「マジックのゴール(目的)とは?」への再応答

この記事は、下村氏が2022/3/25に挙げた記事「マジックのゴール(目的)とは?」に対して、
私が2022/4/9に挙げた記事「「マジックのゴール(目的)とは?」への応答」の再考・再校記事である。

下村氏のnote↓

じんの応答↓

4/9 下村氏からのコメント

上記のじんの応答に対して、下村氏からは、以下のようなコメントをもらった。

『NO.1
思いがけず、詳細に読んでいただける方が、じんさんを含め何人もいてたいへん嬉しく思っています。
いろいろ説明が不十分というじんさんのご指摘はごもっとも。実態は論文ではなく「こんな話が面白ければ、私が他で発信するものなどもチェックいただければ」という短いCMのような文章なのでご了承ください。色々はしょって、マジシャンに何かインスピレーションを与えられるように、短い文章を心がけています。(つい長くなりがちではありますが^^;)

NO.2
指摘1について:「マジカルアトモスフィアは魔法と限定しているというのは誤読なのでは?」という件。そうかも知れませんし、そうじゃないかもしれません。今となっては著者に聞けないので真相はわかりませんが、「魔法」と受け取らない方がいいぞ、かつ(カタカナの)マジカルという語もここでは使わない方がいい、というのが私の提言です。
「MAGIC」という単語は「魔法」と「手品」という2つの意味を持っています。似てるけど非なるものなので、日本人が考えるときはとくに注意がいりそうです。『アスカニオのマジック』の翻訳者の田代茂さんは、「マジカルアトモスフィアは、魔法っぽいという意味でなく、圧倒的な不思議という意味じゃないかと思っている」とコメントくれました。英語での不思議という表現が少ないので「マジカル」になっちゃったのではないかという指摘でした。ならばなんと訳すべきか?

NO.3
なお「奇術師は魔法使いを演じる役者である」という言葉も、欧米でも「誤訳(読み違い)なんじゃないの」という議論があるそうです。ところが、日本では言葉通りに通っています。プロマジシャンの原大樹さんからは、「普段も魔法使いを演じようと努力して鬱病になった事例を何度も見た」という信じられないコメントをいただきました。可哀想。もっとはやく書ければよかった。
やはり、MAGICという英単語には、注意が必要です。
なおこの指摘1の最後で、じんさんは、メンタルマジックのことを”要検討”と、いったん議論からはずして論じていますが、手品としていっしょに論じたい派です。むしろメンタルマジックをどう考えるかがいま自分にとっては重要案件です。

NO.4
指摘2について:「マジカル」という言葉じゃない代替案として考えた「奇術の目的は奇跡を行うこと」をもっときちんと定義してくれとのことですが、これもごもっともだと思います。またどこかで発信したいなあと思っています。
私はとりわけ「新しい手品を考える」ということに興味があるので、いままであった手品を見て作った定義でガチガチに固めるというよりも、むしろ、はみ出すようなものも手品になりうるのではないかというような広い定義(発想)をしがちかもです。また、手品で起こす”奇跡”は、手品師の手の中で起こるのではなく各観客の頭の中で起こるということは押さえておかないとかと思います。

NO.5
「珍しい花をそだてているのは花師であって手品師とはいえない」とじんさんは書いていますが、そんなこともないのです。それはじんさんが花師だと知っているから手品ではないとわかるだけなのです。ご存知のように、手品って、人が知らないだけのごく合理的な理屈で起きています。奇跡は、だれがどう受け止めるかによって簡単に起こっちゃったり、起こらなかったりします。このあたりは簡潔に書くのがちょっと難しいので、「また説明が足りない」といわれそうですが、長くなるのでここではこのぐらいで。
“奇跡”についてはいろいろ考えていることがありますので、またなにかの機会に発信するかもしれません。ご興味あれば今後ともチェックいただければと思います。
私もじんさんの文章楽しみにしています。ありがとうございました。』


