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30年前のウクライナ訪問・思い出・経験・印象1、キエフとリボフ(リビウ)編

約30年前、ソ連崩壊後2年弱だった初夏の頃、
ウクライナを1カ月程、貧乏旅した。

 モスクワ→夜行列車→
 首都キエフ(約10日)(知り合いの知り合い宅2ヶ所泊)→夜行列車→
 リヴォフ(現リヴィウ)(3日)→夜行列車→
 オデッサ(約10日)(知り合った人の友人宅泊)→夜行列車→
 クリミア半島南部の各町(約10日)→夜行列車 →モスクワ

左の赤丸がリヴォフ、 右の赤丸がキエフ


今は知らないが、ウクライナは当時は東洋人が少なく、
1カ月強の間に東洋人をチラっと見たのは、たった3回。
もちろん日本語を一度も話さなかった。

ロシアでは東洋人も多く、外国人と思われないことが多かった。
ロシアとウクライナの違う部分の1つ。


キエフ 

キエフ・ルーシの時代から首都。

ポーランド人(敬虔なカトリック信者)に紹介された
モスクワ在住の敬虔な正教徒(ウクライナ人)に
キエフに行く予定を話すとキエフの”知り合い電話録”をくれた。

一番上にあったAさん宅のリビングに2,3泊、
その知り合い宅に後1週間ほど宿泊させていただいた。

列車内

車中も楽しみの1つ。
何と初めてのダブルブッキング。
コンパートメントに定員4人の所、5人だった。
1人は未明に降りていったが…。

国境越えは、日本人だと何度も止められたことがあるので、
ちょっとスリルがあり、楽しみなイベントだが、
何とその当時は、ロシアとウクライナの国境検査はなかった。
(国境パスポート検査官も回ってこなかった、帰りも同様)

「国境はいつ?」と2,3度、部屋の人達に聞いたら、
「何かまずいもの運んでるの?高級品?貴金属?麻薬は?武器は?」
 などと皆で爆笑。
初対面の5人で夜中まで楽しくおしゃべり。
(スマホなんてなかったので)

キエフでは

名所旧跡、観光地、街の風景、店、劇場、公園…を沢山訪れた。
市民(家族)の生活も垣間見れ、街でも色んな人と話せた。
スタジアムでやっていたフリマに連れて行ってもらった。
敬虔な信者にキリスト教のあれこれを話してもらった。

言語

キエフでの言語は、すべてロシア語だった。
例外は、地下鉄のアナウンスだけだった、
家の人に、そのアナウンスの発音を教えてもらって覚えてみた。
(初めてウクライナ語を発音。ロシア語と似ている。)

泊まった家の当時18歳に聞いてみた。
「ウクライナってウクライナ語じゃないの~?」
とても驚いて「考えた事なかった」というほど目を丸くして、
「え~~~、でも私たちはロシア語よ~」と答えていた。

そこの兄弟はモスクワ郊外の大学で学んでいた。
まだ学費は無料だった時代。

街で話した人達

観光地巡りより、旅は人との触れ合いが楽しみでもある。
道を聞いた1人はモスクワから訪れていた。
親戚の所に遊びに来ていたようだ。

道を聞いた別の人は、暇だからとあちこち案内してくれた。

大きなドニエプル川の上に橋のように掛かる地下鉄の駅がある。
キエフを発つ前日、その駅のホームから、はるか下の水面を
じっと見下ろしていると、1人の中年男性が声をかけてきた。
(飛び降りようとしているかのように見えたかもしれないが。)
「明日、キエフを離れるから、どこへ行くか考えてる。」というと、
「私、映画監督なんですが、今からテレビ局に行くけど見に来ますか?」
警戒しつつ、好奇心が勝ち、人通りや逃げ道を考えながら付いて行く。
監督さんの見せてくれたテレビ局は、暗くて、古そうで、いくつか
見せてくれたドアの内側には狭く暗い部屋に古い機材が少し見えた。

