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日記ならずのための儀式

 日記にしようとしてメモしていたものを、昇華しなかったとき、そのメモは日記にならなかったもの、すなわち「日記ならず」になる(未成年、と同じ言い方で、未成日記と呼んでもいいが、語呂が悪い)。

 ただの書き残しなら破棄すればいいものの、「日記にしようとして」書き残したものは、未来に何かになる気配を残していて、冬の花芽を剪り落とすようで気が引ける。いつか成就しそうな呪いの人形みたいで、ただ捨てるだけではない、何らかの儀式を要するような気がする。

 だから、今からその儀式のようなものを行う。

 最も簡単な方法は日記にしてあげることだと思うが、それはできない。日記は、間欠泉くらいのイメージでいて、書きたいことが生じたその日のうちに書いてしまわないと、日記として面白くないと思っている。その日に書いてしまえないような(これを書き記さでおくべきか と思えないような)ものは、そもそも日記に書くような話の種ではない。それはツイートやメモでよく、日記に昇華してやるまでもない……と思っている。
 ''儀式''について一通り考えて、日記にならなかったメモの状態のままで敢えて貼り付けて列挙しようと思っていたが、日記ならずからの変な視線を感じても怖いし困る。
 服くらい着せてあげなければということで、''日記ならず''に、現実7虚構3の割合で話を盛って推敲して、ひとつずつ''日記のようなもの''にしていくことにする。完全に嘘でもなく、思ったことでもなく、日記にはならないが、日記ならずでもなくなるように……。

 このことにどれだけ意味があるのか、そしてこれを私(筆者)以外が読むことにどれだけ価値があるのかは分からないが、供養ってだいたいそんなものだと思う。意味があるとかないとか、そういうことを議論すること自体の意味すら無化する、意味のわからない行動。


1.

 曲を聞きながら文章を書いていると、その曲に引っ張られることがある。楽しい曲を聞いていると楽しそうな文に、悲しい曲だと悲しそうな文になる。それにうっすら気が付き始めて、神聖っぽい曲に自分から''引っ張られにいった''とき、偽・神聖な文章が自分から出てきたことに、かなり強い抵抗があった。こういう書き方ではいけない、ほんとうの「神聖」に顔が立たない、と思った。
 何となくいい話で終わらせたい、みたいなときは良い曲を聞いておけばよく……と考えていたら、24時間テレビの最後の「サライ」ってそういうことだな と思った。

 サライを思いだすとき、いつも加山雄三の筆名の弾厚作を思いだすが、それが同時にいつも『虚無への供物』のときの中井英夫の別名義「塔晶夫」を引っ張ってきて、三文字界隈 と勝手に名付けている。

2.

 ガソリンスタンドに寄った。だいたい夜に行くことが多い気がする。いつも行くたびに、変な施設 と思う。なぜか寂しい感じがする。きっとそれは自分の記憶の偏りに因るもので、ガソリンスタンド側に非はない。

 バイオハザードとか、ゾンビ映画の印象がまずある。追いかけられて、逃げるための車の燃料確保……。
 SPECの印象もある。林実に憑依されてスタンド店員が客のバイクにガソリンをかけまくるシーン。ライターで燃やされそうになるのを瀬文(加瀬亮)が蹴って止めるシーン。狂っていて緊迫感。
 町田洋の印象もある。出てきた記憶は無いけど、ディストピアの地球でも残ってそうな。
 シェルブールの雨傘の印象もある。ジュヌヴィエーヴとギイが再会するシーン……。あれが一番悲しい。

 そういう印象の重なりの中でガソリンスタンドが捉えられていて、今その中に自分が居ると思うと、寂しかったり焦ったりする。
 ガソリンスタンドだけでこれだけあるから、きっと、無意識にどの場所、どの事物においても同じように蓄積があって、重なりがある。そしてそれは成長に伴って進化・変化する。人によってもおそらく違う。
 これを逆に利用して、 目の前にあるものが変わらないのなら、どう思うかを変えてしまえばいい……。世界をゆっくり更新していきたい。

3.

