関係者、というのは噂でまわっていたから、好んで近寄る男子はいなかった。
「なんでSにこんな」
「分かんねえよ俺だって」
彼は肩を細かく震わせながら、狭い倉庫で大声を出した。
「学校でいつの間にか絡まれ始めて、金出せって言われて、断ったら川に来いって言われて」
彼はずっと震えていた。
「来てみたらなんか銃持ってるからやばいと思ったけど、すぐ殴られて。20分くらいして飽きたって言い始めて、誰か呼んでこいって言われたから、お前を呼んで」
僕が来る前に既に彼がやられていたということだった。
「何で俺を呼んだんだよ」
「仕方ねえだろ、呼ばなかったら何されるか」
突然言葉が途切れた。想像して怖くなったのだろうか。たしかに、Sは何をやるか予想ができない。何でもしてしまいそうな気がする。Sの家庭やS自身の悪い噂が頭を巡り、嫌な景色ばかりが想起された。

暫く、静寂が訪れた。
彼が僕を呼ばなければ、僕が傷つくことは無かったと、彼を責め立てたかった。しかし、彼が微かに震えているのが分かり、僕は何も言えなくなってしまっていた。

「殺す」

彼が漸く発した言葉だった。目は完全に殺意で冷えきっていた。僕はかつて、彼が包丁を持って、殺そうと人に走っていくところを一度見たことがあった。だから、本気なんだなと分かった。
「やめとけ、殺したって何にも」
彼の目が変わることは無かった。

廃倉庫の屋根の隙間に、赤い夕日がゆるやかに伸びていた。
僕たちは何も言わず、ただ最後に手を振り合って、家に帰った。

帰宅すると、親は既に家にいた。母はご飯を作っていた。いい匂いがする。
「どこで遊んでたの」
鼻歌のような軽さで、母が僕に尋ねてくる。僕は背中に冷たさを感じた。
「Kと、川で遊んできた」
「ちゃんと手を洗うように」
「はいはい」
僕は初めて、その日手を何度も何度も洗い直した。

​──────​─────

電気を消して、ベッドに寝転がり、ぼうっと天井を見つめていた。
今日は、一体何が起こったのだろう。何故僕はSに殴られ、川に飛び込まされたのだろう。そもそも、Sは誰なんだろう。鋭く、死後の魚のような目をしていた。常ににやりと笑うような口で、苦しむ僕たちを冷笑していた。
そういえば​──。
僕がSに背中を力強く抓られていたとき、Sは僕に、
「かわいそうだな、お前。本当にかわいそうだ」
何度も、呟いていた。
意味がわからなかった。勝手に友人に連れられてきていじめられて、大変だな、かわいそうだな、という意味なのだろうか。そうだとして、いじめながらそれを言う意味が全くわからない。
僕は目を瞑り、そのまま深く、眠りに落ちていった。Sの、「また来いよ、待ってるから」という言葉だけが、ずっと頭を回っていた。

​───────​────

僕はKと登下校の班が同じだった。朝集まって、列を組んで、学校へ行く。登校中、いくつか話はしても、昨日の話は一切しなかった。僕にはそれがかえって不安だった。彼が何を考えているのか、何もわからなかったからだ。

学校に着き、いつも通りの授業をする。Kとは違うクラスで、休み時間の会話にSが登場することは一切無かった。
休み時間、昼休み、放課後。
昨日のことを忘れようとしているのか、それとも他の子たちとの楽しい時間の方が、早く脳を占拠するのか、頭の中にはほとんどSのことは無くなっていた。
下校する際、また班を組む。Kの後ろに付いて、すたすたと帰る。
昨日の川沿いを通りがかったとき、Kが僕に話しかけてきた。
「Sが今度呼んできたら、一緒に行ってやり返そうぜ」
朝とは変わって、目は明るく、軽快な言い方だった。
「いいけど、もうSとはあんまり関わりたくない」
「そっか、そうだよな」
少しの間黙って、川を逸れたあたりで、
「じゃあ、俺一人でやる」
と言い出した。またやられるぞ、と僕は伝えたが、それで彼が止まることはないだろうと思った。