テレビ局までの途上で、監督さんが「1人の女性と合流します」と言い、
そこで会った女性の夫の友達宅に、オデッサで泊めて頂くことになる。


キエフ駅でリヴォフへの切符を買う

リヴォフへの乗車券の為に、駅で1日並ぶ経験もしてみた。
窓口が大きなホール内に沢山あり、全部長蛇の列で全然進まない。
並ぶ人は、途中トイレや休憩に離れる時、後ろに並んでいる人に、
「ちょっと離れます(が、ここに並んでいますからね)」と念押しして、
30分とか1時間とか離れる。
(夕方に、さすがに疲れたので裏側のインツーリスト(外国人用)の窓口へ
行ってみたら秒で買えた。しかも値段も、外国人料金でも思ったほど
高くなかった。(朝から1日並ぶ経験は出来たが)1日無駄にした。



リヴォフ

ロシア語でリヴォフ、ウクライナ語でリヴィウ
”ライオンの”という意味。

地方の小都市だが、その付近では一番大きな町。
モーツァルトの息子が住んでいた事で有名。

列車内(キエフ~リヴォフ)

4人部屋のコンパートメント。他の部屋の人が遊びに来たりもする。

キエフを発ち何時間か後、初夏だというのに大きなひょうが土砂降りに。
しばらく続き、窓ガラスにバンバン当たって、大きな音を立てていた。
列車内にいた時から冷え込みはじめ、リヴォフでは
持っていた服では寒すぎで、予定外に安めの上着を買った。

列車内の不愉快な出会い

キエフからリヴォフまでの列車では、ウクライナ人も乗っていた。
別のコンパートメントのリヴォフ手前のサスノフカ(松町)の2人組が、
ぜひ来て、街を見せたい、と言った。小さい町も興味があった。
周りの人達は聞いていた、目撃者は沢山いて、安全性もまあまあ?と。
でもその後誰もその2人組を見なかった。

サスノフカへ到着するのは夜明け前。目を覚まして待ってみた。
到着前も静まり返っていたし、停車してプラットフォームを見ても
暗くて静かで、誰も降りなかったようだ。
まんまと乗せられた?騙されたような、ちょっと嫌な気分だった。
車両の車掌は停車中は見張り番だが、そのおばさんに少々心配された。


言語

リヴォフでは周り全てがウクライナ語だった。
まず駅インフォメーションを探していたら、
おばさんが(ネイティブ的な)ロシア語で話しかけてきた。
駅で妹が働いているから聞いてみる、と。

結局、普通の安ホテルだが、外国人料金なのでかなり高かった。
ホテルの従業員は(ネイティブ的な)ロシア語の人もいた。


印象

リヴォフの街は、(ポーランド領の時もあり)ほとんどヨーロッパだった。
街を歩いても、奇麗だけど割とこじんまりしていた印象。
見どころもあるが、取り立てて何というのは少なかった。


こういう町は、街歩きや、道を聞いたり、
人との触れ合いなどが魅力的だが、タイミングが悪かった。
3日間ずっと雨で、寒波もきていた。
ホテル代も高かったし。
ロシア語で訊くと周りの人がこっちを見るので居心地悪かったし。

3日目、駅でオデッサまでの切符を入手後、発車時間までまた街へ。
駅から離れているので、タクシーに声をかけ、値段と時間を交渉。
リヴォフの残りの時間で、街を回ってもらった。
運転手はウクライナ語が母語だったが、ロシア語で頑張ってくれた。

   ーーーーー

リヴォフの印象は、
他に書くことが思い浮かばないくらい、これだけだ。
3日間だけだったのと、
あの時から時間が経ってしまったのと、
オデッサやクリミア半島で
もっと強い印象を受けたからであると思う。


表記

リヴォフは今リヴィウと表記されているが、
ロシア語読みというだけで別に間違えではないし
自分が行った時には、日本の地図でもリヴォフだった。
過去の事を書いているので、ここではリヴォフとした。



~ ~ ~ ~ ~

長くなるので、次のオデッサとクリミアは「続く」…


~ ~ ~ ~ ~

NOTEは自分の経験や考察以外の、
資料置き場として始めた
今なぜ現在の考えに至るかは、
経験によるところが大きいと思う。
なので、自分の経験やその時の感情も、
時々NOTEに入れることにした。


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