2022/3/20 第2回奇術史研究会 じん感想

どーも。じんです。
2022/3/20に行われたマジックネットワーク7(MN7)主催の第2回奇術史研究会のアーカイブを3/27に視聴したので、感想を書く。

奇術史研究会の感想を書くにあたって

これを書くに当たり、二つ、私の中で問いが生じた。

一、有料で得た情報について、内容にどこまで言及し、公開してよいか。

これは聴講参加(アーカイブ視聴含む)が有料だったので、内容の多くをそのまま書き起こす等はすべきではないな、と思ったという話。
私の中では有料のもの(特に言語の著作物)を無料で公開するときに迷うのだが、これは著作権の問題と関連・複合しているかもしれない。

というわけで、今回のアーカイブを視聴しながら書いた自分用のメモはあるが、それは蔵にしまっておくとして、今回は私の着眼点に関連する部分のみに絞って、内容を述べることとする。
普段なら気にせず書いている気もするから、日和ってるかも分からん。

あと、私のこの問いとは別に、参加無料にしてくれとは思う。

二、手品の種明かしについて、内容にどこまで言及し、公開してよいか。

手品の批評や研究において、特定の手品のタネに言及しなければいけない場合があると思うのだが、そのときにどう取り扱うべきか。
批評や研究といった「公にひらかれるべき」活動と、手品と言う主題の「秘されるべき」対象は相性が悪い。
私は種明かしに反対する立場ではないから、別に書いてしまってもよいが、実験的に、「ふせったー」を使うことにする。該当部分はふせったーのツイートを貼ることになるので、読みづらいかもしれないが了承いただきたい。

種明かしについては、2018年末から手品美学の一環でテーマを追っているが、未完。
「永遠に解けない魔法はあるか ~未完」(2019)
更新する予定はあります。

全体を通しての感想

この奇術史研究会は存在は知っていたが、歴史は私のテーマからは外れているのであまりちゃんと追っていなかった。(私は歴史をやる面白み、というか「意義」がピンときていない。)

アーカイブ視聴を申し込んだ理由は、手品界隈で私がチェックしている研究者の一人である森下氏の内容が私のテーマに関連するかもしれないと思ったからであり、全編通して面白くなくても仕方ないという失礼なハードルの低さで申し込んだ。

結果としては、面白かった。発表者三名とも興味深い内容だった。が、やはり三名の研究テーマは私のテーマからは外れており、森下氏が微妙に関連しているくらいだった。この点は予想通りだからよい。
せっかくなので少しだけ各人へのコメントを書く。

『近代⽇本奇術⽂化史』の成果~資料から読み解く西洋奇術~ 河合勝
河合氏の史家としての面目躍如と言おうか、「そういえば、なんかあったな」で自分が過去に出会った資料が出てくるのがすごい。そうして点と点をつないだ成果の一端を見せてもらった。
河合氏については私は存じ上げなかったが、CiNiiで調べると論文が6本上がっている。
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000009721139
researchmap↓
https://researchmap.jp/read0041526
江戸~昭和時代の資料を読み解くテーマの他に、教育・福祉の側面からのアプローチもしているようだ。

松旭斎天一とその時代 長野栄俊 (オンライン参加)
長野氏は、福井県文書館に勤めているらしい。アーカイブの本職の人だ!と驚いた。
長野氏の論文↓
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000406560667
発表内容は(予想外に)非常に興味深く、はじめに従来の奇術史研究のテーマや資料に偏りがあることの指摘もしていて良かった。長野氏のような、手品師(奇術史と奇術師の混同を避けるためこう呼ぶ)ではない人が手品研究をすることは裾野を広げることにもなるので、大事。
十字架殺人術の写真を紹介する場面で、写真が切り取るものの偏りにも言及していて、この時点で氏が信頼のおける人だと私は確信した。
人間大砲の話は、サーカスにおいても考察できるテーマだと思った。(比較史、演出論、)

奇術と映画のイリュージョン 森下洋平
今回の発表者の中では、最も私のテーマに近いので、期待していた。
当たらずとも遠からずと言った感じだが、焦点はやはり私と違った。
以下、私の着眼点を述べる際に森下氏の内容にも言及するので、ここでは詳細は割愛。
映画というメディアに関してのテーマで、時代としては最も現代に近いのかな。おそらく発表者の三名の中で最も若い?と思われる。

その他
研究会当日のオンライン配信では、動画が途切れ途切れになるという不具合もあったようだが、後日動画で見た私は気にならなかった。むしろ、会場近くの道路交通音が若干入っていて、そっちが気になった。

今回初めてオンラインでの試み(現地と配信の並行)ということで、この点は素直に称賛したい。
オンラインという「場」を利用することは、コロナという理由だけじゃなく、裾野を広げるという意味でも重要だ。大きな箱を押さえなくても、オンラインでは数千人、数万人に見られるということが出来る。

私の着眼点① 「呪文」について

三名の発表を貫いて、私のテーマと関連するところでは「呪文」の話がある。

アーカイブの1:41:08~ 森下氏
『マジシャンが、常識・思い込みを利用して不思議を生み出す、ということ。まあ500年前に電球があればですね、これは手品になってたと思いますが、現在では誰も驚かないのは、電気が、常識になったからです。』

