ジャグリング雑誌「JUGGZINE」(ジャグジン)について

 どうも、じんと申します。
 今日はジャグリングアドベントカレンダー2023の企画の12月3日の分の寄稿記事として、私が関わっている雑誌「JUGGZINE」について紹介します。

雑誌「JUGGZINE」とは

 雑誌「JUGGZINE」(ジャグジン)は、年1回刊行予定の、今年2023年に創刊された雑誌です。

購入ページ↓

 ピントクルの山下氏にお声がけいただき、JUGGZINE編集部の初年度メンバーとして、参加しました。各メンバーは1人1つ何か文章を書いていて、私は、論考「迷い猫に尋ねる」を書いています。
 雑誌では40ページ以上(3万字超)の紙面を私の論考に割いてもらいました。ページ分(価格が高くなったこと)に見合うだけのものとなっていると思います。 他のメンバーの文章も合わせて、どうぞ1冊お求めください。

 私が「これを買え」と人に勧めるのは珍しいと思うのですが、私が自分の文章の対価に金銭を求めるのはこれが2回目です。(これからは年1回に増えるかもしれません。)
 1回目は、『ピンクの猫』として「ジャグリング論集――ジャグリングを分析美学する」(2019)を出したとき。

 2回目が今回というわけですが、JUGGZINEは紙の雑誌となっておりまして、在庫に限りがありますので、こちらの方を先にお求めいただくのがおすすめです。
 1冊1500円+送料200円となっています。
 ただいまお買い上げいただけば、クリスマスまでには届くと思われます。自分へのプレゼントに、年末年始の空いた時間にどうぞ。

 雑誌「JUGGZINE」の内容については、公式Twitterからの内容紹介、またはピントクルのサイトの内容紹介ページを参照してください。

以上、中西みみず、きぞはる、板津大吾、あべし、山下耕平、花田充、じんの七名がJUGGZINEの初年度寄稿メンバーであり、チームの運営母体ともいえる「JUGGZINE編集部」のメンバーである。
今後は、雑誌の寄稿者(書き手)と「編集部」(運営メンバー)は一致しないこともあるだろうが、現状は一致した”JUGGZINEチーム”となっている。

対価としてお金をとることについて

 さて、価格を付け、金をとるということに対する私の考えを述べておく。(おそらく他メンバーとは異なる意見の部分もあるだろう。)
 JUGGZINEに寄せている私の論考は普遍的な内容だと考えているため、執筆当初から、ジャグラーではない者や中学生・高校生のジャグラーにも読んでもらいたいということを意識していた。(私は長崎のジャグパニーゴの方々と面識は無いが、JUGGZINE の他メンバーからの話題にしばしばあがる。)場所や年代を問わず、「誰もが私の文章を読める状態にある」ということは重要だ。
 したがって、JUGGZINEを国会図書館に2冊(東京本館・関西館)納本している。また、私が基本的にインターネット上に文章を上げているのは、誰しもにアクセスしてほしいと考えているという理由がある。(勿論、インターネットという場所もまた偏っているという批判もあるが。)
 この「誰しもに手が届くようにするべき」という私の基本的なスタンスと、対価として金をとることが反しているのではないか、ということを起点に、「価格を付けて金をとる」ということについて話す。

 私がJUGGZINEに値を付けている理由について、今思い浮かぶものは三つある。
 一つは、これは”タダではない”(ただならぬ)ということを強調したいという理由だ。
 私が(例えばこのnoteで、SNSで、日常生活で)普段世に出している言葉と、JUGGZINEで乗せている論考の言葉とを比較して、後者の方をより重視して、注意を向けて、気を払ってみてほしいということを意図している。
 また、社会に数多くあるただの言葉(無料の言葉)と、JUGGZINEの言葉とを比較して、後者の方をより重視して、注意を向けてほしいということも意図している。

