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「なんか、もういいや」ってなるんですよ、きっと。それものすごくわかります。


「そんなに嫌なら逃げればいい。死ぬくらいなら」



自分の口からもそんな言葉を軽々しく発したことがあります。
絶望も感じたこともない、甘ちゃんの頃ですね。

実際に今の日本では、「逃げる」ということは、なかなかの覚悟が要ること。
そして、怖いことです。

絶望している最中でも、
そんなことが自信たっぷりに自分自身に向かって言えればよかったのですが。
なかなか、そうはできませんでした。

そして、「逃げる」という選択をし
休職をしている私でも
「本当に、これでよかったのか?」
と日々もがき苦しんでいます。

現状の日本では、
メインストリームの「道」というものがあって、
そこから外れる者への無言の圧力は強く、
人の気分を敏感に察するタイプの人間には、
なかなかしんどい社会だと思います。
ましてや、自ら外れようとするのではなく、外れざるを得なくなった者にとっては。

「なんか、もういいや」
そんな気持ちになったのだと思います。

最近の有名人の自死についての報道がなされる度にそう思います。

「なんか、もういいや」そんな気持ちになったことがあるからわかるんです。
たまたま、私は実行できなかっただけのこと、ただそれだけのことだと思うんです。

容姿や、人気、子供の有無など。
それが、決して歯止めにはならないことがある。

私も、何もかもがうまく行かず、直接責められたかは別として責められていると察したことがあります。
様々のことを、私の責任にされ、攻撃されたと感じたことがあります。
出世街道のような「道」から外れたことを理解しました。
働き盛りの父親が会社に本当に行きたくないと思ってしまっていることに罪悪感を感じました。
このまま、苦しみに耐えながら働き続けるのだと将来に絶望を感じました。

そんな冬の帰宅時、

駅に入って来る電車のヘッドライトに吸い込まれそうになったことがあります。

「あと2歩ほど前に踏み出せば楽になれる」

なんて、本気で思ってしまったのです。

あとそこに、

「なんか、もういいや」

っていう気持ちが重なってしまったら、
飛び込んでしまっていたと思うのです。

その時のことを考えると今でもゾッとします。

その時は、
飛び込んだらダイヤが乱れて、乗客に迷惑がかかる。
とか、
賠償金が膨大にかかってしまう。
そんな、そんな平常時は自分を抑えることができる思考も無意味でした。
家族も、子どもも完全なる抑止にはなれなかったはずです。

ただ、苦しみから「逃れる方法」を衝動的に思い付いた自分と、
「楽になりたい」という衝動的な気分がありました。

そして、
悩みすぎて、脳が疲労し、まともな思考や判断ができなくなっていたのです。

あとそこに、「なんか、もういいや」って気持ちが重なっていたらどうなっていたかわかりません。

「楽になりたい」と
「なんか、もういいや」が
重ならなかっただけのことなのです。

その日以降、
「そんなに嫌なら逃げればいい。死ぬくらいなら」
という言葉を自分自身に語りかけ、
こうして休職をしています。

そこまでわかっていても、
気がつけば
「本当に逃げてよかったのだろうか」とか、
「何をやっているんだ」とか
自分自身に投げ掛けてしまい苦しみつづけている。

この先、うまく生きる希望を見つけられればいいが、
見つからなければ、
この苦しみもいずれは、「楽になりたい」という衝動の素となってしまうかもしれない。

ある種の人間にとって、
「不安」というものは苦しみであり、
安定したい欲と、それができない現実に苦しみ、死という永遠の安定に誤って吸い込まれそうにな時がある。

どうせ死ぬんだから、好き勝手に生きたらいい。

そんな言葉も、百も承知ですが、
そうなれないから苦しむのです。

とはいえ、
一旦、「死んでもいいや」って思った命。
好きなように、
そして、世の中の役に立つように使えたらいいなって思いで、
やっていけなくなるまでとりあえず生きてみようと思って、
生き恥をさらして生きてみようと
毎日、なんとか生きています。

生きて。
何もうまくいかなくてもいい。
ただ、生きて。

死ぬまでは生きていいんだ。
今は、心が死んでいるだけ。
でも、肉体まで死ぬ必要はない。
死ぬまで、生きている。
生きていいんだ。
実はね、導かれているんだ。

生きてほしい、
どうか、導かれるままに。


なんしかカッコいい大人になろう。

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