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一人称小説における、モノローグ型と対話型について

大学の講義で小説を人称によって区分する、ということを学んだ。具体的には一人称、二人称、三人称の視点で書かれた小説に分けられる、ということだ。

だが、特に一人称小説に関しては、さらに区分を設けた方がよいと思われる。つまり、さらにモノローグ型と対話型に分ける、ということだ。一体どういうことなのか、以下で述べていく。

モノローグ小説とは、小説の中に他者との会話が全く出てこず、「私」の見たイメージ、あるいは「私」の心境、行動のみが描写される、というタイプ。一方、対話型とは、「私」からの視点ではあるものの、他者が出てきて会話がなされている描写がでてくる小説のことだ。

ではなぜ、こうした区分が必要となるのであろうか? それは、この二つの間に「認識」の違いが生じているからだ。そしてこの「認識」とは、あくまでもその小説における「私」の認識であり、対話相手の認識は出てこない。

モノローグ型では、世界は完全に「私」という主体の認識であり、その描写は全くの主観的といえるであろう。もちろん他者が存在しないわけではない、ただしそれは事物と等価とでもいえる対象でしかなく、いわゆる客観の入り込むすき間はない。

一方、対話型では、あくまでも「私」の枠内ではあるのだが、他者の会話が描写されることによって私以外の主観、いわば共同主観ともいえる事態が立ち上がっている。この他者性が入り込むことによって、一人称小説の中に客観性というものがまぎれ混んでいる。

もちろんこうしたモノローグ型、対話型という区分は勝手にこしらえたものではなく、実は『批評理論入門 フランケンシュタイン解剖講義』から借用したものだ(第一部 小説技法編 9…声)。

この中では、ミハイル・バフチンの中心概念としてあくまでも「声」の区分で用いられている。だが、一人称小説では地の文はすべて「私」の声である。実際、読者は一人称小説を読む際、他者の会話部分以外はすべて「私」の語りとして「私」の声で読んでいる。

したがって、一人称小説に限っては声の区分であるモノローグ型、対話型という区分が有効であり、またそのように分けることによってそれぞれの型に属する小説の特徴がより鮮やかに立ち現れてくると思われる。それでは、以下でそのモノローグ型、対話型の実例について詳しく見ていこう。

このモノローグ型、対話型がはっきりとわかるのが、梶井基次郎『檸檬』と『城のある町にて』であると思われる。

梶井基次郎は短編小説が中心であるため、小説を購入すると順番としてはたいてい『檸檬』を最初に読むことになる。そしてこの『檸檬』はまさにモノローグ型の代表といえるだろう。会話はない。他者も友人が間接的に述べられてはいるが、まったくの点描。

中心はなんといっても「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」から始まる私の心象であり、また風景描写である。そして最終的には持っていた檸檬を丸善に置き去りにして立ち去るのであるが、そのときの他者の反応さえない。まったくのモノローグだ。

「京極を下って行った。」で『檸檬』を読み終わると、たいてい次の作品は『城のある町にて』になっている。そしてその出だしの「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格別でごわすな」という老人の言葉で読者はハッと我に返り、他者に気づくこととなる。

そう、こちらの『城のある町にて』は対話型であり、老人の他にも少年、姉といった様々な人物の会話が聞こえてくる。あえていえばつくつく法師の鳴き声でさえ、会話といえるだろう。

意図的にこのような小説の並びにしているのかもしれないが、『檸檬』『城のある町にて』の並びはモノローグ型、対話型の対比が鮮やかであり、互いの特徴をより際立たせているといえよう。