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読書︰尾上柴舟『日記の端より』

 歌集︰尾上柴舟『日記の端より』(平成5年、短歌新聞社文庫)
(原本︰大正2年刊)

 柴舟といえば、短歌滅亡私論のイメージがかなり強いが、普通に短歌も好きで、〈白堊(ちよーく)をばきゝとひゞかせ〉の歌が特に印象に残っていた。
 先日寄った古本屋で偶然柴舟の名を見つけて、即座に購入した。100円。ちょうど白堊の歌もこの歌集なのでものすごく得をした気分に。

 この元の歌集は大正2年に出されたもので、短歌滅亡私論(明治43年)の前後から『水甕』の前身の『車前草』創刊あたりまでの作品がある。第四歌集。「旅のうた」214首、「をりヽヽの歌」363首の計577首が収録されている、たっぷり味わえる歌集になっている。
 以下目に留まった歌をさらさらと読む。

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〈旅のうた〉

つけ捨てし野火の畑のあかヽヽと見えゆく頃ぞ山は悲しき

 巻頭歌にして代表歌と呼ばれる歌。景色自体は田舎によくあるものだと思うが、「見えゆく」が上手い。火とその一帯に流れる時間を感じつつ視点が山へ移る。低さと高さ、近さと遠さ、明るさと暗さ、多くの対比するものが一気に入ってきて「悲し」さに着く。こういう光景を一度でも見たことがある人はすっと入ってくる歌だろうと感じる。

死にてゆく人のあるにもかゝはらず事なく山の聳てるかな

 山が聳え立つことに、人間の事情を巻き込ませるやり方。実際、山からしてみれば、人は勝手に死んでいっているわけである。

右におされ左におされわが心おもひもかけぬ処にやゆく

 面白い歌。「おもひもかけぬ処」に心が一気に飛翔することは、良くある。

あけがたの柱のともししめヾヽと薄るゝ下の湯槽にぞ入る

 「湯槽」にここまで長い修飾がある分、「にぞ入る」が効いてくる。

わが海と呼ぶべくなりぬ昨日聞き今日聞き波の音に馴れては

 以降も出てくる昨日-今日のイメージ。「呼ぶべくなりぬ」に可愛らしさというか素朴さがある。

石段の一きりごとにふりかへり二たび海見三たび海見る

 ふつうなら「ふりかへり」と「二たび」「三たび」があれば内容は取れるはずで、それを「二たび海見」とちゃんと言うことで強引に海の印象を強めている。振り返ってちゃんと海を見ている。「一きり」で数字を重ねているのも遊び心が見える。

崖近く一本たてる棕櫚の木の海のみどりに浸るゆふぐれ

 これは良い歌だと思った。「海のみどり」と「ゆふぐれ」の色と広さの混在に酔いそうになる。そして崖に立つ棕櫚の木が、人の知らないところで海に浸っている、その木と海の関係が美しく感じられた。〈ちるさくら海あをければ海へちる/高屋窓秋〉なんかも思い出す。

海みればいつかよりかくは湛ふなど心をさなくなりにけるかな

 老いた、のではなく「をさなく」なったという視点に、優しさを感じる。「湛ふ」が読めば読むほど大事になる。

〈をりヽヽの歌〉

水蒸気ほのじろうたつ夜あがりの土にほたヽヽさせる木のかげ

 「ほたヽヽさせる」が絶妙。この歌、個人的に凄く屈折を感じるというか、過剰なくらいの世界を感じる。よく分からないが、自分が画家だったら絵にしたいと思うような歌。

木と木と相憎むに似たり葉の散れば枝と枝とが猶きしり鳴る

 これは同作者の、この歌集以前の作品〈おなじ地におなじ木ならび今日もまたおなじ葉と葉とあひ触れて鳴る〉(『永日』)に似ている。先ほども出た昨日と今日のイメージ、同じもの同士が接触するイメージが合体している。個人的にはこの内容ならば写生が効いている〈おなじ地に〉の方が好きだが、「相憎むに似たり」という発見は鮮やかに光る。〈おなじ地に〉の歌については石川美南さんの鑑賞があるので是非ご覧頂きたい。( https://sunagoya.com/tanka/?p=8868 )

大空の果の果までゆきめぐり心はわれにまたかへり来ぬ

 〈右におされ〉の歌ではどこかへ行っていたが、これはどこかに行って帰ってきている。果まで行ったからこそ帰ってこれた、と感じられる。

外套に草の実すこしつけながら冬なる家に野よりかへりぬ

 草の実をつけたというあたりで「野」にいたことは何となくわかるが、それを敢えて「野よりかへりぬ」ともう一度言っていることにおかしさを感じる。

終点の電車下りてしばらくはこの自由なる身を立たせけり

 関東に出てきて初めて終電に乗ったとき同じことを感じた。「立たせけり」が良い。

吹きすさぶ風をばよそにこの日ごろちひさき箱にすむこゝちかな

 風や雨を外に感じると、風雨を防ぐだけの小さい立方体に住んでいる気持ちになる。とても良くわかる。

落つる葉と落ちたる葉とのそよぎあふ小春のかげの静かなる庭

 同じもの同士の接触モチーフが、少し変化されて現れている。「落つる葉」と「落ちたる葉」。どっちをどういう感覚で使っているかが分からないが、今落ちている(落下の最中)葉と、既に落ちてしまっている葉があり、少し風が吹いたりして、縺れ合うようにその葉たちが混ざる、といった感じだろうか。「かげの」が良い雰囲気を演出している。完全に春のきらきらした庭ではなく、少し影差す静かな庭。葉への認識によって庭が深まって見えてくる。