 どうしたらJUGGZINEにある言葉たちを”ただならぬ”と思ってもらえるだろうか。(それも読む前に、だ!)
 その回答の一例として、ここでは「価格を付ける」ということを行っている。「価格(売り値)がその物の価値を表している」という考え方は余りに資本主義的であるし、それが正しく適用できない場面も多くある。が、かなしいことに、お金(金額の多寡)は、現在の社会で通用する(価値を表すための)数少ない共通言語だと思う。
 価値が未だ知れないモノ(例えば、あなたが手作りしたこの世界に一つしかないもの、革新的な発明品、今までになかった考え方・思想)を価値づけるとき(それはすなわち批評でもある)、そして、そのモノを知らない者に対していかに価値があるのかを伝えるとき、価格というラベルは有用に機能することがある。
 私は自分の論考について、値千金、それより価値があるという意味で「値が付けられない」とも考えるが、その”値札の無さ”が、タダで配られ、捨てられる広告チラシとか、あるいは誰も買えないように値札の無いショーケース(または美術館)に閉じ込められた品とか、そういった手法で価値づけられて人に届かないよりかは、「適価で売りさばく」ことにより多くの人に届く方が私の目指す目的に資すると考える。(その方がましだ、次善の策だと言えなくもないが。)
 そのときの適価というのがどのくらいかという問いは難しいが、雑誌「JUGGZINE」に値付けをすることによって、少なくとも、ジャグリングというものを知らない人達に対して、「この雑誌に対してお金を払ってでも読みたいという人が、この世界に居る」くらいの価値だと思わせることができる。

 二つ目は、継続的活動のために(前もっての)資金が必要だ、という理由だ。
 雑誌の印刷代等の制作コストや、その前提となる執筆者各人の生活コストを回収するということに加えて、来年度の発行のための資金を工面するためという理由がある。これは、JUGGZINEチームの方針に継続性というキーワードがあることから来ている。一度のバズりで収益を上げて売り切り、やりきったとばかりに消えていくよりも、継続して雑誌を発行するべきだという意識がチームにある。
 私一人の、または一度きりの活動だったら違ったかもしれない。(私はいわゆるサラリーマンで、自分の文章を売って生活しているわけではないからだ。いつものようにネット上で無料公開とする可能性もある。)しかし、チームとしての毎年の活動であるがゆえに、継続性を確保するだけの資金が前もって手元にあることは必要だろう、という判断だ。
 ただし、私からすれば、雑誌の発行はJUGGZINEチームにとって活動の一部でしかないという点は述べておきたい。(後述する私の活動思想の部分で触れる。)

 三つ目は、私が読者を巻き込みたい、コミュニケーションをとりたいと考えているからだ。
 私の論考を読む者に対して私が求めたいのは、受け取って終わりにしてほしくないということだ。受け取って(雑誌を読んで)、考えたことや論考への評価や、あるいは実践、実際の生活での振る舞い、そういったものを世界に投げ返してほしい。(出来れば私宛てにメッセージをください。)

 私を含め、同時代批評家(批評対象の作品を作った作家・アーティストと同じ時間を生きる批評家)は、その批評が作家に読まれることで、作家と批評家との間に、一種のサイクルを形成する。それは相互に影響を与え合う、
創作・制作のサイクルである。
 私は、文章を書くこと(批評)を通して、作品の受け手としての活動(ジャグリング鑑賞)の他に、文章の作り手としての活動を行っている。批評家は単なる作品の受け手に留まらず、同時に、作品の書き手、作家でもある。
 例えば、ジャグリング作品の作り手→批評家である私(鑑賞者であり、作家である)→私の批評の読み手→…の過程がある。この過程は、前述の二者間のサイクルに留まらず、もっと多くの人達から構成されるまとまりだと考えられる。この矢印の連なりを一連のまとまった活動として捉えられると仮定して、私は、この活動に連なり、参加するつもりの人達(連なり、参加すべき人達)を見つけ出し、あるいはつくり出し、一緒に活動していきたいと考えている。
 JUGGZINEチームとしても、前述のサイクルを生じさせること、そしてまた、矢印で繋がった一連の活動の一端を担うことを志向している、と私は考える。このチームは、内部では各メンバー同士で各自の活動についてのやりとりをし、サイクルを生じさせる一方で、このJUGGZINEがそういったやりとりについての「場」そのものであることを目指すことによって、矢印をチームメンバーの外へも伸ばしていく。
 JUGGZINEチームは完成されていない。寄稿者(書き手)や「編集部」(運営)メンバーを常に募集しているし、継続性という点からも後進を入れる必要があるだろう。それだけでなく、さらに活動を広めていくために、JUGGZINEチームの行う発信は、外へ開いている必要がある。

