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 連合赤軍事件研究 No.1

このnoteの一番最初に取り上げる事件は『連合赤軍事件』である。この事件はあさま山荘事件(1972)の解決後に発覚した連合赤軍による連続リンチ殺人である。その死者は12名にもおよび、日本の新左翼運動の衰退への契機となった事件でもあった。
現在では遠い過去の事件のように感じられると思うが、この事件はいわゆる日本人の『周りの空気を読む』特質がもたらしたものと私は考え、このアカウントで取り上げる第一の事件として選んだ。
この事件の特徴の一つとして、関係者の多さがあげられる。初回の今回は事件に関わった人々の、事件までの経歴について述べようと思う。
連合赤軍とは1971年7月15日、赤軍派と革命左派が結成した新左翼の組織である。まず母体となった二つの組織に分け、それぞれに所属していた連合赤軍事件に関わった者たち、事件に関わらなった者たちについて紹介する。

1960年代後半のベトナム反戦運動は、日本の大学生たちの学生運動に多くの影響を与えた。しかし、1969年の東大安田講堂事件によって彼らに対する風当たりは強くなり、多くの学生たちが活動を離れた。残った学生たちはさらに過激化し、派閥同士の内部ゲバにも苦しめられることとなった。

赤軍派

赤軍派は1969年結成された過激派組織。関西の大学を拠点とし、最高指導者には塩見孝也(京大)を据えた。彼らは武力による革命を主張し、トロツキーの『世界同時革命』に影響されていた。
目指す革命のため、彼らは東京や大阪での大規模暴動を画策していた。しかし、首相官邸襲撃のため訓練していた大菩薩峠で大量に検挙され、組織としての生命が危ぶまれることとなった。一部のメンバーは『よど号ハイジャック事件』を起こすなどして海外へ亡命したが、塩見など指導層が逮捕されてしまう。この事態を何とかしようと様々な活動をしたが、結局成功したのはM作戦(マフィア作戦。銀行強盗で資金の強奪を行っていた)のみだった。警察による取締りも厳しくなり、追い詰められていく。

赤軍派所属で、事件に関わった者たち

1.森 恒夫(大阪市大)
本事件のリーダー格の一人。同じ大学出身の田宮に憧れて活動に加わるが、他党派との内部ゲバの際戦線を離脱、旋盤工として働いていた過去がある。
赤軍派幹部が次々と逮捕されたため、復帰が認められ、次第に頭角を現す。『海外に拠点を持つべき』とする重信房子らと対立し、組織から追い出して実権を握る。兵器不足・メンバー不足から革命左派との統合話を進めることとなる。独特のイデオロギーで事件を主導することとなる。

2.坂東 國男(京大)
森の腹心。植垣らの上司にあたり、M作戦の指揮を取る。自らはナンバー1にはならず、常にナンバー2を好む傾向にある。

3.山田 孝(京大)
塩見孝也の盟友で、赤軍時代の序列では森より上位だった。塩見孝也を庇った罪で逮捕されていたが、保釈され、森の下で活動することとなった。坂東は軍事面で、山田は論理面で森を支えていくこととなる。

4.植垣 康弘(弘前大)
友人青砥とのつてで、赤軍派のM作戦に加わることとなった。手先が器用で、爆弾やアジト作りで活躍することとなる。独自の活動で、進藤隆三郎や山崎順を活動に参加させた。

5.青砥 幹夫(弘前大)
合法部と非合法部の連絡役を務めていた。この役割のため、山中のアジトと都内のアジトを往復することとなる。

6.進藤 隆三郎(日仏学院)
元々独自の活動をしていたが、植垣からの勧誘でM作戦に加わることとなった。また彼と同棲していた女性が騒ぎを起こすことが多かったため、当初から森の評価は高くなかった。

7.遠山 美枝子(法政大)
赤軍派創設のころからのメンバーで、重信房子の親友。主に救援対策(獄中のメンバーを支援する活動)を担当していた。重信房子の出国後は、資金集めに奔走する。革命左派との統合話が始まると、赤軍には女性の軍のメンバーがいなかったため、白羽の矢が立てられた。赤軍派幹部の内縁の妻だったため、組織内では特別扱いされていたことが後々問題となる。

8.行方 正時(岡山大)
岡山大時代に一緒に活動していたメンバーがデモ中に死亡する事件に遭遇している。赤軍派に所属してからは合法部・非合法部を行ったり来たりの生活をしていた。元来の性格と、恋人がウーマン・リブの活動家だったことが問題とされるようになる。

9.山崎 順(早大)
植垣の勧めで、M作戦に参加するようになる。M作戦で運転手役をずっとしていたことが問題とされるようになる。

赤軍派所属で、事件に関わらかった者たち

1.塩見 孝也(京大)
赤軍派の最高指導者。よど号ハイジャック事件の前に逮捕されていたが、共謀共同正犯で裁かれることとなった。19年9か月の獄中生活を送り、1982年出所。出所後も政治活動をしていたが、2017年死去。
本人は連合赤軍との関係を生涯否定していたが、彼の論理が森に影響を与えたことは間違いない。

2.田宮 高麿(大阪市大)
赤軍派軍事委員長。1970年仲間8名とともにハイジャック事件を起こし(よど号ハイジャック事件)、北朝鮮に亡命した。亡命した目的は『金日成をオルグすること』だったが果たせず、仲間たちと亡命生活を送る。1995年急死。現在北朝鮮には、よど号メンバーは4名、日本人拉致の被疑者が2名存命している。
森は田宮の忠臣を名乗っていたが、森が政治局入りしたと聞かされた田宮は『森は度胸がないからダメだ』と語ったといわれており、評価はあまり高くなかったと思われる。

3.重信房子(明治大)
赤軍派創設のころからのメンバーで、遠山美枝子とは親友。森が台頭してくると、彼女の『本拠地を海外に持つべき』は聞き入れられず、別の組織で活動していた奥平剛士と偽装結婚、パレスチナにわたる。
パレスチナではパレスチナ解放戦線(PFLP)で活動していたが、1972年ごろ日本赤軍を結成。ハーグ事件など人質事件を多数起こし、旧赤軍派の活動家や一般受刑者まで釈放させた。
ひそかに日本に帰国していた2000年逮捕され、2022年満期退所となった。彼女との連絡を取り続けていたことが、遠山の運命を狂わせる一因ともなる。
なお日本赤軍は彼女自身が解散を宣言したが、残りのメンバーが継続を主張していた。実態は彼女が逮捕されたときには、すでに崩壊していたと思われる。

もう一つの派閥・革命左派については次回とりあげることとする。



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