 主に労働によって可処分時間が減っていくなかで、何かをしたいという欲求は反して増えていく。できなくなっていくのにもっとしたくなる状況が、老いてもなお同じように訪れやしないかと今のうちから怖い(体がほとんど動かなくなってから球技がしたくなったり、目が見えなくなってきてから読書がしたくなったり)。
 きれいな反比例で、欲求は可処分時間が減るほどに強くなってきた。それはおそらく、何かをしたいからということでは実は無く、「こんなにしたいことがあるのにそれをする時間が無い」「したいこともできない」という理屈で、労働のような可処分時間を減らしてくる敵について裏から攻撃がしたい、ということだとうすうす分かってきた。

 こんなにも私は阻害されている、と言いたいがために、「こんなにも」の証拠集めに勤しんでいる。初めからそんな証拠が無いとしても、無理やりにでも。
 限られた時間の中で、その膨らんだ欲求をどのようなかたちで解消するかが、私たちの尽きない悩みというもので、最近の私はというと、力技で「全部同時にやる」を選択し始めた。(''し始めた''という言い方になってしまうのも、遠回しの攻撃の一種であって、「し始めてしまった」や「(他の要因によって)選択せざるをえなくなった」というニュアンスを、せいいっぱい保存しようとして、だと思う。)
 結果、なんとなく色々出来てきている気になって、欲求が逓減した。やりたいことは全部やるのが、自分にとって正解なのかもしれない。

4.

 本来、日記は、注釈をつける必要が無い。自分が書いて自分が読むのであれば、マニアックなものに言及したとしても、自分自身はそれを知っているので、わざわざ説明する必要が無い。
 でも、他人に公開することを前提として日記を書いている以上、読者がある程度分かるようにしておかなければ不親切であり、それによって文章を変える必要がある。
 注釈を付けたりして説明するか、一般の読者が分かるレベルにまで下げるか、その話自体を止めて別の似た話にすり替えるか。

 そういう、相手に合わせてこちらが表現を変えるときの脳内でシャッフルされる比喩の、そのシャッフルを実感しているときがかなり楽しい。
 本当はHUNTER × HUNTERで例えようとしたけど、この人は読んでいないから、源氏物語で例えることにしよう、みたいな。それが高速で行われるときの、脳内の忙しなさ。

 誰かと喋っているときは、喋りながら相手にチューニングを合わせに行けるので、例えば「ONEPIECEを読んでいるがアラバスタ編で止まっている」まで分かれば、W7編の話はしないでイーストブルーだけで例えよう、みたいな塩梅でやれる。(霜降り明星がまさにコンビ内でそれをやっている)。
 でも文章となると、それが不可能なので、だいたい自分の文章を探して読んでくれるような人はこういうジャンルのことに興味があるはずだ という印象に基づいて、比喩のゾーンを見定めていくことになる。それに加えて、このボケには注釈が必要ない、むしろ全く誰も知らない比喩をなんの説明も無く滔々として、ふつうに次の内容に移っている方が面白い、という選択肢もある。

 ○

 だから、日記を書こうとするとなると、まず読者の層を想定して、比喩の範囲を決めて、どこまでなら説明がいるかを考えながら書く必要がある。比喩に限らず、過去の文脈とか新情報とかも、毎回その精査が入ると思っていい。
 となると俄然めんどくさく、いちいち考えながら変えながら喋る必要があって、なかなか人に見せる前提の日記は書ききる気力がもたないことが多い。それに、「読者の層」を想定するとき、「その層は自分の何を求めて読みに来たのか」という思考の段階も必ず差し込まれるため、自分を見る時間が発生する。あったことを気軽に外に出そうとして日記という手段を選んだのに、自分を見つめるという一番厄介な内省が毎回発生するのが、非常に動きづらい。

 自分が自分を監視しているとき、(それに丁寧な計算で応えられないとき以外は)まともに良い文章は書けない。緊張してしかたない。メルエムを前にしたウェルフィン、もしくはイムを前にしたコブラ王 みたいな。

飛行機は、雲の上に出られる快感とともに、宇宙に直通してしまった感覚がして、いつもより深い青空が怖く思える。

5.

 順番が逆だったら、と思うことがある。
 プールに浮かんで遊んでいた記憶があり、そのずっと後に、本が好きになって、古書店の経営はそれはそれで大変らしいという情報を知った。

 これが逆だったらどうなっていたんだろう、と想像する。

 古書店の経営は大変だ、と思いながらする水泳は、簡単に思えてしかたないのではないか。水温も生ぬるくなって。
 今「浮かんで遊んでいた」と表現したのは、私が全く泳げないから浮かぶしか無かったということだが、それでも遊ぶのは好きだったから、町のプールへ夏には行っていた。古書店のことを先に知っていたら、プールに行かなくなっていたかもしれない。泳げもしないのに友だちと遊んでいるのが楽しいからプールに行っていた無邪気さは、労働の苦痛とはかけ離れたところでしか生じないように思う。

 生まれたことと記憶することが、逆だったら、どうなっていただろう、とか思う。

6.

