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海と空腹

 彼女は半身を海に浸していた。海に足を向け、波がちょうど腰のあたりにくるようにして、仰向けになり目をつむっていた。
 僕は近くに落ちていた大きな何かの骨を両手で持ちあげ、彼女に少し離れて置いた。それを椅子にして、海の方に向いて座った。

 他に誰もいない海はとても静かで、波の音だけがさらさらと打ち寄せていた。水平線まで雲は無く、ひどく晴れていた。

「無理だった」
 彼女が喋った。
「そうだと思ってたよ」
「なんで」
「今から死ぬひとの荷物じゃなかった」
「そう……」
 波は彼女に薄く重なり続ける。濡れた服は肌に緩くくっついていた。

「それで、どうするの」
「何が」
「これから」
 彼女は一瞬目を開けたが、真上にある太陽に眩んですぐに目を閉じた。
「また今度頑張るよ」
「前も言ってたよ」
「そうだっけ」
「うん、その前も言ってたよ」
「そう……」

 空を黒い点が静かに移動するのが見えた。それが連続し、それにちらほらと他の点が続き、それが微かに大きくなり、線のように並ぶことで、ようやくそれらが鳥だと分かった。

「鳥」
「鳥?」
「うん、向こうに」
 彼女は鳥を見ようと少し体を起こし、見て、すぐにまた倒れて、目をつむった。
「あの鳥たち、海の上を飛ぶときは落ちたらどうしようとは思わないのかな」
「思わないでしょう」
「何故そう思うの」
「だって」
 鳥は飛べるから、と彼女は言った。言いながら少しため息をついた。
「過信だな」
 僕は足元の砂を握り、砂時計のように落とした。手触りがすごく良かった。
「得意になっているうちは、それが駄目になってしまう時のことは考えないものだね。考えたとしてもそれは、夢を見るように現実感の無いものだ」
「何が言いたいの」
 彼女は体をこちらへ傾けた。
「別に……。今、鳥がうまく飛べて、海の上を軽々飛んでいるうちは、飛べなくなって落ちてしまうことをうまく想像出来ないんだろうなって。僕が銃を持ってて、ここから撃ち落とせば、一瞬で現実になるんだろうけど、そんなこと、可能性に無いだろう」
「それは簡単なことでしょう。鳥は飛ぶもので、飛んでいるうちが楽だから、楽なときにそうじゃないことなんて考えない。考えられない。おいしいご飯を食べている時に知らない人に刺されるなんて想像はしない」
「想像力なんて大したことないな」
「違うよ。想像する力がないことと、想像できる状態にないこととは違う」
「それもそうか」

 こうして、何もせず海の前にいると、波の音が本当に無限に鳴っていることが分かる。人が眠っているうちにも、ずっと鳴り続けている。波は起こり続ける。おそらく、人が全員協力して一斉に止めようとしても、波は止められないだろう。地球が始まって終わるまで、波の音は響き続ける。

 彼女は違う方へ寝返りをして、
「ねえ」
「何」
「私はもう、この先も無理なのかな」
 遠くの鳥たちはもうどこかに行ってしまっていた。
「多分無理だろう」
 波は彼女の胸あたりまで及んでいた。波が高くなってきたのか、彼女が海に近づいたのかはわからない。僕はずっと彼女を見ているわけではなかった。
「鳥が飛んでいるときに飛べないことを想像出来ないのだとしたら、きっとそれは君にも無理だよ。人は生きているかぎり、死んでいる状態は想像出来ない。それでも死のうとするのなら、よっぽど緻密で異常な想像をするか、全てを無効にするほどの衝動がないといけない」
 僕は少し間を空けて、
「というか、今日無理だったんだから無理だよ、もう。今日無理なことが明日突然できるようになるわけがない。頑張って無理だったんだから」
 静かな彼女の背中に向かって、
「君には死は向いてない」
 と言った。
 しばらく彼女は黙っていた。死のうとしている人に対してこんなことを言ってしまって良かったか、と心の中で少し反省していたとき、
「やっぱりそうだよね。だって、私、結構生きるの楽しいし」
 そう言う声は少し、波のように揺れていた。

 少し日も傾いてきて、彼女の服もほとんどが濡れかかっていた。あと二時間もすれば、そのまま溺れてしまうだろう。
 僕は何かの骨から立ち上がった。
「帰ろうか」
「嫌だ」
「どうして」
「もう少しここにいたい」
「日が暮れて溺れてしまうだけだよ」
「じゃあそれでいい」
「だめだから帰ろうって言ってるんだよ」
「何でだめなの?私はそれを望んでいるのに」
「僕は望んでない」
「あなたが望んでいないから私は死んじゃいけないの?」
「そういう訳では無いけど」
「じゃあ放っといてよ」
 僕は彼女の手を握った。
「帰るよ」
「嫌だ」
「どうして」
「また繰り返すの?私はここに居たいの。もううんざりだから、あっちは」
「ここは危ない」
「分かってるよ」
 彼女は僕の手を引き離して、太陽を背にして静かに言った。
「分かってるけど、帰ったら、また死にたくなってしまう。それでまたここに来て、また同じ失敗をする。何度やってもうまくいかない。私には死ぬ才能が無いし、死んだこともないから死に方がよくわからない」
「それでも生きてたら……」
「生きてたら何?何か良いことでもあるの?生きてることが幸せとか、そういうので気が紛れる時期はもう終わったんだよ。あなたとは違って、私には生きる才能がないの。生きることが楽しいだなんて錯覚、私の目には起こらなかった」
 そう言って彼女はへたりと座り込んだ。
「こんなに、生から離れようとしているのに、死ぬことは出来ないんだね。つくづく変だなと思う。こんな簡単なことなのに」

