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「始まり」をくれる人

 昨日、音声配信を聴いていて、ある人がお友達のお誕生日に「誕生日おめでとうございます」という配信をしていて、その中で「自分にとってそのお友達は『始まりをくれる人」』だ」という話をしていました。

 その人のほんのちょっとしたことばや交流、あるいはその人がやっていることを見て、こんなことができるのかと新しい発想が生まれる、それが自分にとって何かを始めるきっかけになる。そんな存在の人って大切にしたいですよね。

 私にも何人かいます、そういう人。その1人はやはり私をこのnoteや音声配信、その他に一歩を踏み出す背中を押してくれたあしなが・・・違った、「背が高くて手足が長い人」です。

 その人は、いつも狭く固まりがちな私の発想の何歩も先の反応を返してきてくれて、新しい視点に気づかせてくれます。

 先日も、すごい実績を上げている人のエネルギー溢れる言葉をただただすごいと思って聞いて、それを「こんなすごいこと言われました」と話す私に、「逆にあなたがその方に聞いてみたいことはなかったですか?」というたった一つの優しい問いかけで、これまで考えていなかった大切な視点を示してくれました

 これまで、私は本とか作品とか記事とかで他者のことばに触れたとき、自分が共感できる言葉に出会えただけで満足して、それに対して自分はどう思うのか、質問したいことはないか?などと深く考えたことがありませんでした。

 他者の名言に数多く触れ、それをバイブルにしていれば、それだけで自分も成長できるような気がしていたのかもしれません。

 戸惑いながらその時のやり取りを思い出していくと、やり取りの中で一瞬頭によぎったものの、あまりのネガティブさに自分でも蓋をしてしまった思いがあることに気づきました。

 なぜそんなことを思ったのだろうと思うほどネガティブな僻みのようもので、そんなことを思う方が恥ずかしいと思うようなことでした。だから思った瞬間に蓋をしていたのだと思います。

 でも、実はそれはもっと掘り起こすと、いろいろなことを含み、また次に繋がっていく大切な思いだったのです。

 その方が切り開いてきた世界とそれを実現する手法は自分がやろうとしているものとは違う。その優劣はない。

 その方は今、少なくともご自身が表現したいことを貫きながらそれで生活することができていて、自分はそれを実現できていないけれど、「実現できていない」ことはダメなのではなく、自分のやりたいことが、今の世界には形になっていないものだからかもしれない。

 このことは、自分がやりたいことの具体的な姿が見出せず、突破口を探して本を読んだり講座を受けようとして、すごいと思いながらどこか合致しきれないもどかしさを感じ続けていた自分の苛立ちももしかしたら、他者のことばに自分にとっての正解がすでにあると思い込み過ぎていたのではないかという発見に繋がっていきました。

 自分の正解は自分の中にこそあって、他者のことばは他者の生き方の中から出てきたことであって、完全に自分の正解に合致するものではない。そろそろそのことに気づいたらどうかなと言われたような気持ちです。

 不思議なことに、このことに気づいてから、前からお話を聞いてみたかった方のお話を生で聞ける機会や、興味がありながら、自分の関心とは少しずれている部分もあるなと思うような講座の情報が入ってきました。

 聞きに行こうと思います。

 自分の中で考えられることは自分が想像することの範囲内。その意味でも他者の話を聞くことは大切です。

 ただ、これまでのようにただありがたがってそのことばをバイブルにするのではなく、その方の努力や成果にリスペクトしつつ、「何か聞いてみたいことはない?」と自分に問いかけながら。

 これも新たな始まりです。

 そんな私の「始まりをくれる人」のお一人である背が高く手足の長い人へ

 いつも本当にありがとうございます。
 そして、お誕生日おめでとうございます🎂

             ジェルーシャ

 

 

 

 

 

 

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