数日がたち、いつも通り学校に行く。
廊下でKと、ふざけた会話をして笑っていた。すると、階段からSの姿が見えた。
僕より先にSを感知したKは即座に逃げ出した。僕はそれに遅れて走り出そうとした。しかし、遅かった。
Sはまず僕を壁に向かって思いっきり押し付ける。そして一瞬の間に廊下を駆けてKを捕まえる。背後からKの首元を思いっきり握る。降伏したKはまた「やめてくださいよー」と言い始めた。捕まえたまま僕の元に来て、僕にも同じようにした。そして同時に腕で首を絞められた。もともとSは力が強い。僕もKも抵抗はするものの、それは無意味に近かった。
「逃げちゃだめでしょ」
Sは力を弱めることはなく、逆に強めていった。
「今度また日曜遊ぼう、二人共。返事は?」
僕は無視したが、Sの様子を窺うには、はいと答えない限り止めるつもりはなさそうだった。
Kと同時にハイ行きます行きますと言って、腕の拘束を解いた。
Sは笑いながら、
「じゃあ楽しみにしてる」
と手を振って階段を下りていった。今の様子を見ていたSの友達が、Sに、あの二人は誰かと、僕達を指さして尋ねていた。Sは、「面白い後輩」と言っていた。
僕たちはすぐさま離れた。今ここで何も起こっていませんでした、というような、平然とした顔で、教室に戻った。

最終時限が終わり、皆わいわいと喋りながら下校していく。僕たちの班はとても静かだった。
僕とKはもう、軽いS恐怖症的な感覚でいた。会えば確実に何か酷いことをされる。廊下で会わないように遠回りをして教室を移動したり、もし見かけたらすぐ隠れるか、逃げる。
無意識に僕たちの班は、川を通らなくなっていた。
そして、二人とも、直接は言わないけれども、無言のうちに、「限界」を共有していた。これ以上は我慢出来ない、次またいじめを受けたら、学校だとしても殴り返して階段から落とす。そういう、我慢の限界が、ぐんぐん近づいてきていることを二人とも薄々わかっていた。
「S、殺すしかないな」
Kは、底ぬけに明るく言った。
「殺すならどうやって殺す?」
僕はその明るさを信じて、Sについて話すことを選んだ。
「刺す」
彼が包丁を持っていた光景を思い出す。
「刺したら血も出るしバレるよ」
「じゃあ埋める」
「埋めるの良いかも」
「埋める前に、殴りまくって、溺れさせて、首絞めて殺す。それから埋めようぜ」
どこまで本気か全く分からなかったが、やり返したいという思いは僕にもあった。
「都会はさ、ドラム缶に死体入れてコンクリートかけて太平洋に沈めるらしいよ」
「それ最高。でもコンクリートいくらするんだろ」
「分からない。けど、○○地区にコンクリートの会社あるからそこで貰えるんじゃない?」
「それ貰うときにバレるやつ」
「あ、確かに。これはだめだ」
笑い合った。夜に見たテレビの話をするように、将来の想像をするように、明るく笑いながら、Sの殺し方について笑いあっていた。
冗談だというのはKも分かっていた。しかし、僕たちにはそういう逃避がないとやっていけない苦しさがあった。
彼は僕の前に駆け出し、くるりと回って、僕の方を向いて、
「絶対これだけは確かに言えることがある」
後ろからの夏の光で、彼の表情はよく見えなかった。
「あいつは、絶対に死んだ方がいい。絶対に」
強い言葉だった。そして、僕にはささやかな祈りのように聞こえた。死んだ方がいい人だって、いる。
「うん」
僕は強く頷いた。

親がまだ帰ってきていなかったため、持っていた鍵でドアを開け、家に入った。
自分の部屋にランドセルを投げ、とりあえずベッドに飛び込む。窓が閉まっているのが嫌で開け放つ。
なんだか気が塞ぐから、学校で配られる防犯の笛を手に取り、思いっきり吹く。
ピーーーーー。
もちろん、何も起こらない。笛を思い切り投げ捨てて、またベッドに飛び込む。
天井を見上げる。ダサい柄が描かれている。
首に手を当てて、首がここにあるのを確認する。
これを絞めたら人は死ぬのか。なんて簡単な生き物なんだろうか……。
人を殺すことは、呼吸と同じくらい簡単なのだろう。僕は深呼吸する。Sにとって、人をいじめることは、どのように映っているのだろう……。

