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「私、今、自分に夢中」って言えるように。 ー凛子さん  <インタビュー>

凛子さん
兵庫県出身。22年春、福岡へ移住。
ご主人とヨークシャーテリアの凛ちゃん(ヘッダー画像)と暮らす。
好きなものは古いもの、カゴ、犬、植物、音楽。

やりたい気持ちと、やれない気持ちと。


―凛子さんはどんな人ですか? 自由なスタイルで教えてください。

そうですね、私のどんな部分を話すにしても、切り離せない要素として‘精神疾患’があります。
でも、私自身は病人だとは思ってなくて、「私」という人間の一部に病気があるだけだと思っているんです
だけど、暮らしについて話すにしろ、仕事について話すにしろ、どうしてもその部分を避けることはできないとは思っています。
こんな生活をしているのは、こういう体調があるからだとか、こういう精神面があるからだということが避けられないのは、もうしょうがないのかなと思っています。

―「精神疾患」という部分について、もう少し教えてもらえますか。

ちょっとややこしいんですけど、もともと鬱を発症したんです。
で、途中で、発症して10年後くらいかな、鬱がひどい時に、病院の先生が鬱の薬を強くしすぎて躁転したことがあって、「双極性障害II型」って名前が付けられたんですね。
でも、躁転は1回だけだったから、自分の中では「鬱」という言葉を出すほうがしっくり来ます。
とはいえ、今鬱々しているかというと全くしていなくて。
精神的な症状はもう何年もないんですが、違う方面に症状が出ているんです。
例えば、本が読めない、字が入ってこないとか、長い映画が(一気に)見れない、とか。あとはものすごく毎日体がだるいんです。
だからみんなが思う鬱とはイメージが違うと思います。

―そういった症状は、鬱と関係があるということ?

そこを先生と探りながら、という感じです。
でも無関係ではないと私は思ってます。30代からずっと続いているし。
一般的に鬱っていうと、すごく落ち込んでいるイメージがあると思うんです。
まあ多少の不眠とかはあるにせよ、そういうイメージとは違う鬱の症状もあるんですよね。


―「こんな生活」とおっしゃったのは、そういうことなんですね。体がだるいとか、本が読みづらいとか。

そうそう。
だから「やりたいことがあるならやればいいじゃん」って思うし、やれない理由を病気のせいにするのは不本意ではあるけど、だけど実際のところすごく影響しているってことは事実なんですよね。

―では、日々の中で気持ちが上がる時は、どんな時でしょう?

うーん……。そこが……。
そこがどうなのかな。
たとえば、私犬を飼ってて、犬が大好きだから散歩に行きたいんです。でもしんどいっていう、なんていうか、心と体が相反するんです。
愛犬と散歩に行きたい、だから犬を飼っているのに、ものすごくおっくうになっちゃう。
まず、行く(家を出る)までにもすごく時間がかかる。
そしていざ行ったら、外に出るということでちょっとは気が晴れるんだけど、でももっと歩きたいのに、「あ、もうここまでだな」って帰ってきちゃうという感じ。

―いろんな場面で「心と体が相反する」ということが起きている?

はい。例えば、私はインテリアとか雑貨が好きで、気持ちも体もいろいろなお店を見て回りたいんですね。
でもいざ出かけると、2軒目ぐらいで「ああ、もう帰ろう。体力的にここまでだ」って感じになるんです。
そして「もっといろいろ見たかったのに」っていうネガティブな気持ちが残ってしまう。

ソファから見える好きな風景


―それはやはり病気と結びついている……?

病気のせいだという言い方よりも、自分の中にこれはずっとあるなっていう。
もちろん諦めない時もあるし、「それを持って生きていくしかない」っていう感覚の時も多いです。
つきあいが長いですからね。何十年とこの病気、この症状なわけで、それを嘆いて生きていくのも、時間がもったいないって思うようになりました。
「本当に行きたい」「やりたい」って思うけど、その次の瞬間「果たして自分が行って帰れるのか」って、冷静になっちゃうんですよね。

―「やりたいからやった、やれた」っていう成功エピソードもありますか?

