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連合赤軍事件研究No.3

前回までの二回で連合赤軍を構成した赤軍や革命左派について取り上げた。今回は連合赤軍事件の発端である『印旛沼事件』について取り上げる。

二人の逃亡の経緯

坂口の提案で山中アジトで集団生活を送るようになった革命左派のメンバーたち。すでに指名手配されていた指導者層(永田・坂口・寺岡・吉野)や銃砲店襲撃事件の実行犯をはじめとする軍のメンバーだけでなく、合法部の一部メンバーらも集められることとなった。これは永田の意向であった。
永田は真面目で親身になる性格が好まれて指導者となったが、指名手配され窮地に陥ると精神的に不安定になっていた。赤軍派の北朝鮮亡命を見習って、『中国に亡命する』と無理難題な計画をたてていた。これに強く反発したのが、合法部メンバーたちだった。またこのころには獄中の川島との関係にも亀裂が生じており、その間を取り持っていた合法部の指導者層に対する不満は高まっていた。結局山中アジトを築くことになり中国亡命計画はとん挫したが、永田は合法部の自分への反発を感じていた。この合法部メンバーの山中アジトへの参加は永田自身の権威を取り戻すことも目的の一つだと考えられる。
坂口は自分が言い出したことといえども、早速山中アジトでの生活に不安を感じだしていた。特に心配していたのは、向山と早岐であった。
向山は高校時代の友人・岩田に誘われて革命左派に参加していた。個人でのデモや集会参加の経験があり、組織的には期待されていたが、

「獄中の渡辺さん(大槻の内縁の夫。彼の逮捕後、大槻は向山と男女関係になっていたこと)への謝罪のためにも軍メンバーとして頑張る」と言うのであるが、自分は「テロリストとしては闘えるが、それ以上でない」とも言うのであった。

坂口 弘『あさま山荘1972』(上)

という態度であった。
早岐は中村や伊藤の同級生で活動歴も短かったが、ハンガーストライキの経験やダイナマイトを恐れなかったことが永田に評価された。しかし、ノンポリ(政治活動をしていないひとの意)の医師の恋人がいて、非合法のアジトから通っていると知り、坂口は評価しなくなった。
男性の活動家の恋人が活動に関わることはあったが(吉野の妻・金子など)、女性の活動家の恋人が活動に関わることはなく、そういった女性の活動家は自然と組織を離れる傾向にあったからだ。革命左派はこの問題をおさえるため活動家同士の関係を推奨しており、永田と坂口の関係もその一つであった。しかし、永田は坂口のように評価を変えなかったようだ。
指導者層や軍のメンバーは札幌の六畳一間のアジトで逃亡生活を送った経験もあり、山中のアジトでの生活は慣れたものであった。一方で、前日まで一般社会で生活していた合法部メンバーとっては大変な生活だった。山中アジトでの生活に悲鳴をあげたのは、坂口の予想通り、向山と早岐だった。
向山は入山後1週間ほどで、『小説も書きたい』・『大学にも行きたい』との理由で、逃亡した。
早岐は最初の逃亡に失敗して連れ戻され、懲罰として小屋に幽閉された。この懲罰に疑問を呈したのは、前澤と女性メンバーのみだった。幽閉中に態度が改まったとして永田と坂口は彼女を交番調査(襲撃する交番を前もって調査すること)に加えたが、この調査中早岐はスキをついて逃亡してしまう。このタイミングが最悪だったのだが、次項に述べる。

処刑の決定


向山の逃亡は、当初は大事ではなかった。当時革命左派は急激に過激化し、ついていけなくなったメンバーの離脱はよくあることだったのだ。
しかし、向山の逃亡後の行動が伝わると、風向きが変わる。
都内での任務を終えたあと、大槻は向山に接触した。彼女はなんとしても活動に戻ってほしいからであっただろうが、向山は活動に戻ることを拒否したうえで、関係先にきた革命左派専門の私服警官(公安)と酒を酌み交わしたことまで得意げに話した。大槻は恋人とはいえど向山の行動に危機感を感じて、永田に

「向山の下山をそのまま放置していたのは問題であり、こういう行動をしている向山を殺るべきだ」

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
269ページ

と進言した。永田はとりあえず坂口や寺岡に相談するとしたが、彼への怒りで一杯だったことは想像に難くない。
この向山についての進言からすぐ、早岐の逃亡の知らせが伝えられた。伝えられたのがほかのタイミングであれば彼女の逃亡は大事にならなかったのであろうが、向山の下山後の行動を知らされたばかりで、永田は過剰に反応した。永田は大槻に向山と早岐の調査を命じた。
調査を終えた大槻は永田に『二人とも大変だ』と報告した。早岐は下山後、中村らに山中アジトでの生活に対する不平不満を話し、アルバイト先の店長に肌が黒いことを指摘されたときには山にいたと答えたという。一方で、向山は趣味で書いている小説に山中アジトのことを書いているというのだ。二人の行動は山中アジトでの生活を愚弄しているものと永田は解釈した。永田は坂口と寺岡を呼び出し、大槻の報告を伝えた。