いつの間にかうとうとと眠りに落ちていて、気がついたときには母も父も帰宅して、ご飯まで出来上がっていた。

​───────​────

食後、お風呂に入る。似たようなことを思いながら、丁重に体を洗う。
お風呂をでて、ぽかぽかした体を拭く。若干のぼせて、ふらりと揺れる。壁に手を当て、自分を支える。髪、胸、背中、脚……と拭いているとき、後ろから大声が聞こえた。
テレビで笑っている父親の声か。僕はのぼせたままで、まだ意識がふわふわとしていて、よく分からなかった。
「おい、何それ」
はっきりと聞こえたとき、後ろには父がいた。
「え?何が」
「それ、背中の」
背中?背中には何も無いはずだ。
「背中が何?」
「酷いぞ。緑の痣みたいなのと爪の跡がびっしり」
脳に川の映像が映し出された。そうか、Sにやられたあのときの跡が残っていたのか。背中は自分では見えないから、分からなかった。
これは、と説明しようとしたとき、僕の中でなにかが拒否をした。
「なんでもないよ、この前階段で転んだ」
気付けば口が嘘を言っていた。僕は言っていない。口が勝手に嘘をついた。おそらく、いじめられていることを親に伝えることを、拒否したのだろう。いじめを告発するチャンスだったが、それよりも、親に知られること、子としての自分が傷ついているのを知られて心配をかけることを、恐れた。
しかし、親はその嘘には騙されなかった。
「転んだだけでこうなるわけがない、ちゃんと説明しろ。まず服着て」
ああ、まずい。まずいことになった。僕は被害者であるはずなのに、血が冷めていくのを感じた。裸のまま一度ベッドに飛び込んで、ため息をついてから、服を着た。父が隣の部屋で、母に説明している。母も大声を出して驚いている。まずいまずい……。

僕が悪いことをしたみたいに、親に問い質された。
「何があったか正直に話して」
僕は上半身の服を手で上げ、背中を親に見せながら、答えた。
「Kと普段どおり、川で遊んでて」
「いつ?」
「先週くらい……」
父は背中を見て、これは酷い、と何度も言っていた。
「Kと遊んでて、そしたら上級生のSが来て、ふざけた感じで、ノリでやられた感じ」
親に伝えてしまいたくないという思いがかなり先行した。
「ノリで?ノリでこんなになるか?」
父母は背中を見て言う。
「いかん、これは酷すぎる。先生に連絡する」
先生に連絡、という言葉を聞いて、頭が急に混乱した。それはだめだと言うサインを、脳全体が出していた。
担任はかなり厳しい先生で、普通に胸ぐらを掴んで生徒を殴ることもする人だった。体罰だと言う生徒はいなかった。なぜなら、それを誰かに報告することで、担任にばれて、やられると思うからだ。
特に僕は、つい先日に、学習カードの嘘で、怒られたばかりだった。毎日膨大な量の音読と宿題を強制させられる意味を感じず、やらずに、嘘を書いていた。やらなくても勉強はできていたから、する意味などないと、ズルをしていた。そして給食の時間、全員の前で、40人分の厚紙の学習カードで頭を三度、思いっきり叩かれた。僕は何も言い返さなかったため、担任と一言も口を利かない関係ができていた。

担任に知られる……。担任とまた険悪なムードになって、叩かれるのではないか……。
そして、同時に、Sのことも想起された。学校に報告するということは、Sは呼び出されて怒られるというわけだ。つまり、僕かKが学校に言ったことが露呈するということだ。その後でSに倍にいじめられるに決まっている。