これは森下氏の発表の序盤だが、初っ端から非常に重要なことを言っている。
ただ、私はこう指摘する。
(1)現代でも、電球は手品になる場合があるし、
(2)そもそも森下氏が前提とする、自身のとる手品定義の立場を明らかにすべきである。

(1)について、電球が手品になる場合があると私が言うのは、以下の野島氏の手品定義を参照している。

「日本一のマジシャンを呼んで「メタバース空間でマジックは成立するのか?」対談するVtuber」(2022/2/5 三珠さくまるchでの配信アーカイブ)より

50:30~ 野島伸幸氏の発話
『マジックであることの証明というか、マジックの定義の話、一回しといた方がいいのかな。
基本的には、お客さんが不可能だと思うことが起こらないといけないんですよ、もしくは、現象が起こった後に、「いや無理だろ」って思わないといけないんですよ。これクリアしていないとマジックにならないんですよね。
で、実写だと、そこの信用が得やすいのは、だって手ってみんな持ってるじゃん。だから、「え、隠すとこないじゃん」とか「触ってないから無理じゃん」みたいなのが、普通はすぐ伝わるんですよ。
…だから、マジックって、現象が起こったときに、それをお客さんがマジックと認識するかどうかの方が、はるかに重要なんよね。不思議と感じるかどうかなんすよ。そこでマジックかどうかって話になるのよ。』

1:08:10~ 野島伸幸氏の発話
(ゲーム「どうぶつの森」の中で住人が消えることがバグなのか手品なのかという話の流れから)
『…だから、ここで、「おまじない」が重要になってくるんですよ。…
マジックを成立させる要素がね、「改め」と「おまじない」の二つがあるとマジックになるので。』
1:09:18~
『…だから、基本的にマジックって、マジシャンがすごい、マジシャンがやってるっていう話にする必要があるんですよね。だから、勝手に住人が消えただとバグなんですけど、マジシャンが消したって話にすれば、マジックになるんですよ。…
イリュージョニストとかそうじゃんって僕はずっと思っていて、【※ネタバレ要素を含む為、ふせったー
…あのマジシャンがすごいってみんな思うのは、そこは、あの人が「おまじない」をかけてやってるからです。』

野島氏は「おまじない」という語を使っているが、「呪文」によって、ある現象が手品になりうるということを示している。

ピカっと光るのであれば自然界の現象である「雷」や、灯る明かりであれば「火の玉」や「人魂」と呼ばれる妖怪は、発明技術である「電球」と同様の現象を起こしている。これらは、手品ではないのだろうか。これらを「手品」と「手品でないもの」に分けるのは何だろうか。

私から森下氏への指摘は、観客が現象を「手品」として理解するために、呪文という要素が必要だということを見落としていないか?ということだ。

呪文の話は、長野氏の発表の中では、
松旭斎天一の十字架殺人術において、「エーショー・キリシテー」という呪文は「イエス・キリスト」の転訛音だったという話で出てくる。当時の奇術師が「キリシタン」演出をしていたという話はそれ自体興味深いが、ここで「手品」が(キリスト教の言う)「奇跡」と異なる理由は何にあるのだろうか。
または、河合氏の発表の中でも、
【※ネタバレ要素を含む為、ふせったー
【※ネタバレ要素を含む為、ふせったー

このように、呪文は、観客が現象の機序を「手品」として理解するためのほかに、手品師自身が手品の種として(声に出さずに心の内で)唱えたり、あるいは、奇跡や魔法を行う魔術師自身が、奇跡や魔法を現前させるために(必要であると深く信じる)呪文を唱えたりするように、術師本人が現象の成功を確信するためにも必要なのである。

ということを踏まえると、森下氏は冒頭の電球の話に留まらず、映画の話をするときも、常にそのメディアを用いる中で、呪文がどこに含まれているかを注意しなければならない。

アーカイブの2:08:35~ 森下氏
『別に、いきなりカットが変わっても不思議だと思わなくなりましたし、合成を見てもですね、それを不思議だと、マジックだと思う人はいなくなったと。』

上記の場面でも、呪文が含まれているかどうかの検討を抜きに、『マジックだと思う人はいなくなった』という落ちに持っていくのは早計ではないか。


私の着眼点② 奇跡も魔法もあるんだよ

「奇跡も、魔法も、あるんだよ」とは『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)からの引用だが、人が不思議;wonderだと思うことは、手品というものに限られない。

奇跡や魔法や、妖怪は、「手品」ではないという立場をとる人が多いのではないか。
私の着眼点①(2)にも関連するのだが、「人が現象を不思議だと思う」ということは手品である条件ではあっても、定義として十分ではない。

あるいは、「人が現象を不思議だと思う」ということさえも、手品である条件ではないかもしれない。(失敗した手品を考えてみよ。または、ミカンが宙に浮くといった、種が明らかな手品は、手品師にとって理想的な結果をもたらしてはいないが、少なくとも「手品」ではあるように思う。)