「牢獄(向山・早岐を幽閉する算段だった)でやっていけるかしら」
と二人に問うた。これにたいし、寺岡氏が、
「殺るか」
といった。私は、しばらく考え、処刑は大変な闘いであり、そこまでやらなければならないのかと少し迷ったが、私たちの闘いを守るためにはそれしかないと思い、
「うん」
と答えた。坂口氏は黙ったまま同意する態度をとった。こうして、向山氏、早岐さんの処刑をいとも簡単に決めてしまったのである。

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
276ページ

と永田は処刑の決定を書いている。一方、坂口は、

私は、この安直な決定を思うと、打ちのめされたような気分になる。特に悔やまれるのは早岐さんと向山君と一緒に殺害してしまうことを決めたことである。(中略…早岐の行為は向山の行為に比べて程度が軽いことを指摘している)このことは殺害を決めたときにも、私にはある程度わかっていた。それなのに、反対はおろか疑問すら口にしていない。殺害の言葉に畏縮してしまい、言葉に出せなかったのである。

坂口 弘『あさま山荘1972』(上)
第12章 印旛沼事件
335ページ

と書いている。永田と坂口、二人の意見さえまとまっていない状態で、向山と早岐の処刑は決定されたのだ。

この時期の赤軍派との接触


革命左派は銃砲店襲撃事件で銃を確保していたが、資金不足に悩まされていた。一方の赤軍派は大菩薩事件で大量に検挙され、よど号事件も模造刀で乗り切ったぐらいだったが、元の組織が大きいので資金面では革命左派に比べればましな状況だった。そのため、二つの派閥は銃と資金を相互援助する関係から始まった。
二人の処刑が決定されたときには軍の共闘の話も出ており、永田は森に二人の処刑を決定したことを伝えた。すると、森の反応は

「実は赤軍派でも同じ問題があり、処刑することを決めている」
といい、坂東氏に、
「なあー」
といった。そして、
「我々の方は、高崎にいる夫婦者二人だ」
といった。これを聞いて私はやはり処刑は正しく必要なことだと改めておもった。

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
279ページ

というものであった。この『高崎にいる夫婦者』とは進藤とその恋人のことだった。進藤の恋人が精神的に不安定になり、たびたび警察に駆け込むと騒ぎを起こしていたため、森は坂東に処刑を命じた。しかし、坂東は植垣らと相談し、二人を活動から引き離すことにした。結局進藤自身は活動にのこること(そして事件の犠牲者となる)になったが、この報告を受けた森は追及することはなかったという。
そんな森の言葉でも、永田は自らを正当化するためにすがるようになっていたのだ。この傾向は事件に最悪な結果をもたらすことになる。

早岐の処刑


処刑の実行者には寺岡、瀬木、吉野が選ばれた。前澤と加藤能敬は処刑に批判的だったためはずされた。しかし、運転役には小嶋が他に適任がいないということで選ばれてしまった。小嶋は処刑に反対したが、寺岡に説得され、いやいや参加させられることとなった。
早岐のほうが警戒心が薄く、呼び出しやすいということで先に実行することとなった。
1971年8月3日、早岐を向島のアジトに呼び出して、金子や杉崎らが睡眠薬入りの酒を飲ませはじめた。すると、寺岡が坂口を新小岩の喫茶店に呼び出した。

(寺岡はいままでの報告をした後)視線を少し落とし、
「早岐が合法で活動したいと言っているが…」
と遠慮勝ちに言った。瞬間、私は、彼が動揺していると思い、強い口調で、
「一度決まったことは覆せない」
といった。

坂口 弘『あさま山荘1972』(上)
第12章 印旛沼事件
342ページ


早岐の処刑には疑問的だった坂口だが、森の発言や一人で熟慮を重ねた結果、すでに踏ん切りをつけていたのだ。また、寺岡に対しての複雑な感情も

寺岡君への対抗心があったことも否定できない。日頃強気の発言をしていた寺岡君が、土壇場で見せた弱気な一面に対し、ハッキリ説明しかねるが、私は優越感のようなものを覚え、指導的な地位を知らしめようとしたのである。

坂口 弘『あさま山荘1972』(上)
第12章 印旛沼事件
343ページ

と記している。中止の決断を下せる最後のチャンスがこうして失われた。
午後11時ごろ、金子から早岐が寝込んでしまったという連絡が実行グループにもたらされた。実行グループは早岐を車に乗せた。このときにはすべてを察し、早岐は「だまされた」とつぶやいたという。印旛沼でおろすと、リンチの上絞殺され、遺体は全裸にされて埋められた。
永田と坂口は新小岩のアジトで待機していた。永田が落ち着かず、座ったり立ったりを繰り返して、坂口は「落ち着け」と諫めた。実行グループは明け方帰ってきた。