僕は全力で拒否した。
「だからノリだって。気にすることないし、自分達だけで解決する」
親も全力で拒否した。
「子どもだけの問題じゃない。ちょっとじゃれ合うくらいなら全然構わないけど、これはあまりにも酷すぎる」
父はそう言って、携帯で担任の電話番号を押した。時刻は夜九時を過ぎていた。担任に繋がるまでの間に、母に指で、僕の背中を撮るように合図した。この痣が治ってしまってはいけない、状況証拠だ、というふうな扱いだった。
母が撮った写真を見ると、僕の予想以上に酷かった。キャンパスに緑色の絵の具を撒き散らしたように、背中が満遍なく青かった。そして爪の、短い縦や横の傷が首の下辺りに集中して着いていた。それを見て、もうこれは止められないものだと観念した。

先生が来ると確定して、来るまでにその状況を今一度説明してくれという事だった。
僕は、「Kと上級生がいる所に自分が行って、一緒にノリで遊んでて、そこでやられた。ちょっと痛かったから、断って、Kと帰った」と説明した。すると、母が、
「それだけ?その日凄い靴が濡れてた気がするけど」
と言い出した。よく見てるなと感心するとともに、靴を隠さなかった自分の不備も感じた。
「えっとそれは、Kと一緒に遊んでたやつだから、関係ない」
そこで、先生が来た。

父が玄関で対応して、担任が「失礼します」と言って入ってくる。学校では聞いたこともないような、大人しい、良いように聞こえる声だった。
「これなんですけど、見てくださいこれ」
父が、背中を見せろとアイコンタクトしてきて、僕は嫌々背中を見せる。
「これは……」
先生も絶句していた。

「ちょっと事情を知りたいんですが、いいですか?」
いつも母が座る位置に先生が座り、それに対面する形で僕が座る。僕の左側に父と母がいる。
父母は僕に説明を促した。さっき言った話を繰り返す。
「……で、終わりです」
先生はメモを素早くとっていた。
「間違いない?」
死んだ目で僕に確認してくる。
「はい、多分」
多分、と言ってしまったことには、誰も引っかかっていなかった。

先生が帰り、親はざわついている一方、僕は毛布に潜り込んで、頭を抱えていた。
どう行っても不幸しか待っていない。先生には怒られ、Sにはもっといじめられ、親には心配と怒りを与え。どうしたらいいのだろう、明日Kにはなんて言おう、と悩みながら、僕は眠りに就いた。

​───────​────

翌朝。登校中、Kに昨夜のことを素直に伝えた。
全てを聞き終えて、
「そっか、残念」
と言った。何がどう残念なのか、その時には分からなかった。

朝の会の後、担任に呼ばれた。
「昼休み、相談室」
僕の顔も見ず、ただそれだけを言ってきた。

昼休み。友達が教室や廊下で遊んでいるのをすり抜けて、相談室へ向かった。
担任が、紙とペンを持って、座っていた。
「昨日の話、もう一回ちゃんと細かく話してくれる?」
僕の目を見ることは無い。僕は先日学習カードで叩かれたのを根に持っていて、先生を睨みつけながら、話した。
僕の話を聞き終えた後で、先生は一つ聞きたいことがある、と尋ねてきた。
「昨日、お前の親御さんが言ってた、川で遊んでて靴が濡れてたりして、って言うのは、どういうこと?本当に遊んでたの?」
初めて僕に顔を向けた。僕は睨んでいるので、睨み合いの形になる。
「本当の事を言えよ」
僕は、不思議と、親の時と同じ感覚を抱いた。この人に、全てを伝えるべきではない。いや、伝えたくない。そして同時に、Sに対しての怒りが一瞬湧いた。
「本当は、Sに、川に突き落とされました」
ここで僕は嘘をついた。しかし、あの状況で川に飛び込まない以外の選択はなかった。突き落とされたも同然だと思った。
「間違いないな」
「はい」

相談室を出るとき、先生に「多分明日、Kにも話を聞くことになるから」と言われた。

下校時、僕はKにそれを伝えた。
「分かった」
「一つだけ揃えたいんだけど」
「何?」
「川には、突き落とされたことにしよう」
「分かった」
少ない会話だった。僕たちはまるで一緒に人を殺した犯人のように、ひそひそと会話をして、そのまま帰った。