あります。
「あとでバッタリ倒れてもいいや」って、友だちに会いにいくことはあります。
で、その後「行けてよかった」って思えます。
地元でのライブコンサートとかに行ったりもしています。だから、もしかしたら見ている人から見たら、「ライブ行けてるじゃん、大丈夫じゃん!」って思うかもしれないけど、自分は結構な覚悟を持って行っているんです。
で、「‘行く’を選んでよかった」って思えてるから、また次に行けるってこともあります。

―そういう体験(後でよかったと思えること)は今後増やせそうですか?

たぶん、本当に「やりたい・行きたい」と思ったら、まず「行こう」と考えると思います。
でもあきらめることもあるでしょうし、それを残念だって思う時もあれば、しょうがないって思う時もあるんだと思います。
なんていうか、一つに統一されていない感じですね。
割とそこはこの病気がない人に比べれば、すごい(気持ちの)変動が激しいんだと思います。
予定入れるのが割と大変なんです。
むしろ「あ、今日?今日だったら行ける!」っていうほうがいいかも。

―日常において、満たされていると感じるのはどんな時ですか?

私は趣味がインテリアなんですね。あ、でも掃除は嫌いなんだけど(笑)。
だから、家の中を自分の好きなようにしていくことはすごい楽しみなんです。
インスタのインテリアアカウントの人を見て回るだけでもすごく楽しいし。
雑誌も見るよりインスタはラクなんですよね。文も短いし。


孤独を遠ざけてくれる場所がある


―凛子さんはstand.fm(スタンドエフエム-音声プラットフォーム-)を利用されていますよね。これも日常の充実要素と関係しそうですか?

そうですね。
最初は1人の人を追いかけてアプリを登録したんです。
インスタのインテリアアカウントですごく素敵な人がいて、その人がstand.fmをやっていると聞いて、「わ、声が聞けるんだ!」って追いかけて、その人ばっかり聞いてたんです。
で、その人の配信にコメントをしている人を聞きに行ったりしてちょっとずつ聞く人が増えたんですね。
私のまわりにはインテリアが好きな人があまりいないんだけど、stand.fmなら(好きなことでつながれて)話したいことが話せるって思ったんです。
最初はそういう楽しさから入って、その次に心理学系の人の配信だったかな。
私は常日頃「自分とは?」「どういう心で生きていくか」っていうのを割と考えるタイプなんですね。で、そういうことを話している配信者さんも多くて、それを聞くのも楽しくなったんですね。
自分を見直す時間にもなり、学びや再確認があって、本を読まなくても勉強できるっていうのがすごく助かりました。
そして、同じ病気の人が(配信者として)いるってことも大きかったです。
基本、患者同士のつながりってないんですよ、リアルには。
名乗らないじゃないですか、そんなこと。
だから「同じ病気の人、こんなにいるんだ!」ってわかった後、自分の配信を始めたんです。
SNSを始める時、いつも考えるんですよ、病気を言うか言わないか。
見る人によってはそれで印象がすごく変わると思ったから。
stand.fmではそれを出すことにして、最初は自分の親との話とか、割と深い収録をいっぱいバーっって録ったんです。
そうしたら、思ったより気持ちがラクになって。
(聴いてくれる人は)身も知らない人たちだっていうのもよかったんだと思います。
それに、聞きたくない人は聞かないし、聞こうと思う人だけが来てくれるから、「いいんだ、言っても」って思えて、これは発見でしたね。
その頃から、stand.fmの存在がすごく大きくなりました。

―私も凛子さんとはstand.fmで出会いました。

ですよね。
最初、割と限定された範囲から聴き始めて、徐々にいろんな視野を持っていたり、違うところにいる人、普段会わないような人たちとつながり始めた時に知り合ったんだと思います。
私は今専業主婦で休養中でもあるから、夫が単身赴任していたり、子供が家を出たりで、本当に人と話さない、狭い世間で生きている時間が長いんです。
だから、せめて頭の中だけはもっと自由というか、凝り固まりたくないなって思うようにもなっていましたね。
そして、普段だったら会えないような人に会える場所、それがstand.fmだったんです。

