見出し画像

「声」はその人の心を含めた体全体の在り様を凝縮して表現する一形態なのかも

 10月26日にろう者の感覚を知る講座の3日目に参加してきました。


 「これは私のために開設された講座かも‼︎」と思うほど目を開かされた感があった前回とは少し違い、(前回の講座を受けていたからこそ、)自分の中での更なる疑問や、このワークの中でもっと自分の表現を深められたのではないかといった思いにつながる時間になりました。

 前回やった「一枚の絵から感じられる音を聞こえない講師に伝える」というワーク。

 前回の経験からこうした方がうまくいく、こういう題材の方がやりやすいといった知識があることは良い結果も生むのですが、時としてそれが邪魔をしてしまう時もありました。

 今回は自分たちで選んだ絵を2枚それぞれ表現するものでした。

 1枚目については画面から伝わる音を「どんな音が聞こえる」と意見を出し合い、それを色とと形と動きで表現しようとしました。

 表現方法は拙かったけれど、「聞こえる音を表現する」というテーマにはより近づけたのではないかと思います。

 2枚目に選んだのは抽象画。前回の最後に講師の方たちが選んだ抽象画での表現が良かったという感覚から抽象画の方がやりやすいのではという感じがありました。

 複数の色のタイルを組み合わせた床の様な感じの絵を前に、「音」を伝えるというテーマを離れて絵そのものの画像を伝えるような感じになってしまった気がします。

 見ていた講師の方から「オトは?」との問いかけがあり、その場ではあまり重要視されていなかったけれど、そこから聞こえる音はどんな音?と問われていたように思います。

 私たちの身の回りにはいろいろな音が溢れています。聞こえる私にはそれらの音がそれぞれ違うものに聞こえてきて、そこに含まれる質感を区別することで(広い意味での)情報を得ています。

 聞こえない人には音の質感はそのままでは区別できない。その人に音をどう伝えるか。

 制限時間があるからこそ考え込みすぎない、グループだからこそ自分だけの視点では気づかない発想が広がる利点はあるけれど、今度は自分1人でじっくり考えてみたかった気もしています。

 講座の最後にゲスト講師のお二方も交えてトークショーがあり、参加者からの質問を受ける時間も設けられました。

 何人かの方が質問しての応答があり、最後の質問にします、どなたかいらっしゃいますか?と司会の方の声に参加者が顔を見合わせた時、突然、講師の方が私を指さして、あなたどうぞという表情をしました。

 聞きたいことはありました。ただ、この講座の趣旨とは方向がずれているし、他の方の関心ともずれているだろうと思い、今日はそのまま黙っていようと思っていましたが、何か言いたい顔をしていたのかもしれませんね。

 でも、私が聞きたいことはそれしかなかったので、拙いことばで質問してみました。

 「歌などの声の表現を物理的に音が聞こえない方と共有(←後から思うとこの言葉が不用意でしたね。一緒に歌うというふうにもとられてしまったかも)するにはどうしたらいいか考えています。歌を聞く時、どんな感じで聞いていますか?」

 講師の方がやや戸惑ったような表情で、「歌っている時の表情とか体の様子で楽しむかなあ」などと答えられ、その場は終了時間の制限もあり、それで終わりました。

 正直、前回、聞こえない人の中にも音楽が好きな人もたくさんいると聞いたけど、今日の講師の方は音楽にはあまり興味のない方だったのかも。前回の時に質問すればよかったかなあなどとも思いました。

 でも、後で色々考えました。「音」って何?「声」って何?

 私は「声」で伝えたいことは何?「声」ってなんだろう。言葉の意味が伝わればいいのなら、文字に書いてもいいはずです。

 でも、それだけではない。声の力や熱、色合い、全部含んだものが一つの表現。それが好きだから、わたしは声の表現を選んでいると思うのです。

 声は体の中から直接出てくるから、その時の自分の体の状態が丸ごと出る。その時の心の状態も。それは声は自分の今そのものを凝縮して表現する一つの形なのではないか?

 それを丸ごと、物理的な音が聞こえない人にどう伝えるのか。

 正直ますますわからなくなりました。

 質問にしても、私が自分の中でもっと課題を掘り下げて、適切な言葉で質問できたら、もっと自分の知りたいことに近づける回答が引き出せたのではないかという気もします。

 これもこの場に行ったからこそ思えたことでもあります。

 ここからまた、いろいろなことを考えていきたい。そんな思いを胸に終了した講座。外に出て見上げた空には満月には少し早いお月様が微笑んでくれている様にも見えました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?