家では心配され、食事中はずっとその話でもちきりだった。Sの家族を非難するような言葉が次々に交わされた。僕はもう色々、耐えきれなかった。

翌日、昼休みにKは呼び出され、同じように経緯を聞かれた。そこで得た情報が、Kの担任から僕の担任へと渡され、どれほど一致しているか照合される。
Kは僕が来る前から、もっと遡ればその数日前から、Sのいじめを受けていたという事だった。だから、重なるのは当日のことだけであり、もちろん、川に落とされたという点も含めて、完全に一致した。

動きがあったのは、その翌日だった。
Kが聴取を受けていたとき、同時に6年生のSも、その担任に話を聞かれていたらしい。
そして、朝の会のあと、担任は僕を手で呼んだ。

「お前、また、嘘ついたか」
冷淡な声だった。
「何のことですか」
「お前、なめてんのか?」
僕は答えなかった。
「おい、お前は教師をなめてるの?」
とても静かで、かつ高圧的な声だった。周りの生徒は、僕が普通の会話をしていると思っていると思う。
「いいえ」
チッ、と明らかに聞こえる音で、担任は舌打ちをした。
「川には本当に落とされたのか?」
「はい」
僕はSに対する感情と同じように、ただ隙だけを探していた。
「あっそう」
僕を無視して、職員室に戻っていった。
それを見ていた友だちが僕に寄ってくる。
「何かあったの?」
「別に。なんにも」

Kも、担任からその話を受けていた。下校時、川の近くの道で、説明された。
Kの担任は優しい担任だったため、詳しく説明を聞いたという。
Kによると、今Sを、生徒指導の先生が怒っていて、話を聞き出したら、「いじめじゃなくて冗談でやった」、「力を入れたつもりは無かったからあざになるとは思ってなかった」、「川に落としてはない」と言っているらしい。
僕は驚愕した。全くの嘘だからである。
「酷い」
「明日、決着をつけるらしいよ」
「決着?」
「聞いてない?」
「聞いてないよ何も」
「Sと俺とお前三人を呼んで、事実確認をして、Sに謝らせるって」
全く聞いていないことで、それにもびっくりした。
教室は4-1の下の教室で、クラスの教室ではないが相談室よりも大きな教室だった。
「明日学校行きたくない」
「分かる」
僕たちはどこか不安なまま、バイバイをして別れた。

​───────​────

朝の会の後、先生に呼ばれ、昼休み自教室で待っておくように言われた。
決着。S本人から謝られる。形式的にいじめは解決される。本当なら嬉しいことなのに、何故ここまでもやもやしているのだろう。

昼、給食を食べた後、席に座って窓の外を見ていた。晴れ渡っていて、開いている窓から風がするすると入ってくる。もうすぐ来る秋の涼しさを乗せて、教室に膨らんでいく。
ドアのそばで僕の名が呼ばれ、声の方を向くと、先生が居た。来いと合図を受ける。
先生の後ろについて行き、下の教室へ向かう。