いつもの花屋さんで買ったダリア。
美しさに見惚れる。

―同じような専業主婦の人でも、「この1人の時間が好き、自分の世界に没頭していたい」という方もいるのかもと思うのですが。

専業主婦といっても、大半は夜にはご主人が帰ってくるとか、子供がいるとか、だと思うんです。
それを私は「1人」だとは思いません。
私の場合、夫が計11年ぐらい単身赴任していて、うち6年ぐらいは本当に「1人」だったんです。子供も(成人して)家を出ていたし、夫も帰ってこない。
朝から晩まで24時間1人。
例えば、調子を崩したり喘息の発作が出た夜中でも、私は呼ぶ人がいなかったんです。
胃腸炎で倒れた時も1人。誰もいないという経験を何回もしていて、「これだよ、‘1人’って」って思いました。それが心底寂しかったというのがあります。
もう一つは、たぶん私は人が好きなんだと思うんです。
友だちには「人が怖い」って言うことも多いんですよ。もともと人見知りだったし。
でもある時、友だちから「そんなこと言っても、凛子は誰よりも人のいるところ行くじゃん」って言われて、「ああ、そうかも」って。
それに、stand.fmって声だけだから、年齢とか容姿とか関係ないでしょ。
私は、今のこの姿で人に会うのがすごく怖いんです。
でもstand.fmだと見えないし、年齢・性別が関係ない場所っていうことがすごく大きいです。

―stand.fmと出会ってから、だいぶ変化が起きていますか?

違うと思います。違うな。うん。
stand.fmのない日々は、今は困りますね。やめられないですね。


’何者かになる’とは……。


―これからの人生について、何かお考えのことがあったらお聞きしたいです。

先のことは、いろいろ考えますね。
先に進むにおいて、今の自分が「何者にもなれていない」っていうのが、すごい自分の中にある言葉なんです。
これはマイナスなことだけど。
そして「私じゃないとだめなこと」がない、「私じゃないとできない」って思うことがないんです。
「これ私得意!これできる!」って言えることがないっていう感じ。
その2つが今あるから、それがこの先のテーマでもあると思うんです。

―この先のテーマということは、「何者かになるようにする」ということ?

何者かになろうと進んでいくのか、何者でもないまま、それでもいいと思って「何者でもない私が私」と思って生きていくのか、そこがまだはっきりしていないんですけど。
どっちかっていうと、「何者かになりたい」が強いかな。

―何をもって「何者かになった」になるのか……。

一つの例として、私は’手作り市(ハンドメイドマルシェ)’のスタッフ側で10年ほど携わってきているんですね。そこでものを作る人を見てきたんです。
20代の方から、定年後のおじいちゃん、おばあちゃんまでいらっしゃって、その人にしか作れないものばっかりなんです。
同じイヤリングでも、この人だからこれができるものであって、隣の店では絶対出てこない。そして、その人のものが欲しくてお客さんが来るんです。
それが私はもうすごいことだと思っていて。
売れること自体ではなく、「この人が作っているものが見たい」って求めてくる人がいるっていう、その存在価値というか。
その「もの」を自分で考えて、自分の手で作れるっていうことを、私はすごく尊敬していたんです。
それも一つの「何者」のありようだと思うんです。

手作りの梅ソーダを、お気に入りのグラスで。
泡がいい感じに撮れた!


―「ものを作る」という具体的な方向ですね。

そうですね。私は「作る」人が好きなのかもしれないです。
ライブを見に行っても、「ああ、私はあっち側にいたかったな」って。
演奏する側、歌う側。
見てるのもめちゃくちゃ楽しいんだけど、演ってるほうが楽しいんじゃないかって思ってて。
以前、大橋トリオさんのライブに行った時、トリオさんがそのまんまのことを言ったことがあって。
「演ってるほうが楽しいよ、こっちおいでよ」って。
「それそれ!それを私は思ってるんだ!」って。

―では「つくる」という方向に踏み出すかも、の予感はありますか?

