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森田真生「僕たちはどう生きるか」

本書を読みながら、リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』や高橋源一郎『さようならギャングたち』に近い感覚を受けた。外側で終わりゆく幻想世界を、静かに眺めている感覚。

パンデミックと気候変動。小説ではなく、今現実として終わりゆく世界で、僕たちは何を考え、何を次に残せるのか。本書の思索で、緩やかな絶望のなかに微かな希望が見え、泣きそうになりながら読んだ。



「人新世」という言葉が浸透し始めた。
温暖な気候が1万年続き、緩やかな人類の繁栄をもたらした「完新世」は唐突な終わりを告げ、人類による経済活動が地球環境に甚大な影響を及ぼす「人新世」に突入したという。

ただこの言葉のまま受け取ると、あたかも人類が強大になり過ぎたが故にその力の行使の仕方を見つめ直さねばならない、という考え方のような印象を受ける。

例えば、気候変動にまつわるIPCCやCOPなどの世界会議で宣言される方針は、地球を救うといったスローガンのもと、人類が一丸となった対応を促しており、主人公は人類であるかのように感じる。


だが、本当にそうだろうか?
というのが、本書の出発点である。


地球温暖化はずっと前から警鐘を鳴らされ続けてきた。にも関わらず、人類は目先の経済活動を優先し続け、いよいよ余命宣告を受けてようやく行動を改め始めた。

同じく人類の危機であるパンデミックも同じである。こちらは気候変動よりずっと短いスパンで直接的な影響があるため、ロックダウンなどの対処は現実となった。ただ、科学的根拠を軽視した政府や人々は枚挙にいとまがなく、死ななくてよい命が多数失われた。しかし、パンデミックも、引き起こしているのはウィルスというどこにでもある有機体であり、我々の生活とともにあったものだ。


今現在進行形で進んでいる破滅的なシナリオは、人類が自然と傲慢に関わっていたことに起因する。
人類は、すぐ隣にあり目前に見えている危機にも鈍感であり、自然の前には脆弱である。その理由は、人類自身もまた、自然だからである。


著者は、ティモシー・モートンの著作『Hyperobjects』を引き、人類のうぬぼれを指摘する。しかし、それは恥をかかせ反省させるためではなく、「弱い」自己を認めた上で、自然に正しく癒してもらうためである。

人間が世界の真ん中にいるわけでも、特別高い場所にいるわけでもない。彼は代表作『Hyperobjects』の中で、コペルニクス、ダーウィン、フロイトに連なるこの同じ系譜に、マルクスやハイデガー、ニーチェ、デリダなどを置く。だが彼はさらに、これら「屈辱を与える者たち」のリストの先端に、人間でないもの、すなわち、気候や、放射性物質や、ウィルスを位置付けようとするのだ。
人間は、もっと下へ、大地へと、自分たちの地位を引き下げていい。humilitationを恥や屈辱とするのではなく、人間が、人間でないものたちと同じ地平に降り立つところから、新しい存在の喜びを見つけ出していくこと。

本書は、著者がパンデミック下の日本で、小さな息子と自然に近い生活をする中で、徐々に自然と自己を隔てている境界を緩め、自然の中にいる実感を強めていく。


日々息子と鍬を持つ僕は、ウィルスたちにhumiliateされている。目に見えない微粒な粒子たちによって、僕の暮らしの目線は、これまでになく低く、大地へと接近している。
だがこれは、僕にとって「屈辱」ではない。ミミズやカラスノエンドウ、ダンゴムシや土の中のバクテリアの存在を感じる日々に、僕は新しい喜びを発見している。人間との距離を保つ暮らしの中で、僕は、人間でないものたちとの親密さを、少しずつ取り戻しているのだ。


著者は、自ら育てた野菜を美味そうに食べる息子たちを見る中で、自らが自然から多くを与えられ、祝福されているいう予感を確信に変えていく。そして、資本主義による「進歩」という神話がなくなった世界で、どのように次の世代が喜ばしく生きていけるようなバトンタッチを行えるかという、新しい教育のあり方を空想する。

近代社会において、過去世代との断絶を埋める役割を果たしてきたのが、「進歩」という理念だった。(中略)ところが、この「進歩」という理念は、すでに機能不全をきたすようになって久しい。「進歩」の名の下に行われてきた活動の多くが、実際には未来世代の生存条件を悪化させてきたことが、様々な場面で明らかになってきているからである。
肝心なことは、未来世代からの制裁を恐れて、恩返しが始まるのではないということである。自分が受け取った以上のものを返したいという、自発的な思いから恩返しは始まる。未来からこんなに奪っていると、自分や子どもたちに教えるより前に、今こんなにも与えられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。
自分でエネルギーを生み出すことができない人類が、この地上で生きることができているのは、驚くほど多くのものを、自然から与えられてきたからである。自分は恵まれている、祝福されているという原初的な感覚を子供達が感じられるような環境を整えていくために、自分もできる限りのことをしたい。

僕も君も、皆祝福されている。祝福されていることを感じられる命が与えられている。その感覚を皆で共有する世界では、今人類が直面する問題も、きっと解決できるだろう。
もちろん、社会システムという観点から見ると、難しい面も大いにある。しかし、今の世界にもこどもを生み育てていい理由があるとするのならば、こうした哲学を貫くことなのではないか。

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