 じっ、と僕を見て、
「私には上手くできそうにないから、手伝ってくれない?」
「手伝う?」
「殺してくれればいい」
「出来ない」
「なんで」
「殺す理由がない」
「理由ならあるでしょう、私が望んでいるからそれに応える、っていう」
「応える気はない。そもそも、生きててほしいと思うのに、何故その逆の行動をしなきゃいけないんだよ」
「────生きてて欲しいっていうのは、ときに暴力的ね」
 海の遠くを見つめながら彼女は声を出さずに泣いた。僕にはもう何も言うことは無かった。

 日が真っ赤になって、水平線にぶつかりながら形を歪ませ、溶けていくのを見ていた。心の中はとても静かで、何を思うでもなかった。ただ沈んでいく様子を、ただただ見ていた。

 彼女はのっそり立ち上がり、
「あーーーーーー!!!!!!」
 と大声で叫んだ。何故急に叫んだのかということよりも、彼女がこれほど大きな声を出せるということに驚いた。
「何」
「お腹すいた」
「何それ」
「お腹がすいたから、お腹がすいたのよ」
「あれだけ死ぬことを話していたのに落差が大きいよ」
「死のうとしたらお腹がすく」
「そうなの」
「多分。あなたもやってみたら分かるよ」
「良いよ。別に僕は死にたくないから」
「だろうね、あなたはそういう人」
「それ、いい意味?」
「いい意味だよ。全部黒だったらオセロはできないでしょ?全く違うくらいの方がやってて面白いから」
「僕らは知らず知らずオセロをやってたの?」
「さあね」
 彼女は小さく駆けていって、持ってきていた鞄から大きなタオルを出し、羽織った。僕はその傍まで歩いていった。

 後ろで日が沈みきり、辺りが急に暗くなりはじめた。空が紺色になっていく。
「僕は」
「ん?」
「君といると、生きていることに自信が無くなる。死んだ方がいいのかな、と思ったりする」
 へえ、そんなこと思ってたんだ、と彼女が呟く。
「でも、それを考えていくうちに、どこかで思考が強く弾かれる。これ以上来るなって、心が拒んでくるんだ」
「うん」
「だから、僕が必死に君を説得しようと考えるたびに、思考はどんどん虚ろになっていって、うまく言えなくなってしまう。ごめんね」
 あはは、と彼女は笑った。
「何を謝ったの今」
「わからない。多分、君をうまく説得できなかったことに対して」
「それは、私は関係ない。あなたが、あなたの中の矛盾に気づいて、それを解消できなかった、自分への後ろめたさだよ」
「なかなか鋭いことを言うね」
「そうかなあ」

 二人で並んで歩き、砂浜を越えようとするところで、彼女は止まった。真っ青な世界で、彼女の顔はよく見えない。

「でもね、別にあなたのそういう所は、嫌いじゃないし、それで合ってると思う」
「合ってる?」
「うん。たとえば跳び箱を跳ぼうとするとき、跳べないかもと思って跳ぶより、跳べると思って跳んだ方がもっと向こうに行けるでしょ。それと同じ。生きていくなかで、もっと向こうに行こうとすることは自然なはたらきだと思う。死を考えることは、それと真逆の方向にある。そんなの、考えるのは難しいに決まってる」
「だけど」
「ううん。だから、ね、考えようとしてくれたことが、とても素敵なことだと私は思う。それに──あなたはきっと、遠くに行くべき人だから」

 砂浜を越えて駐車場の車に着いた。ここにはこの車以外何もない。
 僕も彼女もここで着替えて、車に乗った。
「晩御飯何が食べたい?」
「いっぱい食べたい」
「そういうことじゃなくて……」
「なんでもいい、今は。食べられればいい。うーんと食べられればそれで」
「……うん、分かった」

 走り出し、海沿いの長い道を通って町の方へ向かう。
 彼女は窓に頬をつけていた。
「また、海行かなきゃなあ」
「やめてよ」
「今度こそは上手くいくと思う」
「失敗しつづけることを祈るしかないな」
「祈るならもっと別のことにして」
「……もし、また海に行くなら、また僕もついていくよ」
「どこまでもついてくるのね」
「そういうことになってるからね」
「そうなの?」
「そうだよ。少なくとも、僕の中ではね」
「そう……大変だね」
「大変だよ。だけど、こうしているうちが一番────」

 海沿いの道は長く、終わらないように思えた。だから、すこし強くアクセルを踏んだ。僕たちはとてもお腹がすいていた。

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