何者でもない、何者かになりたい私

私は何者にもなりたくない。
何者かになるということは何かを捨てることであってそれは大切な何かなのだと思う。

誰かを傷つけることで誰かが幸せになり
誰かが損をすることで誰かが得をする。

だとすれば私利私欲や夢や希望を持つことによってどこかで誰かが悲しい思いをする。

全ての事柄はゼロサムゲームであると思っていてそもそも利がなければ害がない。

だが害がなければ利もなり得ない。

人は傷つくから成長するのも事実であるし、倒れるから立ち上がるのだとは思う。

だけれども、その損をする人を限りなく少なくしてその損を受け止めて幸福度や満足度や利益を最大化したい。

哲学的に言えば、最大多数の最大幸福であり、最小損失の中で全体最適・全員幸福を目指したい。

損をする人や社会を限りなくゼロにして全員で勝てる幸せになれる社会を創っていきたい。

世の中には人の足を引っ張り相対的に自分の順位を上げようとする人がいる。誰かを犠牲にして自分の利益を最大化したいと思う人がいる。

それぞれの人や社会にとってそれぞれの成したい夢や想いがある。その夢や想いに共感するからこそ、それが見えるからこそ苦しむ時もある。

その助けたい想いは本当は善なのだけれども、強くなければ簡単に悪意に飲み込まれてしまうこともある。

だとしたらその悪意すら受け入れるほどの強さを備える必要がある。その為には自分自身が圧倒的に強くなるしかない。

それは物理的な強さではなく、思想や信念、環境や経済的な強さなど様々なものがある。
それを手に入れることが結果としてより多くの人を救える手段なのだとしたら、私は今持てる力をその先にある信念を達成する為に使ってもいいのかもしれない。

どうしてもここはこだわらなければダークサイドに簡単に堕ちてしまう。絶対にダークサイドに落ちないラインを全力で駆け抜ける必要がある。

とすればただ考えるだけでなくこの目の前の壁を乗り越える必要があって、この壁を乗り越えるか壊すか迂回することになるんだろう。

もちろん場合によっては壁の向こう側の景色を見たいと思う気持ちを諦めることも必要なのかもしれない。

だが私自身が生きる意味を考えた時、諦めてそこで立ち止まることはしたくない。

考える故に悩み苦しむ。
正解がないからこそ正解を求める。
正解を求めるからこそ見つからない。

この悩みが尽きた時、想いが消えた時、私としての社会における役割が終わり、天命が訪れるのかもしれない。

だとすればまだ私にとっての諦めるべき場所はまだここではない。

今の私に何ができるのか、何がしたいのか、どうありたいのか、ここをしっかり考えたい。

悩みは尽きない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?