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瞑想と呼吸の90日チャレンジ(69日目)~出来上がったセルフイメージは偶像だった


69日目、
なんだけど、思いっきり寝坊しました。
よって、今日は夜に必ずやる、
と今から自分に約束をする意味で69日目、とします。

さて、セルフイメージを持った方が良い、というのは
最近よく見かけるテーマなのだけど

素敵なことだけど私はうまくいかなかったなぁ。
(もちろん、うまくいった人がいるから推奨されてるのだと思うけど)

私の場合、
あくまでも私のケースだけど、
結果的に「そうありたい自分」は
自分にない勝手な憧れや理想がはいってしまい
勝手にどんどん無敵な私になっていた気がする。
「こんな人がいたら素敵だわ」みたいな。
当然、現実の私とズレる。

例えば「先生」「教えるひと」「導く人」
だとすると

公私ともに
いつでも美しい言葉を使って
思慮深くてなくて専門的で何でも知ってて
身体に悪いことはしない
いつも爽やかで笑顔でキラキラしてて
おしゃれで
真面目で誠実で丁寧でミスなんてなくて・・・

憧れの先生、素敵な先生だ。
こんな風になりたいし
こんな先生なら教えを乞いたい。
「先生像」の理想が高すぎるのだ。

でも現実の私は
「えー!」とか「まじ?」とか
大人として正解ではない言葉を使いたい時もあるし
いつまでも浅はかだと自分で思ってしまうし
休みの日はいい気分で酔っぱらって大笑いするのが大好きだし
眉間に皺が寄ることもあるし
真面目だけど持続力がなくてボンミスする。

面倒なのは
その理想が高すぎる先生になれれば最高だと思う反面、
公私ともにそうはなれない、
と、びくとも動かない私が奥底にいる。

でも「立場」「役割」を前提にすると
こうでなければいけない、が強すぎるのだ。

そして、奥底の自分と
自分の作り上げた【偶像】が
一致していないことが苦しかったのだ。

そこに気づいたらなんだかスッとして、
自分が心地よいと思うことだけでいいのでは?
と思い始めた。

そう思ったら
「会うと元気をもらえるのよ!」
そう言ってくれる人が今までほんとに多かったことに気づく。

なんだ、じゃあそれでいいじゃないか。
それで会いたいと来てくれるひとがいるなら
それで十分だ。
やっとこさ、そう思えるようになった。

今までそうやってアドバイスをくれた人はいたと思う。
でも、硬くなった私のこころに届かなかったのだ。

私自身が作った【偶像】というセルフイメージへの
思い込みや期待から解放される方が先に必要だったのだ。

想像上の石像に込められた偶像の私に「さよなら」をした。

おつかれさん。わたし。
そして
よろしく、わたし。


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