一方では、不思議であるという点において類似する、手品と、奇跡や魔法や妖怪を切り分ける必要があり、
もう一方では、同一の現象を起こすという点において類似する、発明技術と、手品を切り分ける必要がある。
手品は、奇跡や魔法や妖怪よりも人々が理解でき、かつ、発明技術よりも人々が理解できないものでなければならない。(私が考える手品定義では。)

そもそも森下氏が前提とする、自身のとる手品定義の立場を明らかにすべきである。と私が言うのは、この点について氏の立場が明らかではないからだ。

一つ具体例を出したい。
下記ツイートは、昨年11月にバズった1分ほどの映像だ。まずは見てほしい。
(私が実際に見たのは、https://twitter.com/TheFigen/status/1464210459301720064のツイートだったが、現在は削除されている。)

さて、これは「手品」だろうか?

現実世界において、奇跡的な現象が起こることはある。
自然現象として理解されている雷も、神鳴りと思われていたように、不思議;wonderな現象は、その機序を人がどう理解するかにかかっている。

ちなみに、私の回答は「手品ではない」。なぜなら人為的なものであるという要素(「呪文」)が存在しないから

ここで、一つネタばらしをする。

Whatever your problem is, don’t stop helping people مهما كانت مشكلتك ، لا تتوقف عن مساعدة الناس this page’s videos...

Posted by ‎Cris Elmasry - كريس المصرى‎ on Friday, November 5, 2021

映像は”作り物”(現実の瞬間を切り取ったものではなく、役者とスタッフ達によって演出されたもの)だったわけだが、さて、これは「手品」だろうか?

ちなみに、私の回答は「手品ではない」。今のところはこう答えておく。
人為的なものだということが明らかにされたうえで、「呪文」(神秘的なものであるという要素)が存在しないと言うこともできるだろう。
私も呪文の位置付けや、手品の定義は再検討したい。

ちなみに、発表の中で森下氏が挙げている例は、Zach Kingだった。

私としては、これも「手品ではない」という回答になるのだが、森下氏はどうだろうか?

もし私がこれら映像作品を手品だと考えるとするならば、
これらは、(映像技術であり、奇跡や魔法ではないという)種明かしによって「手品」になるもの、という従来の種類の手品とは違った新しい分類ができるのではないか。
従来の手品が、(奇跡や魔法であり、技術(仕掛けのある物・発明技術、身体的技術)ではないという)種を隠すことによって「手品」になるものであったことと、対照的である。

※参考?:https://youtu.be/cC-HKeLRbVg?t=4825
1:20:25~ さくまる氏『方法を明かすことによって、すごいと思わせるっていう方法は、あるね。』
1:20:50~ さくまる氏『どうやってやってるかを説明することによってマジックとして成立するっていう特殊なパターン』

以上、私が森下氏の発表を受けて、私の研究テーマに関連があると感じた、私の着眼点を二つ紹介した。


MN7に対して(私が勝手に)期待すること

私がMN7に対して期待することは、一つは分野を広げてほしいということで、研究を奇術史に限定している意味は何??と思っている。(私が歴史に興味ない&美学をやってるので)

この点は森下氏の下記ツイートでも、歴史をきっかけに、土台にして広げていくという展望として語られている。

もっと手品をやっていない人を界隈に入れていく必要があるんじゃないの、ということは言っておく。(ただ、そうすると手品業界の種明かし禁止ルールが引っかかるのかも)

私がMN7に対して期待することのもう一つは、若者に目配せしてほしいということである。
別に若者じゃなくてもいいのだが、やることやってる奴らをチェックしてる?
例えば、私が途中で参照した「日本一のマジシャンを呼んで「メタバース空間でマジックは成立するのか?」対談するVtuber」(2022/2/5 三珠さくまるchでの配信アーカイブ)は、マジックマーケット2021冬で出展していた「きそうけん」さんの「夜見れなを救いたい~にじさんじライバーが手品を成立させるには~」が発端となって企画されたものであるし、
また、手品の定義に関して、〈現象+「改め」と「呪文」という形式的要素+不思議と観客が認識すること〉という複数の側面で手品の条件を考えなければいけないときに、同じくマジックマーケット2021冬で出展していた「LENS」さんの「一般奇術学概論」での試みは参考になる。(手品を分解して、構成論(観客から見える現象)と機能論(手品師から見える仕組み・種)と感性論(観客の認識)で分けて論を組み立てている。例えば、それぞれにおける手品の条件を考えてみるとか、一考の価値はある。)

アーカイブ視聴のみだったので、完全には分からないが、参加者を見ても年齢層高めだったし、組織運営的にも、若い奴らに継ぐというのは必要だと思う。
そういう意味でも、オンライン配信と並行で開催という新しい試みを今回初めて行ったということは素晴らしい。(若者に目配せ出来てる。)

開会挨拶で、小野坂東氏が最後に『これからもMN7、奇術史以外もやります。よろしくお願いします。』と言ってくれていたので、今後に期待して応援しようと思う。


以上、感想でした。

やることやってる奴らに敬意をもって、私もやっていく。
見てるぜ、見てろよ。

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