意味もなき事を語りて初夏の芝生の上に昼寐をぞする

 若い頃、という感じがするが、年をとったとしても、こういうことが大事な気がする。

白堊(ちよーく)をばきゝとひゞかせ一つひく文字のあとより起るさびしみ

 先に触れた歌がこの歌。最初「ちょーくをばききと/ひびかせ一つ/……」と読んでリズムがおかしくなったが、本当は「ちよーくを/ばききとひびかせ/ひとつひく/……」。ちよーく、という響きに間抜けさを感じる。チョークの持ちかた、筆圧、黒板の使い方、それぞれ教師によって違う。字が薄すぎる人もいれば、書く度にガリガリ削れて一時間のうちに二本使いきるみたいな人もいた。ここでは「ばきゝとひゞかせ」とあるのでかなり意図的に強く気持ちを入れて書いているように思う。そして文字を「ひく」。
 ここで起こっているかなしみは、あまり単純ではないと思っていて、たとえば自分が教師であることへの色々な感情や、チョークを削りながら書かれる文字へ短歌を詠む自分を重ねる感覚、黒板を汚しながら書かれる文字への不憫さ、生徒のために背を向け文字を書く漠然とした悲しさ、などなど。今その文字の最中に、ではなく、「文字のあとより起る」というのが、より現実的。複雑な悲しさに、誰か気づいてくれるだろうか。

一語云ひ次の一語を考ふるこの物憂さを人の知れかし

 気楽に何でも言ってしまえるような世の中に今はなっているため、「この物憂さ」を皆に持ってほしい、というような歌に少し関係ないことを思った。

薄からば薄きまゝにてさせよかし光といふはなつかしきもの

 光に対する主体の距離の取り方と、下の句の美しさに、見とれるものがあった。「光といふはなつかしきもの」。何度も口にしたい言葉だ。

夢もみずねつるうれしさ目あくればあさの光の部屋にみちたる

 分かる分かる、となる歌。この何でもなさが光るのが柴舟のいい所なのだろうと、この歌集を読んでいてしばしば思った。

空を見てまづ思ふこと今日もまた昨日のごとく日の照れよかし

 今日-昨日イメージ。「まづ思ふ」のがそれなのか、ということに空に突き抜ける風のようなものを感じる。明日天気になあれ、と靴を飛ばしてやる遊びを幼いときしていたが、あれは今日明日のことを考えている。しかしこの歌は今日について、昨日を持ってきている。柴舟の生き方や詠み方を理解するには、「明日よりも今日」というのがキーかもしれない。

戯にすこしくまさる事をして昨日のごとく今日を過ごしぬ

 これも同じく昨日-今日イメージ。また「昨日のごとく今日を過ごし」ている。この歌では昨日のような今日であることに、退屈さを感じながらも、それこそが幸せなのかもしれないと感じる主体がいる。少し元気になれる歌。

月にひく枯木の影をふみてゆく昼の小鳥のわたるこゝちに

 光景を想像してみると面白い。影を踏むとき小鳥の渡る気持ちを重ねたというのはわかるが、「昼の」というのが少し変わっていて面白い。夜に昼の心地がしている。

はかなしや続く電車にのりこぼれ乗りこぼれする夕ぐれの人

 多分同じ人のことを言っているのではないか。都会の電車は帰宅ラッシュに入ると毎回乗ることすら不可能な人たちが出てくるが、これは直感的に何連続も電車に乗れていない同じ人な気がする。「夕ぐれの人」という言い方が面白い。たしかに、「はかなしや」以外に言うこともない。

終点にすきたる電車一つありこのいさゝかの事のうれしさ

 代表作などには挙げられないものの、これが柴舟らしさが一番出ている歌かもしれないなと思った。「いさゝかの事のうれしさ」。日常の些細なことに反応し、昨日と同じような今日である、そのささやかな幸せを身で感じる。ここには軽いと同時に深いうれしさがある。坪野哲久の歌に、〈しんしんと甍の反りは雪の反りこの平凡の事の愕(おどろ)き〉(『北の人』)があるが、目の付け方、発見から感情への過程と着く場所の違いから良い比較材料になる。

今日もまた昨日と同じ道をゆくこの平凡の中に生くる身

 今日-昨日イメージ。これも柴舟らしさがある。「平凡」と言ってしまってもなお涼しい風が流れているような感覚がある。この歌単体でみれば少し悲しくも見えるが、この歌集を通してみると、その平凡さこそ愛そうという気持ちが見えてきて、随分と気持ちがいい歌である。

ちひさなる理想にさへも放たれて息することの何か楽しき

 最後のあたりの歌で、この前には先帝を悼む歌や、病床に臥した妻への歌などが並んでいる。平凡を愛していつつも、それに苦しむこともやはりある。上手くいかないことに嫌気がさすこともある。「息することの」まで言うというのはなかなか落ち込んでいる。些細な日常を肯定するだけに終わらない、不安も全部言う素直さ、優しさ、真剣さがある。『日記の端より』という歌集の題にも頷ける。ちなみに掉尾の歌は〈守りゐる柩の色のきはだちて青き夜明となりにけるかな〉。昨日のようになってほしい今日もあれば、もう繰り返したくない今日というのもある。その二つを真剣な眼差しで見ていたのが柴舟なのだろう。

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