 レモネードの原液をシンクに流し捨てる。水で洗い流すとき、排水管のなかでレモネードが疎らに完成していることを思って少し気持ちが悪くなった。

 生きている私が、途中でなにか完成しかけているものがあるとすれば、それは「人間」なのかもしれない……。

7.

 漢字が好きだから、漢字テストで間違えたことはほとんどなかったし、国語のテストの最初の漢字読み書きの数問が15秒以上かかったことなんてなかった。
 なのに、唯一全く思い出せなかった漢字があったことを、昼、濃く作りすぎた麦茶に水を入れているときに思い出した。

 高校の県の国語のテストで、文章中の傍線部を漢字にせよの問題で、
「井戸は水をタタえていた。」
 のタタえるの部分の漢字の書き取り問題があった。こんなの簡単だ、と思ってシャーペンを紙に付けた瞬間に全ての記憶が吹き飛んだ。脳内に暴風が吹いた。一回白紙になって、ちょっと粘ったものの片鱗すらも出てこなくて、一回スルーして他の問題を高速で解いたあと(他が合っているというわけでもなくて、自分が漢字で間違えるということが悔しくて、他がだめだめでもこの一文字が当たってさえすれば自分は満足だから、と思って8割くらいの気持ちで飛ばして解いた)、先頭に戻ってこの一文字だけに20分くらいを残して再チャレンジしたが、結局何も歯が立たずに終わった。解答欄に何かは書く、というのがポリシーだったが、この時ばかりは本当に何も書けず、綺麗な白い枠を提出した。

 チャイムが鳴った瞬間に友だちに聞くと、彼は嬉しそうに私の問題用紙の隅に「湛」の字を書いて示した。そのとき、吹き飛んだものが全部戻ってきて、完全に思いだした。この「湛」を思いだすための回路のことを思い出した。友だちは、勝てて嬉しいみたいなことを言った上で、「すぐ分かった」とか「これしか考えられない」とかさんざん煽ってきて面白かった。
 でも別に、悔しかった記憶としてではなく、今は嬉しかった記憶としてある。私に解けないちょうどいい問題をありがとう、というラスボスみたいな気持ちが半分、考えている間ずっと「水を湛えている井戸」のことを思っていたことが美しかったのが半分。空想の井戸にあれだけ水を溢れさせていた時間というのは、死ぬまでにもう無いだろうと思う。

 あのときはHUNTER × HUNTERを読んでいなかった時期だからこの比喩は発生しなかったが、読んだ今だと、友だちが書いてくれた「湛」を見たとき、センリツが春の歌を奏でたときくらい、脳内に花野が広がった。

8.

 死んだら終わりだから という言葉を、励ましとして人に使った。その数日後、あれは実は脅迫になっていたかもしれないな、と一部分が欠けた皿を洗いながら気づいた。
 死んだら全部終わりだから、死なない程度に抱え込まないで楽にやっていきましょう、くらいの意味で話していたが、死んだら終わりなんだから死ぬまでにやりたいこと全部やらないと! だめでしょ! みたいな圧をかけてしまったかもしれないなと反省。
 人には人の生きるスピード。
 
「湛」のときと同じように、自分は、何かをきっかけに遠い何かを思い出すことが多い。
 むしろ、何かを思い出すために何かを''きっかけとする''ことが多い。過去を思い出すことが結構好きだから、何もかも思い出すきっかけになればいいと思っている節がある。
 思い出そうと思っても思い出せないものを、思い出すための切り口を持っていれば持っているほど良い。退屈しない。



海は空の色をしているから良い。


9.

 シャイニングのタイプライターみたいに、バグって同じような文章を延々と書き続けてしまう呪いみたいな、「同じことが繰り返されつづける」ことの原始的恐怖を、人間の戦争についても同様に思う。
 引きで見て、人間は戦争をしすぎていると思う(他の動物に比べたら少ないのかもしれないが)。しないでいる方法、は思いつくはずなのに、それが絶対に実行できないことに不思議でいる。
 きっとそれは、戦争「している方が楽」だからなのかな、と思ったりする。しないでいる、のは難しくて、しているほうが、簡単。
 狂ったように同じような戦争を繰り返す人間を見ていて、マジでなんでなんだろう と思うし、また同じだ、と思って怖い。

 怖いし、シャイニングの続編を作って儲けようとしているのももっと怖い。作り手の気持ちが気持ち悪くてドクタースリープはまだ見ていない。でもまあ見た方がいいのかなと思い始めた時期に、今度は「エスター」の続編が出たりして、もう目も当てられない。1個で終わらせる美学、みたいなのは無いのか、と思って怖い。

10.

