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「真相究明」に被害者劇場記事は無用

メディアスクラムと和歌山ラーメン

タイトル画像は東池袋自動車暴走死傷事故の犠牲者遺族、松永拓也氏。

事件や事故の加害者、被害者のもとに報道陣が殺到する現象「メディアスクラム」の弊害が長らく指摘されてきました。その代表例として現在も実例として挙げられるのが「和歌山毒物カレー事件」(1998年)でしょう。夏祭りで提供するカレーに毒物を入れたとして死刑判決を受けた林眞須美死刑囚は現在も再審請求を続けています。逮捕前から林家に報道陣が殺到。その模様はワイドショーで連日、報道されました。現在ではまず考えられないことです。

その過熱報道を物語るエピソードとしてこんな話が地元で囁かれています。今では全国区になった和歌山ラーメン。スープはとんこつ醤油ベースで人気です。チェーン店やコンビニカップ麺も見かけます。毒カレー事件の当時、在京のメディアも来和しましたが、周囲に飲食店がなく地元のラーメン屋を利用したそうです。これがなかなか旨いということで、全国的に広まったと地元の方に教えられました。ラーメンマニアからツッコミが入りそうで怖いけども、真偽はともかくそれほどマスコミが殺到したから生まれた噂かもしれません。

逆に被害者取材というのは2つの問題点を感じています。一点が先のメディアスクラム。以前よりは改善されたという声もありますが、奇妙なもので加害者のプライバシーは配慮される一方で、被害者に至ってはFacebookなどSNSの画像を使われ報道というケースも散見されます。

犠牲者のプロポーズを公開する意味はある?

知床沈没事故なんて犠牲者男性が婚約者にあてたプロポーズの手紙まで公開するってあまりに残酷じゃないですか。痛ましい悲劇であり、犠牲者男性の無念ははかり知れないものがあります。しかし私は何ら意味を持たない報道だと考えます。なぜなら真相究明と一切関係ないからです。

本件で重要なのは「なぜ事故が起きたのか」「なぜ行政の対応が杜撰だったのか」「再発防止にすべきこと」でしょう。それらを検証するのに果たして犠牲者のパーソナリティやプライベートを報じる必要があるのか。

あらゆる事件、事故の被害者の方に誤解されかねない表現になるかもしれませんが、こうした報道スタイルは「被害者劇場」なんです。可哀想でしょ、気の毒でしょ、と読者、視聴者の琴線に訴えかけます。あるいは社会の問題意識を喚起する意義はあるかもしれません。ただ繰り返しますが真相究明とは別次元に位置しています。

ではなぜ被害者劇場に向かうのでしょう。それは取材が楽だから。特に政治的に複雑な背景があったり、テクニカルな話だった場合、心情論・感情論に逃げがちです。単純に被害者の証言を紹介するだけだから申し訳ないけど、気の利いた大学生でもできる作業です。

しかしそれは調査報道ではない。断っておきますが、被害者の声や悲しみを無視しろっていうのではありません。被害者、遺族の無念を記録することも報道の一側面だと思います。

しかしさあさあお立合い、お涙頂戴、話すも聞くも悲劇の物語、このスタイルに集中しすぎているような気がしてなりません。

さらに表題の「寄り添い報道」の温床となる取材スタイルです。寄り添い報道とはマスコミにとって都合が良く描きやすい被害者、弱者、社会的マイノリティの言説をそのまま垂れ流すこと。特に昨今、特定市民、特定団体に寄り過ぎではないでしょうか。このテーマになると今回の論旨からズレるので別の機会に譲ります。

被害者劇場によって被害者に反発が起きた怪現象

熱海市土石流被害のシンボルになった丸越酒店(熱海市伊豆山)

ここ数年、私は割と社会的に反響が大きい事件の取材に関わっています。直近だと熱海市伊豆山土石流ですが、熱海市内の被災者、地元関係者に取材する中で奇妙な現象に遭遇しました。

土石流の発災の様子はSNS上、YOUTUBEですぐに拡散されました。土石流に耐えた通称「赤いビル」こと丸越酒店です。実はこのビルの家主、熱海市議会の高橋幸雄議員。被災者であり市議という立場なんですね。ところがこの方、地元住民からバッシングされているのです。

土石流の原因になる盛り土や危険な工事を知りえた立場なのに住民に注意喚起しなかったということで、同市百条委員会は住民が参考人になって証言をしましたが、複数の地元住民から高橋市議は名指しで批判されました。反発を招く要素はいくつかありますが、以下の『東京新聞』の記事。典型的な被害者劇場記事と言えましょう。

「被災者に寄り添った生活再建や被災地の復興を考えなければ」。伊豆山への思いと、議員としての責務を全うする決意は変わらない。

このように記事を締めていますが、それはそれはもうコトコト煮込んでできたフォンドボーのような被害者劇場記事でございます。もちろん高橋市議にも「想い」はあるでしょう。ただ地元の事情や背景はもっと複雑で高橋市議は“ ええかっこしい”に見えてしまったのです。住民からすればなぜ発災前にもっと注意喚起しなかったんだ、議会で取り上げなかったんだということになります。

東京新聞は「分断」という用語を好みますが、妙なもので同紙の記事で「分断」を招いてしまったのです。例えば高橋市議の証言で土石流の原因究明につながればいいけれど、どこをどう見ても「お涙頂戴劇場」の範囲を出ません。

SNSで被害者自身が想いや憤りを発信できる時代

ネットやSNSが存在しない時代ならば新聞・テレビの被害者劇場も相応に意味があったと思います。しかしもはや被害者自身が想いを訴え、怒りをぶつけられる時代。TwitterやFacebookなどのネット発信は被害者の方の全てが可能な訳ではないですし、中傷を受ける可能性もあります。現に東池袋事故の松永氏にはTwitter上で心ない言葉を浴びせるユーザーもいました。

しかしより直接的に生の声を社会に届けるという大きなメリットも見逃せません。

そんな時代にあってマスコミの被害者劇場は意味や意義を失ったと思います。それよりも被害者、被災者ではアクセスできない取材元に当たってより事件、事故に関するより多くの情報を提供すべきではないでしょうか。それは被害者や遺族にはできないことです。

自分はマスコミではないけれど、自戒を込めて被害者報道について考えてみました。

被害者当事者でもないのに「被害者」を振る舞う人にもマスコミは甘い。










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