 それで、いったい誰が、このJUGGZINEの活動(ジャグリングについての受容と制作の実践の連なり)に巻き込まれてくれるだろうか。あるいは、私達JUGGZINEチームは、誰を巻き込んでいくべきなのだろうか。
 私は、この雑誌をお金を出して読もうとする者は、”ただならぬ”と思ってくれる人は、この活動の参加者となってくれる可能性が高いのではないかと考える。


JUGGZINE編集部としての私の活動思想

 私はこれまで、ここnoteでは、2015年からジャグリングにまつわる文章を書いて、上げている。2018年からは『ピンクの猫』と名乗って研究・批評・執筆活動をしている。
 大学のサークルから離れてからは、自分の個人の執筆活動とは別に、あるいはそれを含めた私の全体の活動について、どこで・どのように活動するか、という問題を考えてきた。つまり、個人としてまたはチームとして他者とどう協同して活動するか、という問題である。

 どこで、というのがまた難題で、私は基本的にインターネット上に活動成果を上げていたが、いまいち自分のホーム(Platform)を定めかねていた。ジャグラーやアーティストや、一目置くべき論者の動向を把握し、または同志を見つけてやりとりをし、または自分の成果を発信するのにふさわしい場は、理想的なものがないように思っている。
 それはネット上の場所(WEBサイト、SNS等文章投稿サービス)のこともそうだし、コミュニティという意味でもそうだ。
 私は2018年から「ジャグリング論壇」なるコミュニティを求めてきた。(下記【参照】)
 『ピンクの猫』の名乗りは、その体現のつもりでもあった。
 2019年に現代サーカス創作研究サークルであるCouCou(ククー)の活動が始まったときも観測していた。同じく2019年のサーカス学会の設立も観測していたし、現在私も学会の末席に連なっている。両者は今でも私の観測範囲に入っているが、今のところその活動に上手く参加できていない。(私が関東地域に居ないのが主な理由だが。)
 2019年の秋に「ジャグリング論集」を書き上げてから、大学を離れた2020年以降、個人での執筆を続けていたものの、活動場所、チームについての課題は残ったまま、Scrapboxやツイキャス等を試しながら自分の思想の叩き上げをやっていた。

 ピントクルの山下氏からTwitterのDMで雑誌の作成について声がかかったのは2022年の11月のことで、山下氏を含めピントクルは、ジャグリング論壇たりうると私が見ていた活動者であったから、二つ返事で参加を決めた。ちなみに、ピントクルの「雑誌『フニオチル』新しいジャグリング入門」は、2022年5月の発刊である。
 2023年、今年で私は30歳になり、大学生の時から言っていた「師匠を見つける」のをそろそろあきらめて、同志たちと試行錯誤をするか、と思い始めている。

【参照】私の理想の「ジャグリング論壇」について


 当初、話を聞くに、継続的に(1年に1回の)雑誌の刊行を行うことのみを目的としたチームだと私は想定しており、論考を寄稿して終わりで良いとも考えていたが、違っていた。
 JUGGZINEチームにとっては、ジャグリングについての文章を書くことを含め、ジャグリングについて何か発信する・言葉にする人達の、相互のやり取りの場の構築、継続を志向しているのが第一義にあって、雑誌の刊行は、そのやり取り、実践の結果(または活動アーカイブ)としてなされるという位置づけが正しいのだと思った。
 例えば、私の論考の一部はメンバーとの会合(通話、Discordでの交換日記というか往復書簡というか)によって執筆途中で内容変更や追記を行っているし、意識して全員の活動・原稿がなんとなく論考の射程に入るようにしている。また、雑誌の頭に乗っている、座談会の録音を文章に起こしてまとめたものは、まさしく活動アーカイブである。(他にもJUGGZINEチームでは日帰り合宿とかを行った。)
 さらに、今後、雑誌の読者からの感想やコメントを雑誌の次号や次々号に乗せるなどして、JUGGZINEチームと外とのやりとりも、JUGGZINEの活動に取り込んでいくことも企図している。
 そうして、内部のサイクルもあり、外部とのやりとりもあり、年刊雑誌の発行自体が、JUGGZINEという「場」を形成していく、ということを目論んでいるように私は思う。