1.「マジカル・アトモスフィア」とは何か

「アスカニオのマジック」を手に入れたので、「マジカル・アトモスフィア」の定義に関連する部分を、以下引用する。

『マジカル・アトモスフィアー(Magical Atomosphere)とは……これは特に新しい考え方というわけではありませんが……マジックの基本的条件のことを言います。言い換えればマジシャンが何かマジックを演じたときにマジシャンが表現する驚きとか不思議ということになるでしょう。
もちろんこのとき、観客にはそのマジックのタネが見えてはいけませんし、観客が「なにか怪しいぞ」とか、「こんな風にやってるんじゃないかな」とかと思ってしまうようでもいけません。観客はそういったタネの存在にすら気づかず、演技の中でマジシャンは観客が気づかないうちにちゃんと仕事をしていくという風であってしかるべきなのです。
結局マジカル・アトモスフィアーとは、観客に一連の演技の中でも何もかもが本当の魔法によって起こっているように思わせた場合、あるいは奇跡を起こす方法というのが本当にあるのだと思わせた場合を言うわけです。
このように怪しいところがなく、誰も次に起こることを予想すらしない状況下で、マジックの現象とか驚きといったものが創出され、観客はそのときの秘密の動作やタネについて考えもしない、ということになればこのときマジシャンが表現するマジックの現象は文字通り驚くべきものになるというわけです。マジカル・アトモスフィアーとはこのように考えていけば、マジシャンなら誰でも憧れる、マジックを最高レベルにまで完璧に演じること、という風にも言えると思います。』p52 「アスカニオのマジック マジックの構造に関する考察」(2011)*
(改行はじんによるもの)
『動作に不自然なところがあったり、へんなところで音がしたり、あるいはそのほかの原因があったりして、観客に何らかの技法が用いられたと悟られた瞬間に、マジカル・アトモスフィアーは崩れ去ってしまうのです。』p52-53 「アスカニオのマジック マジックの構造に関する考察」(2011)

ここで、アスカニオは、「マジカル・アトモスフィア」について、
・マジシャンが何かマジックを演じたときにマジシャンが表現する驚きとか不思議
・観客に一連の演技の中でも何もかもが本当の魔法によって起こっているように思わせた場合、あるいは奇跡を起こす方法というのが本当にあるのだと思わせた場合を言う
と述べており、ここの記述を見る限りでは、
①手品師がどのような演出方法をするか、
②観客がどのような印象で受け取るか、どのような機序として理解するか、
の両側面を見ていることが分かる。

下村氏は、『奇術師が表現する不思議は本当に魔法だけなのでしょうか?』と問いを立てて反論を試みようとして、奇術の演出に関する反例を挙げている。

下村氏
しかし、それで奇術の演出の全てをカバーはしていないのではと私は考えています。
たとえば、「メンタルマジック」という分野は人間の精神力で不思議を起こすという演出のマジックなので、魔法を表現しているわけではありません。』

『話は戻って、メンタリズムだけでなく、他の奇術の演出についても考えてみます。不思議が何の力で起きているかについては、「魔法」とは限らず、いろいろなことがアリなのが奇術だと思うのです。』

『このようにその気になれば、魔法を表現していない奇術の演出は、これまでのマジックの中にもたくさん見つけることができます。』
(太字強調はじんによるもの。)

しかし、ここで下村氏に指摘できる点は二つある。

一つ目は、アスカニオは「魔法」「マジカル/Magical」という語を用いているものの、「マジカル・アトモスフィア」が指すものの範囲を「魔法」に限定してはいないということだ。もう少し広い範囲で使っている。
参照:『マジシャンが表現する驚きとか不思議』『奇跡を起こす方法というのが本当にあるのだと思わせた場合』
(他ならぬアスカニオが「奇跡」の語を使っている!)

下村氏のコメントNO.2,NO.3で触れられているように、「魔法」や「マジック/MAGIC」という語を使わずに手品の定義や美的鑑賞を説明する必要があり、私は美学研究者としての立場からそれを課題とし、過去のnoteでも試みている。
参照:じん「永遠に解けない魔法はあるか ~未完」(2019)

下村氏
『「奇術のゴール(目的)は、奇跡の実現である」
__奇術は観客の前で奇跡を現出させてみせることを目標とする芸能であるというものです。その演出としては、魔法の力だけでなく、何の力を使ってもよいのです。』

下村氏が「魔法」でなく、「奇跡」という語を用いて説明するのであれば、それでもよい。その中身を検討しなければならない。

下村氏への指摘の二つ目は、すでに述べたが、「マジカル・アトモスフィア」を考えるには、手品師がする演出の方だけでなく、観客がどう受け取っているのかについても考えなければならないということだ。
この点に関して、下村氏は「奇跡」とは何かを検討する際に、観客の受け取り方にも注目している。