うーん……。
そこに、その、なんか自分のストッパーがかかってるんですよね。
私、「ちゃんとできてないと表に出ちゃダメ」っていうブロックがあるんです。
たとえば「(自分の)声が嫌いだから歌っちゃダメ」とか、「歌がうまくないのに歌っちゃだめ」「ウクレレも上手く弾けないと発表しちゃだめ」とか。
ものも「ちゃんと作れないとダメ」とか、必ず「ちゃんと」って思っちゃう。
「下手でもやっていいよ」って思えるものを、この年までなんで見つけられないんだろうっていうのも思いますね。ま、自分で止めてしまっているんだけど(笑)。
そこを乗り越えるほどのものを見つけたかったなって。

人と比べない、自分だけの’キラキラ’を


―‘完璧主義’を一旦脇に置いて、‘完了主義’を採用する、試してみるってことでもいいのかも……。

そうですね。試しみる、か。いいですね。
あと、年齢についてもストッパーがあるんです。
「若いほど素晴らしい」って。
でもJidakさんと知り合って話をしている時、年齢を感じることはないんですよね。
だからちょっとずつストッパーが外れてきている気はします。
ちょっと変わってきているし、変わりたいと思ってます。

―確かに私は‘年齢’という‘呪い’からは解放されています(笑)。

ですよね。
Jidakさんのように年齢の呪いに全然かかっていない人と話してると、「あれ、ラクそうだな」って(笑)。
こっちもそのフィルターで見られないっていうのも嬉しくて。
これまで「始めるのに年齢は関係ない」ってよく聞いていたけど、それを信じられてなかったんです。
年々できなくなっていくとしかないって思ってて。
とはいえ「しょうがない、もう年だし」って口癖のように言う知り合いもいるけど、そことも完全に一緒にはなれなくて。
なんでかっていうと、私、あきらめが悪いんですよ。だから「そうだよね」って言えなかった。
年を気にしているのに、そこにもいられない。
今、その「あきらめの悪さ」が勝っている状態だと思います。
ただ、どうしても「体調の悪さ」がそこに関わってきてしまうんですよね。
「やってみればいいじゃん」っていう、その「やってみる」の一歩が、言い訳じゃなく大変だったりするんです。
だから、「この(病気と共に生きていく)私でできること」を考えないと…。

―そうですね。人は置いといて「自分だけの世界を見つめていく」は正しい気がします。比較ではなく。

そうですね、そこの思考があるかないか、で違いますよね。
「やってみる」の過程で得られるワクワクも大きいですよね。

―そう思います。何かをしようと思えると、もうそれだけで日々の彩りやキラキラは増えますよね。

そうなんですよね。
でもその先に「何者にもなれない」が立ち塞がっているんです……。
「何か没頭してやりたい」っていうことが見つかれば、「何者かになれた」と思うんですけど。
まずそこが見つけられないんですよね。

―どっち方向に行ったら、日々がキラキラするか……。

ね。「自分にはこれがある!」って思えたらいいな。
今は自分に夢中になってないから、人を見ちゃうのかもしれない。
私、すごい比較癖があって、比較で生きてきたみたいなところがあって。
前はそれが‘やる気’にも通じていたんだけど。
「精神疾患のない人」と比べることとかも全然意味がないはずなのに、これまではずっと比較してたんですよね。
ワクワクしたいです。
「今、私、自分に夢中だわ」って思いたいです、人と比較せず。

空が好きで、よく写真を撮る。
ピンク&グレーの大好きな一枚

―応援しようとして悪気なく発せられた言葉で、より比較してしまうっていうネガティブなスパイラルが起きることありますよね。

そうなんですよね。
でも、そうやって発せられた言葉の中に、自分にとって「キラキラ」につながるものだけは受け取れるような、そういう心の場所は開けておきたいなって、今お話ししていて思いました。
自分の気持ちだけで詰め詰めにしちゃってると、(人の声が聞けなくなって)もったいないですね、うん。
必要なものを入れたり、他は外したり、また入れたり、ね。
カフェのカスタムドリンクみたいに。おいしそう(笑)。
「それを自分で作れるんだ!」って、まず思いたいです。
作れるようになるってことが、私の憧れているものだって気がします。
「人と比べない自分だけのキラキラ」、これだと思います。

―冒頭で、凛子さんが「頭の中は自由でいたい」っておっしゃってましたね。そこにつながりそうですね。

私、今、「ああ、こういうのが私が人と話したい理由だな」って思ってます。
こういう(自分の中で新しい考えが生まれるような)風が入ってくるっていう、
こういうのが嬉しくて仕方ないです。
話していく中で、見つかった(自分の考えが言語化できた)ってことでもあるんですよね、これって。

<終わり>

取材・構成・編集・文字起こし:Jidak
画像提供: 凛子さん


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