入れと言われ、ドアを開ける。
「失礼します」
「はい、そこに座って」
「はい」
言われた通りに座る。
僕はこの事態の大きさを、初めてそこで知った。
Sが向こう側に座り、Kが僕の横に座っている。そして、その周りには教師がたくさん居た。僕の担任、Kの担任、Sの担任、六年の学年主任、生徒指導、教頭先生。計6人である。
生徒を囲むように教師たちが立っていて、僕は無言のうちに責められているような感覚に陥った。
「えー、これはSくんがKくん、Yくんへのいじめをしたことについて、整理と、解決を試みる時間です。正直に話してください」
生徒指導が一言目を発した。僕の斜め前で、担任が壁にもたれながら僕を睨み続けている。
「Kくん、Yくんが受けたいじめについて、昼休みの聴取で得た話を私から説明を致します」
加害者の前で被害者が語るのは気の毒と感じたのか、Kの担任が説明をした。
「まず初めに、KくんがSくんに以前からいじめられていた。そして、八月○日、Sくんは○○川でKくんをいじめていた。それに飽きたSくんが他の人を連れてくることを要求し、Yくんが呼ばれた。そして同様に、背中を殴られる、抓られる、BB弾で撃たれる、等の暴行を受けた。川にも突き落とされ、二人はSくんから逃げる。九月○日、Yくんの親が背中の痣を発見し、学校に通報。以上が今回の流れになります」
僕が嘘をついていると責めていた僕の担任は、Kの担任の話中ずっと僕を睨んでいた。教頭は、話を聞きながら時々ため息をついていた。
「Sくんは、今の話を聞いて、何か言いたい事とかはありますか?」
「川には落としてません」
こちらを真っ直ぐに見て、言った。周りの教師の視線と、この空気感に迫られているのが重なり、僕はKの表情を見ることは出来なかった。
「と、言っていますけど」
生徒指導は僕の方を見て言った。
「落としました」
僕より先に、Kがそう言った。
「落としました」
僕も続いた。
「Sくん、どうですか、言い返したり、言い直したりすることはありますか?」
「ありません」
僕たちを凝視しながら、少し笑ったような口許でそう言った。光が教室に差し、暖かいぽかぽかした昼の時間だった。その中で、僕とKは、Sと無言のまま戦争をしていた。
Sの言葉に異論を挟む教師は居らず、生徒指導が続けた。
「Kくん、Yくんは何か他に言いたいことはありますか」
「特にありません」
「そうですか……」
周りの先生達が僕たちを見つめている。
「じゃあ、謝りますか。Sくん、立って」
Sは立ち上がった。

「いじめて、すいませんでした」

それだけだった。単純で明快な、シンプルな謝罪だった。浅い礼が、30秒ほど続いた。その後ろで、Sの担任が、頭を下げていた。
今、Kは、どういう表情で見ているのだろう。

「先生方、何か言いたいことなどあれば」
「はい」
「あ、どうぞ」
僕の担任だった。Sの方を向いている。
「Sくん」
「はい」
Sは立ち上がったままで、先生の方に体ごと向けた。
「君は、酷いことをしたっていう自覚はある?」
「あります」
「じゃあ、二度としないね?」
「はい」
練習したかのように、変わらない声の即答だった。
「それだけです」
教室は静かになった。
「……じゃあ、終わりにしますかね。掃除も始まるので」
僕とKは、失礼しましたと言って、先に退出した。僕たちの担任も外に出たが、それ以外の人たちはまだ教室にいた。Sはもう少し何か言われるのだろうか。

僕は運悪く掃除が自教室だった。廊下で雑巾を絞っていたら、先生が寄ってきて、
「もう二度とお前を信用しないからな」
と言った。僕は、
「はい」
とだけ言った。多分、返答としては不正解だったと思う。

​───────​────

帰り道、Kと敢えて川をに沿って帰った。
秋の予感が漂い、川は寂しそうに流れていた。
Kは僕たちが川に指図で飛び込んだ場所をしばらく見つめて、
「俺らは落とされたんだよ」
その呟きで、僕は随分楽になった。
「うん」
「それにしてもさあ」
近くに落ちている石を拾って、Kは思い切り川へ投げた。
「あんなに先生来るのびっくりした」
「教頭まで来てたもんね」
僕も彼に倣って、小石を川に向かって投げる。投げる力が弱くて、川に届かず草むらに落ちる。もう一度、一回り大きな石を握って、思い切り投げた。ぽちゃん、と音をたてて川底に沈んでいった。
「一応、Sには近寄らない方が良さそう」
Kも同じことを思っていたのか……。
「あいつが卒業するまでは危険だな」
「ああ」
僕たちはその後、自然と、共に遊ぶことは無くなっていった。

​​───────​────

小学校を卒業するとき、その一件を思い出していた。あのときは親にバレてしまったと思ったが、バレなければならなかったと思う。もし、あのタイミングでバレなければ、KはSに何か危害を加えに行ったかもしれない。僕たちは日々Sにびくびく恐れなければならなかったかもしれない。強制的に解決する出来事が起こらなければ、僕たちは容易に沸点に達していたと思う。
僕が親に背中がバレたとき、Kは残念と言った。あれは殺せなくて、やり返す機会を損なわれて、残念という意味だったのではないか。