下村氏
その理を知らない人にとっては、奇跡に見える場合もある』

『奇術の世界では、たった52枚の中から選んだカードを当てただけで、奇跡のように感じさせることができるのは皆さんご存知の通り。いやそれどころか、コインをどっちの手に隠してるかの1/2の確率を当てただけでさえ奇跡と思わせることができます。』

(観客の)誰にとって、どのようにその人が受け取るかによって、同じ現象にもかかわらず「奇跡」にもなれば「奇跡」じゃないものにもなる。この点は下村氏のコメントNO.4,NO.5にも表れている。

下村氏のコメントより
『また、手品で起こす”奇跡”は、手品師の手の中で起こるのではなく各観客の頭の中で起こるということは押さえておかないとかと思います。』

『「珍しい花をそだてているのは花師であって手品師とはいえない」とじんさんは書いていますが、そんなこともないのです。それはじんさんが花師だと知っているから手品ではないとわかるだけなのです。ご存知のように、手品って、人が知らないだけのごく合理的な理屈で起きています。奇跡は、だれがどう受け止めるかによって簡単に起こっちゃったり、起こらなかったりします。
(太字強調はじんによるもの)

私がコメントを受けてまず思いついたのは「マジックミラー」だった。今では多くの人がそういう機能を持つ製品(発明品)と知っているだろうが、知らない人にとっては奇跡や魔法にもなる。
ここで重要なのは、その鏡を手品師が「魔法の鏡」と呼ぶかどうかという演出ではなく、観客がその製品(発明品)を知っているかどうかという点にある。
また、「青いバラ(blue roses)」も、私は既に開発されたものとして存在すると知っているが、かつては、奇跡や魔法の類だっただろう。


2.下村氏がいう「奇跡」とは何か

下村氏曰く、『“奇跡”についてはいろいろ考えていることがありますので、またなにかの機会に発信するかもしれません。』とのことだったので、楽しみにアンサーを待ちたいが、先に少し検討しておく。

下村氏
『魔法は現実には起こりえないことしか含みませんが、奇跡はもう少し大きな不思議の集合で、魔法はその一部でしかありません。魔法を見せるのがゴールではなく、珍しいこと(普通ではないこと)を見せて面白がらせるのが奇術の目的なのです。

私が思うに、手品は、単に「珍しいこと、目新しいこと、普通ではないこと」というだけに留まらない魅力があり、それを「魔法」(「”マジカル”・アトモスフィア」)と呼ぶかはさておき、珍しい花や目新しい発明品と、「手品」とを区別できるような説明の仕方をしておく必要がある。

この点については、先日私が書いた「2022/3/20 第2回奇術史研究会 じん感想」でも触れられている。

私は、珍しい花や目新しい発明品が、手品になる場合があることは否定しない。ただし、珍しい花や目新しい発明品がそれ自体で手品であると言えるかと問われれば、私は否と答える。
珍しい花や目新しい発明品は、興味深く/interesting、魅力的/attractiveだったりするかもしれないが、それらは手品特有の美的感覚(=MAGIC)ではないと私は考える。

ここで、論じる上で整理したい点として、〈手品であること〉と〈「マジカル・アトモスフィア」が生じるものであること〉あるいは〈「奇跡」の実現であること〉との関係を考えなければならない。(cf.2019年時のじんメモ)
つまり、
〈手品〉であればそれは常に〈「マジカル・アトモスフィア」が生じるもの〉であるのか
〈「マジカル・アトモスフィア」が生じるもの〉であればそれは常に〈手品〉であるのか
という問いの答えを押さえておく必要がある。
下村氏に問うのであれば、
〈手品〉であればそれは常に〈「奇跡」の実現〉であるのか
「奇跡」の実現〉であればそれは常に〈手品〉であるのか
という問いだ。

ここで、アスカニオが考える「本物のマジック」と「インチキマジック」の概念を参照しておこう。

『マジックには2つのタイプがあると思います。本当にマジックと言えるマジックと、インチキマジックです。本当にマジックと言えるマジックはそうはあるものではないし、とても難しいものですね。そしておそらくそういうマジックだけが芸術と呼ぶに足る価値があるのではないかと思います。完全に不可能ともいえるようなことを目の当たりにして、観客が大きな衝撃を受け、何がなんだかわからなくて頭を抱えるほかないような状況、そのような状況が起きて初めてそのマジックが本当にマジックと呼べるようなマジックになるのだと思いますし、そこがポイントになる点だと思います。…

