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2021/09/17

昨夜読んだ記事に「広告的なスキがうざったい」というものがあった。
わかる。
めちゃくちゃわかる。
ちゃんと血の通ったスキは暖かくて、特に人生を綴った日記だから、自分を肯定してもらえる気がして嬉しい。
励まされる。
そうじゃなくて、断定することはできないけれど「多分フォロワーを稼ぐためなんだろうな」とか「スキの間隔からして読んでないな」という風に感じられるスキは、正直嬉しくはない。
「スキ」と言ってくださっているので、特別嫌にはならないけれど、読んでくださるのならちゃんと読んで欲しいし、その上で「スキ」を送って欲しい。(もちろん最後まで読んでもらえるような文章を書けという話なんだけど。)
エゴなのかな。


起きるとメールが来ていた。
サークルの体験会の欠席連絡だった。
どうせ今日私は欠席だし、あのサークルに未練も思い入れもない。
でも、今日が担当の人には重大なお知らせだ。
スクショしてグループに貼りつけ「把握お願いします!」とだけ言っておく。
大学の友人作りの場であり、好きなことを好きなだけやる場所、サークル。
それがこんな泥船になるなんて思ってもいなかったけれど。
今はそれが静かに沈まんとするのを、遠巻きに見守ってみたい。
コロナがもたらした、サークル文化の終焉をゆっくり観察したい。


昨日勇気を出してWに「赤本返却の申し入れ」の連絡を入れた。
それから1日。
まだ返信が無い。
普通に「忙しいのかな」と思うけれど、全く引っかからないと言えば嘘になる。
誰でも1日に1回くらいは、メッセージが来ているかどうかチェックするだろうというのが私の所感で、どんなにスケジュールがタイトでも、さすがにたったの1度も目を通さない日は無かった。
理由が「忙しいから」ならいいのだけれど。
2回連続でお誘いを「お流れ」にされたら、さすがに気にしてしまう。(というより普通に断られた方がマシだ。)
かけがえのなさすぎる友人だからこそ生じる憂い。

考えても仕方ない。
できることがない以上、考えても良くはならない。
待てば海路の日和があると信じよう。
私の最高の友人だ。
Wだ。
それを私が疑うなんて失礼だ。

とか言ってたら返信が来た。
ほらやっぱり杞憂。
メロスの友人の人質になった人じゃないけれど「一瞬でも疑ったから殴ってくれ」と言いたくなった。
暇な日はないとのこと。
その他伝えたいことがひとまとめにされて送られてきた。
私もそれに対する返事を、Wに合わせてひとまとめにして送信する。
今に集中して生きている人だ。
私はWのそういうところを本当に尊敬している。
とにもかくにも一安心した。
「講師から生徒に赤本を贈答するわけにはいかないから!また時間があったら教えて!話したいこともたくさんあるし!」

言ってから少し考えていた。

「また時間があったら遊ぼうね!」
「ちょっと今回は無理だから、また今度ね!」
こういうやり取りを2回くらいして会わなかった人はもう2度と会わないんじゃないかな。
縁がなかったというか。
私は経験からそんな気がしている。
私が会う気にならなかったもの、向こうが乗り気でなかったであろうもの、お互いが忙しくて関係性ごとなかったことになったもの。
そこに明確な理由はなくて、お互い嫌いなわけじゃないけれど。
「また時間があったら会おうね!」
「うん!」
そんな曖昧な言葉じゃ引き合わせられない、会わないことが最初から決定づけられている、そんな気さえする。

「またね!」
その「また」は、具体的な時間を与えてやらないとすぐに枯れて消えてしまうと思う。
多分人間って、言葉ってそんなものだ。
たとえお互いをどれだけ大切に思っていても。


いつもは休みの金曜日。
今日は知り合いの代講で、バイトに来ていた。
小学生が「これがわからないんですけど......」と見せてきた問題に「灘中」と書いてあった時は肝を冷やしたし、共通テストレベルの古文を爆速で解いていく高校生に目を丸くした。(そしてそれ以上の早さで解答解説のページを捲った。)
金曜日は最近ご無沙汰していた友人も出勤していて、たくさんくだらない話をした。