そして、僕がSにいじめられていたあの日の、「かわいそうだな、お前」という言葉を思い出す。もしかすると、あれは、思いやりだったのではないか。
あの明るい教室で謝ったSは、僕はとても軽薄に見えた。無感情に。ただ、口だけが動いて、音が出て、角度を変えて、礼をしたように。
Sに感情など無いのかもしれない。唯一、「かわいそうだな」と言ったあの瞬間だけ、純粋に哀れに思う気持ちが湧いたのではないだろうか。
かわいそうと言いつつ攻撃を続けていたのだから、思いやりも何も無いではないか、とも思う。

どちらにしても、僕にとってはもうどうでもいいことだ。関わりの無い、ずっと過去のことだ。

​───────​────

中学に進学すると、楽しい時間が沢山溢れていた。
僕はあれ以来、別の件で小五、六のとき周りの生徒からいじめられていた。直接的な、身体的なものではなく、精神的なものだった。おそらく、いじめる側からすると冗談やノリのつもりでやっていたのだろうが、周囲のほぼ全てからそれを毎日言われ続けて、僕はかなり疲労していた。
一応解決してはいたが、周囲にそういうイメージは多少あったため、疲れていた。しかし、中学からは、半分ほどが他校からの生徒なため、それを知らない人が多くなった。その分、不条理ないじめからは脱却して、楽しく生活していた。

部活は強制で、嫌だったが、中でも一番好きだったテニス部に入った。その頃Kとはほとんど話さなくなっていたが、Kは他の部活に入った。
テニス部の部活見学に行くと、そこにはSが居た。

予想していなかったし、そもそもSがこの中学にいることすら失念していた。
体や意識がすぐに拒否して、なかなか気が向かなかったが、他の部活に入るのも苦しく、仕方なく入った。
正式に入部して挨拶するとき、Sは僕を一度見て、にこっと笑った。ああ、またいじめられるのだな、と思った。
挨拶のあと、Sが近寄ってきて、笑いながら、
「よろしくね!Yくんだっけ?」
と言ってきた。僕は、はい、と返した。
「え、S先輩ってYのこと知ってるんですか?」
僕の友人が尋ねる。
「うん、知ってる知ってる。よろしくねー」
最初、何を考えているのだろうと恐怖でいっぱいだったが、徐々に分かった。彼は、あの件のことを微塵も、重大なものとして考えてなかったのだ、ということだ。あのときとは他人みたいに、初めまして名前は知っていますという風な顔で接してくるのだから。
「よろしくおねがいします」
僕は、あの時のSと同じくらいの浅い礼をした。

テニスコートは学校に無く、放課後すぐに自転車でコートまで走り、そこで部活をし、そこで解散する。部活から帰る道はいつも川沿いだ。川に沿って、土手を走る。友だちと一緒にだいたい3人で、一日を癒すように話し合って、帰る。
帰る頃にはだいたい夕日は沈み終わっていた。だから、川の水面は暗く、水際全てが沈んだ澱のように黒く、重い。
僕は自転車でその暗い川沿いを通るたびに、川に映るSの無垢な思いやりを横目で見ていた。

(了)

​​───────​────

(追記)
99%実話です。僕がYくんです。1%の嘘は、Kと隠れたのが夕暮れ時の倉庫という所です。
そして、この体験を元に出来たのが、僕の句、

水際のいじめ泥深き黒の夏/丸田洋渡

です。句の読みのひとつとして参考にしてくれれば幸いです。
いじめられた話を書きましたが、いじめる側に回ったこともあります。良くも悪くも、子供は暇で、純粋だなと思います。人を傷つけて楽しむより、人を幸せにしていっしょに楽しむことを考えるようになりました。もし読んでくださった方がいれば、その方に少しでもなにか響くところがあれば、嬉しいなと思うばかりです。
(2018/03/02)

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