 こうなったら嫌かも を想像した時点が嫌 ということが増えてきた。この前は、グレーチングの隙間から側溝にスマホを落とす姿を想像してヒヤッとして、それ以降道では絶対に落ちないようにポケットに入れてその上から手で抑える、ようになってきた。その、落とす姿を想像してしまったことが、だいぶ嫌だった。

 こんな未来だったらいいな より、こんな未来になったら嫌だな の方が想像しやすいことがそもそも嫌だし、「嫌」の理解度の方が高いのも嫌だ。考えれば考えるほど。
 昔同級生が「嫌」という漢字が虫に見えて気持ち悪いと言っていて、確かにそうだと思った記憶がある。

 これに引きずられて、否定から入る返答のとき、「いや、それは〜」とかの「いや、」から入るのを意識的に避けている。言ってしまったときは、言ってしまった、と思う。発話上のフィラーだとしても、なんか「嫌」の気配が漂うのがちょっと嫌な感じがする。

11.

 檻 という言葉の立方体的なイメージが好ましい。でもその立方体はずいぶん透け透けで、あまり立体という感じでは無い。
 牢 という言葉は円柱的なイメージがあり、きっとパノプティコンから来ている。
 独房 という言葉は直方体のイメージがあり、そんなに広くなく、かっちり閉められているイメージがある。

 行ったことは無いが、悪いことをした人が行く場所には、何故か幾何学的なイメージが付きまとっている。シンプルな構造体の中に入れられる印象。
 図形の中に悪い人が入っていく感じ。
 ちょうど、ダ・ヴィンチのウィトルウィウス的人体図みたいに、図形そのものになっていってる感じ。

 棺、もそういえば直方体で、死は何かと角張っている感じがする。
 この、死的なものが幾何学的なものと親和性をもって現れてくる感覚が、ちょうど『少女終末旅行』の後半に現れていて、古代文明とかなんとかでやたら幾何学模様が現れるのが、死の表れっぽくていいなあと思ったことを思い出した。

12.

 全く知らない人がどうやって生活しているのかを知らない。

 想像することは出来るが、だいたいの部分だけで、細かいもの(料理をするときの手癖、料理をするときの道具の購入先とか)は分からない。
 眠る前に何を想像しているのか、想像せずにそのまま一瞬で眠りに入るのか、寝返りは何回打つのか、どこで目を覚ますのか。

 よく考えれば、これらの細かいことは、親しい人ですら、分からない。自分がどうやってしているかも、余すことなく説明できるかといえば怪しい。

 だからきっと、自分以外の誰かも、私がこうやって生活していることを、細かく想像しきれない。人の想像では追いつかない生活を、全員がしている。
 それは素晴らしいことでもあるし、なんか可笑しなことのようにも思える。
 生きているだけで、別の誰とも重ならない。人間を映し出すテレビがあるとすれば、チャンネル数が無限にあって、同じものは一つとしてない。人の細部を見ていたら、そのテレビは面白すぎてずっと見てしまうだろうと思う。

 でも遠くから見たら、全てのチャンネルは同じに見えるに違いない。いっそまとめて「人間」チャンネルということにして、一番組に合体してしまえばいいのでは、と思うだろう……。''人''を面白がるって、きっと、細部を面白がるってことなんだろうなと思う。癖とか、遠くから見たのでは気づけない差異、自分とは根本的に違うこだわりとか。

 この前電車で向かい側に座っていた10代の人が、かなり眠たそうにしていて、もう寝そうだという瞬間、真上をバッと向いて口をぽかんと開けて寝始めた。その隣にいた関係の無い男性はそれにびっくりして、ちょっと位置を遠ざけて座り直していた。
 変な人、とその男性は思ったと思うが、私は、そのあまりにも自然な流れについて、「いっつもこうなんだろうな」と思った。寝るときはいつもこれが正常のルーティーンで、本人にとっては何ら問題がない、むしろこうした方が寝やすいと。
 すやすや寝ているその人を見ていて、そういうのいいなー と思った。自分が持っているしなやかな流れ、を見せつけていきたい! と自分も思ったが、電車の中では主張しなくてもいいか……と思ってワイヤレスイヤホンで音楽を聞いた。何度も聞いたことのある曲なのに、なんか全く知らない人の曲のように思えて、バラードが久々に新鮮だった。

 ○


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