帰り道。
雨。
知らない人を日帰り旅行グループに招待した人の、当該行為の善悪について話していた。
正直私は気乗りしないし「私たちのグループ」にいきなり知らない人がやってきて、知らないままで旅行には行けない。
そうでなくても承諾は取ってほしかった。
その場にいた友人2人のうち、自転車で来ていた方は私の意見に賛同し、さらに「あれは非常識だ」と言い放った。
私もそれに同調した。
一方徒歩の友人は「海月たちの言っていることはわかるけど、自分は特に気にならない。だから別に構わない。」とのこと。

思うに誰も悪くない。
常識は周囲の人間に照らして生まれる多数決なのだし、人間関係が狭い私は「非常識」という非難はできない。
知らない人を招待したあの人は、私たちに嫌な思いをさせてやろうという意図があったわけではないと思う。
ただ「自分は仲良くできるし、みんなもそうできるはずだ」と思ってやったこと。
そこが私たちの価値観の違いで、それが顕在化してしまった。
私たちは知らない人が急に現れることを望まない。
ある程度知ってからでないと、コミュニティに入ってほしくない。
けれどそうでない人もいるみたいで。

多分人に対する敷居の高さの差なんだろう。
私は高い自信がある。
簡単には他人を「友人」と呼ばない。
「親友」なんて自己紹介に書いている3人だけ。
知り合いと呼ぶ人も少ないし、知らない人でかつ継続的に接する機会のある人、例えば職場の新しい顔やそんなに親しくないクラスメイトなどには、相当差し迫っていない限り話しかけない。
友人でも、さっきのWみたいに「みんな簡単に私から離れていくものだ」という経験則が働いて、お別れのポーズを取る心づもりをしてしまうことがある。
また、しばらく会ってない人はあっさり「友人」と呼べなくなる。
人は変わると思うから。
(そしてこれは私だけだろうけど、「昔の友達」や「過去に関わった人」は結構忘れてしまう。もう既に高校のクラスメイトの名前すら、正確に思い出せないほどに。私がすぐに忘れたりお別れのポーズをするから、お別れされてしまうんだろうな。)

あの人の場合はそうじゃない。
知り合ってすぐなのに「友達!」と笑顔で紹介してくる。
「○○ってどんな人?」と聞けば「友達!」と馬鹿の一つ覚えみたいに返してくる。
これまでも2人で会うはずの場所に、全く知らない他人が同席していることがあった。
職場の新しい顔にも自分から自己紹介をして、私やその他の人を傍らで置き去りにしながら、初対面で交流を深めていく。
敷居がとても低く、あの人から見ると私は「面倒」の部類に入るらしい。

仕方のないことなんだろう。
正しいのはどちらとかいう事は出来ない。
私たちはどちらも正解で、どちらも不正解なんだ。
ただ、私はやっぱり受け入れられない。
そのことは伝えておこうかな。


にゃんたこさんのエッセイ。
ついに最後の短編を残すのみとなった。
読み終えるのが惜しい。
またすぐ読みに戻ってくるだろう。
フィクションが冒険なら、エッセイは家だ。
居心地がいい。
どこの誰とも知らない人も、実は私たちと本質的には同じ人間なんだなと思える。
それだけで、孤独はやわらぎ、肩はすっと軽くなる。
また明日も頑張ろうと思える。

次は何を読もうかな。
また「ここじゃない世界に行きたかった」を読もうかな。
はたまた「不可逆少年」か。
そういえば「硝子の塔の殺人」も買ってきたんだった。
「滅びの前のシャングリラ」もまだ積まれたまま、開かれるのを待っている。
というかそもそも読書をしている時間があるんだっけ。

早く寝よう。
人間関係観を書いてしまうと、ついつい熱が入って色々と書きすぎてしまう。
それだけ強固で自信があるものを持っているということなのかな。
でも明日も早いし。
そうでなくても、やることはまだまだ山積みなのだから。



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