…ここでポイントとなる考え方は、不思議というものが発する波動が観客の心の中でうねりを起こしていく、というものなのです。言い換えれば観客が『これはあり得ないことだ。私には一体何が起きたのか理解できない、本当に不思議なことだ』と感じるようなときを指しているわけで、そのとき不思議というものが発する波動が観客の体の中に広がっていくのです。このときこそ真のマジックの現象が引き起こされたと言えるのです」。
 奇跡が起きたときの観客が示す最初の反応は拍手や笑いではなく、あまりの驚きに言葉も出ないというものなのです。』p38

 『インチキマジックは不思議なオチを作ろうとしますが、うまくいきませんし、その不思議なオチを作ろうとさえしないこともあります。インチキマジックは観客をただ笑わせるため、あるいは自分の技を見せるため、または物理的にあり得ないような現象をみせるためにマジックのようなことをするだけのことで、マレー*3に言わせれば「ちょっと面白いこと」というようなものです。でも、ちょっと面白いことは、それがマジックである必要はないのです。観客は一風変わった演者の手さばきを見て、「面白いな」と喜びはするでしょう。演者が技術的に難しそうなことをすれば、「すごいね」、とは言ってくれるでしょう。演者にカリスマ性があればそれを楽しんではくれるでしょう。でもそこには、理解を超えるような出来事とか、本当に不思議な体験といった要素は、完全に欠落しているのです。
 つまりこういった不思議というものが発する波動を生み出す、あるいは生み出す可能性があるのがマジックなのだ、という考え方こそが本質的だといえるのです。』p39 「アスカニオのマジック マジックの構造に関する考察」(2011)
(*3 マレーは、Misdirection誌の編集者であるRicardo Marré氏を指す。※じん注釈)

アスカニオの立場は次のように整理できる。
〈手品〉であればそれは常に〈「マジカル・アトモスフィア」が生じるもの〉であるのか
・『本当にマジックと言えるマジックはそうはあるものではない』と述べているし、「インチキマジック」もマジックに含まれてはいると解するなら、⇒No. 否。
手品の中に、
「マジカル・アトモスフィア」が生じる手品と、そうでない手品がある。
・『インチキマジックは観客をただ笑わせるため、あるいは自分の技を見せるため、または物理的にあり得ないような現象をみせるためにマジックのようなことをするだけのこと』と述べているし、○○風/-likeは○○ではない(「インチキマジック」はマジックではない)と解するなら、
⇒Yes. 是。
手品であれば常に「マジカル・アトモスフィア」が生じる。

〈「マジカル・アトモスフィア」が生じるもの〉であればそれは常に〈手品〉であるのか ⇒? 不明。

いずれにせよ「マジカル・アトモスフィア」は特有の美的鑑賞、美的感覚を表す語であると私は考えるが、それが「手品」という行為・芸術形式に特有のものかどうかは明言されていない。


3.メンタルマジックの検討に関して

下村氏のコメントより
『じんさんは、メンタルマジックのことを”要検討”と、いったん議論からはずして論じていますが、手品としていっしょに論じたい派です。むしろメンタルマジックをどう考えるかがいま自分にとっては重要案件です。』

私が「要検討」としてメンタルマジックについて詳細に論じないのは、私がメンタルマジックについて何も知らないからである。
(私が見たことのある映画「グランド・イリュージョン」でメンタリストが一人出てくるので、そこで描かれている範囲のことだけしか知らない。)

①メンタルマジックは「マジカル・アトモスフィア」が生じるものなのか、という点(特に観客(というより被験者か)の受けとり方の側面を注視)
②メンタルマジックは「手品」なのか、という点(2.で行う整理)
を押さえるべく、ここは下村氏の論を待ちたいと思う。

ちなみに、3/20の第2回奇術史研究会で長野栄俊氏が話すテーマに、明治期の催眠術の話が入っていた(なんでも当時は軽犯罪になってたらしい)。時間切れで話が聞けなかったが、当時の催眠術師のスタンスの変化とかももしかしたら参考になるかもしれない。
4/14(木)21:00-23:00にある補足の勉強会で無料で聞けるらしいので、気になる人はどうぞ。


以上を、じんからの再応答とする。
前進しているだろうか。

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