寺岡氏は私のところに来て、私の両肩をしっかり押さえ、ゆさぶりながら、しっかりとした感じの声で、
「殺ったぞ!」
といった。

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
280ページ

こうして彼らは引き返せない道に足を踏み入れたのだ。

向山の処刑


早岐に比べ、向山は警戒心が強く、なかなか実行できなかった。
8月10日、恋人の大槻らがどうにか小平市のアジトに呼び出したが、向山は警戒していて、飲み物や食べ物には口をつけなかった。そのうえ夕方になると上京してくる弟を迎えに行くからと席を立とうとした。そのとき、大槻が体調を崩したふりをして、足止めさせることに成功する。この後も酒を勧めたが、向山は飲まなかった。
実行グループはしびれをきらし、泊まりに来たというそぶりでアジトに入った。向山は立ち去ろうとしたが、実行グループにつかまり、激しい抵抗をした。寺岡はアジトで殺害すると判断し、金子や杉崎に手足を抑えさせ、向山を絞殺した。遺体は早岐と同じく印旛沼に埋められた。
実行グループの反応は、早岐のときに比べ、薄いものであった。これは向山の行為が明らかな利敵行為であり、自分たちを正当化させやすいものであったのであろう。

赤軍派への報告とその反応


早岐の処刑後、永田はすぐに森に報告した。

「私たちは殺った」
と報告した。これに対し、森氏は、前回の時と異なり、
「殺る前に何かいわせたか」
といった。

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
289ページ

坂口はこの森の態度に言行不一致を感じたと記している。
向山の処刑の報告は坂東を通して森に伝えられた。

(坂東が向山処刑の報告を森にしたところ)
非常に衝撃を受けた様子で、
「え、またやったのか!もはやあいつらは革命家じゃないよ!頭がおかしくなったんじゃないか!」
といいながら、暗い顔でじっと下をむいていました。

坂東 國男『永田洋子さんへの手紙ー十六の墓標をよんで』
第3章 連合赤軍への道
103ページ

森はそもそも永田らに接触し始めたとき、「革命左派をオルグしてきたぞ」と仲間内に話すなど、革命左派を下に見るところがあった。下に見ていた革命左派が自分たちが回避した処刑という行動を起こしたことは、森へのプレッシャーの1つとなったとも考えられる。

処刑後の革命左派内の反応


処刑後、実行グループには勿論箝口令がひかれたが、重苦しい雰囲気は革命左派全体に広がり、公然の秘密という状態であった。
印旛沼事件の最中、合法部の幹部が恋人とともに活動から離脱した。実行グループのひとり・瀬木はこんな発言をしている。

「あけみちゃん(逃亡した幹部のあだな)をやらなければならなくなったら、自分はやりたくない。あけみちゃんとは親しかったし、そういう感情をもっているから」
といった。私はこれにびっくりしてしまい何も答えられなかった。離脱則処刑という風には考えていなかったからである。

永田 洋子『十六の墓標』(上)
第7章 二人の処刑
283ページ

永田たち指導者層としては離脱則処刑とは考えていなくとも、実行していた彼らはそういうふうに解釈していたのだ。
瀬木はさらに消耗していき、恋人を活動に参加させてくれと永田に頼んできた。永田はなんとか瀬木の離脱を止めたいとこの申し出を受け入れたが、瀬木は精神的に追い詰められていく。
ある日、瀬木は恋人と一緒に離脱しようとする。恋人から断られると、拳銃を持ち出して一人で出かけてしまった。残りのメンバーたちは懸命に探し、坂口が拳銃を取り上げて、山中アジトに連れ戻した。

(坂口に瀬木が連れ戻されてくると)吉野氏が、
「どうしてなんだ。どうして頑張らないんだ」
といって、泣きながら瀬木氏を殴り始めた。瀬木氏は殴られるままであったが、そのうち元気のない調子で手をあげて、
「もうわかった。下山しない」
といった。吉野氏は、えり首をつかみ、
「本当なんだな」
といい、瀬木氏がうなずくとえり首を離し殴るのをやめた。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第8章 連合赤軍への道
43ページ


こうして逃亡を阻止された瀬木だったが、結局恋人ともに逃亡し、逃亡先で逮捕されてしまったのである。

運転手役をやらされた小嶋も、精神的に不安定になっていた。その影響で、度々交通事故を起こすようになっていく。永田はもとから彼女の相談相手となっており、「活動から離れたい」との意向も聞いていた。このことを報告された坂口は小嶋を連れ出し、洗濯を強制的に行わせた。坂口にいわせれば「ぐずぐずしているから逃げることを考え出すのだ」とのことであったが、永田はこう記している。

小嶋さんにたいする坂口氏のこの洗濯の強制は、同志的な感情に基づいたものであった。しかし、一種のしごきであり、逃走しようとした瀬木氏を吉野氏が殴ったのと同様に暴力的総括要求の萌芽であった。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第9章 共同軍事訓練
73ページ


こうして、革命左派は処刑というとりかえしのつかないことを実行してしまった。実はこの前にもスパイを疑われた人物がいたのだが、そのときはその人物を組織から追放することで、どうにか処刑を回避していた。今回は向山と早岐を山中アジトに連れて行ってしまっていたため、処刑するしかないとまで思い詰めてしまったと思われる。組織全体を暗い雰囲気が支配したのは想像にかたくない。
赤軍派の場合、格下となめていた革命左派が処刑を実行したために、十字架を背負ったということになる。
次回からは山岳ベース事件の始まり、共同軍事訓練についてまとめる。

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