 合宿で出た話だと記憶しているが、JUGGZINEチームメンバーは皆、自身のテーマ・自身の活動について深く掘っていくような思考・実践を行っている。しかしジャグリングという(ざっくり言えば)身体活動のことについてジャグラーが言葉に、特に文章にする、ということは、『モグラが(宙に浮かび)空を泳ぐ』ような”おかしさ”があり、まだジャグラーの間では一般的でないようだ、と。
 私からすればもっと一般的になるべきことのように思うが、そのためには「場」が必要、もっと言えばこの「場」ではこのようなことが行われている、ということについて広く知ってもらうことが必要で、その為にも雑誌の発刊を利用できる。

 JUGGZINEチームが、同時代批評実践、あるいは同時代のジャグラーその他の人々との相互の言葉のやり取りを促すような企みを持つ一方で、時代を問わない矢印の連なりをつなげていくような企み、アーカイブの視点を持っているというのは、紙の雑誌という媒体である点からも伺える。
 前述の座談会は、ジャグリング情報誌『ジャグパル』について話すという内容だった。20年以上も前に書かれたジャグパルの記事に対して私達が色々話したように、私達の雑誌に対する返答は、30年後になされるのかもしれない。それを可能にするためにも、紙という媒体で残す。(「Yahoo!ジオシティーズ」の終了とかを見れば、WEBサイトがいかに永続的”でない”かというのを私は知っている。)

 私は同じ時間を生きるあなた達とやり取りをしたい(サイクルを回したい)と思っているが、それとは別に、ジャグリングという、本来はその時その場でしか存在できない「パフォーマンス」について、受け手へ伸ばす矢印をなるべく長く後世に伸ばしたいとも思っている。その次の矢印が私に帰ってこなくても、また別につながっていけばいい、という気持ちもある。
 私の今回の論考を読んだ学生が、今後、例えば10年後にでも、ジャグリングについて考えたり、書いたりする契機になれば嬉しい。

 上記のような(私が思う)JUGGZINEチームの活動志向は、私も共感できるものであるし、何より、私個人の活動場所・チームについての課題解決へのとっかかりになると考えていて、そういった理由で、私は「JUGGZINE編集部」の中に居て考える時間を持ったり、JUGGZINEという場に私の思考の産物を置いたりしている。


みなさまへ

 以上、雑誌「JUGGZINE」に関わった私の視点で、雑誌「JUGGZINE」や編集部チームを紹介しました。
 私の個人の思想は異端で、結構尖ってもいるし、言葉足らずな部分があるので、もしかすると理解・共感できないことがあるかもしれませんが、雑誌「JUGGZINE」の論考の内容や、JUGGZINEチーム自体は(今はまだ新奇でも)真っ当なことをやっていると思いますので、今までの話に頷けた人も、「何をこいつは言っているんだ」と思われた人も、是非とも雑誌を読んでみたり、JUGGZINEチームメンバーの誰か一人の活動を追ってみたり、気にしてみてください。
 話に頷けた人はコメントやツイートなんかで感想を投稿してもらえると私が喜んでそれを読み、また何かを書きます。

 2023年ももう終わるようで、また来年にJUGGZINEのメンバーとして、またそれ以外でも、私の活動報告ができたらと思います。
 私がジャグリングイベントに顔を出すことがめっきり少なくなったので、外に出ていかなければとは思っているのですが、相変わらずリアルイベントには出不精になってしまっています。
 積極的に活動企画を立てていきたいと思っているんで、何かあればお誘いください。私からも誘っていきます。喋りはイマイチですが、文章を書くことに自信があります。何卒よろしくお願いします。


再度、雑誌「JUGGZINE」の購入ページ↓


P.S. さよならの予告状

 Twitter(@jin00_seiron)は年内でやめる予定なので、よろしくお願いします。
 連絡とるだけなら、ここ(note)のコメント欄や、boothショップの『ピンクの猫』へのメッセージは見てるし、あとは年内にTwitterでDMをもらえれば、LINEとかDiscordとかのアカウント教えます。(私と面識なくてもメッセージいただければ教えますが、TwitterのDMが相互フォローしてないとできないようになったみたいなので、私との連絡手段がない方は、『ピンクの猫』のメールアドレスpincat.neow★gmail.com まで申し出てください。ご自身が何者かとかの個人情報は全く不要です。)
 アットマークを星にするやつ、久々に見たな。

それでは、また。


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