下村知行氏「マジックのゴール(目的)とは?」への応答

取り挙げる記事

先日、私が手品関連のnoteを上げたときに、関連おすすめで上がっていた下記のnoteを読んだ。

「マジックのゴール(目的)とは?」下村知行(Tomoyuki Shimomura)

下村氏の他のnoteでは、現象分類とかも行っていて、一応チェックしている。
書こうとしているテーマは私のやっている手品美学研究と近いものがあるのだが、今回のnoteを読んでちょっと論が甘いと感じたので、「応答」という形で書き残しておく。


検討

氏の論を整理しつつ検討する。

まず、タイトルにもあるように「マジックのゴール(目的)とは?」という問いを立てて、アスカニオの説を叩き台として置いている。

※ちなみに私は「アスカニオのマジック」を読んでいないので、完全に氏の書いた内容をそのまま受けることになる。孫引きは研究においては宜しくないことだが、現時点では了承いただきたい。(とりあえずネットショップで購入だけした。)

※今検索したら、戸崎氏が朗読している動画があるな。
一人読書会「アスカニオのマジック」vol2(2012)


アスカニオの説
『奇術のゴール(目的)はマジカル・アトモスフィアの実現である』

『氏の説明によれば、「マジカル・アトモスフィア」とは、本物の魔法が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気だということです。
仕掛け・タネを全く感じさせずに不思議なことが起こり、魔法が実際にあるんではないかと思わせるのが目標だということだと思います。』

このアスカニオの説に対して、下村氏は「奇術師が表現する不思議は本当に魔法だけなのでしょうか?」と反論を試みている。

下村氏
『魔法の世界観が好きで、そういう演出を行っている人も多いかも知れません。ましてや「マジシャンとは魔法使いの役を演じる俳優である」という有名な言葉もありますので、そのようにしている人もいるのでしょう。しかし、それで奇術の演出の全てをカバーはしていないのではと私は考えています。』

この点については私も同意できる部分がある。

アスカニオがいつの時代のマジシャンか知らないが、古典的な魔術師のスタンスをとる手品師であるのだろう。「手品を完璧に演じるとき、手品師は魔術師になり、そしてそれこそが手品師の理想的なあり方である。」というスタンスは、classicであり、現在も多くの支持を得ている立場だと思う。
その上で、下村氏が言うように、私も、「いや、それで全ての手品が説明できるほど、現代の手品は貧しいジャンルじゃないですよ」と思う。

しかし、続く下村氏の論の展開は、私から見てよろしくない。誤りを含んでいるか、論を支える記述が不足している。
以下、指摘する。

指摘①「マジカル・アトモスフィア」の定義を誤読している可能性

下村氏は、「マジカル・アトモスフィア」を手品における演出に関する語として捉えていると思われる。それは例えば以下のような書きぶりに表れている。

下村氏
しかし、それで奇術の演出の全てをカバーはしていないのではと私は考えています。
たとえば、「メンタルマジック」という分野は人間の精神力で不思議を起こすという演出のマジックなので、魔法を表現しているわけではありません。

『話は戻って、メンタリズムだけでなく、他の奇術の演出についても考えてみます。不思議が何の力で起きているかについては、「魔法」とは限らず、いろいろなことがアリなのが奇術だと思うのです。

『このようにその気になれば、魔法を表現していない奇術の演出は、これまでのマジックの中にもたくさん見つけることができます。

(太字強調はじんによるもの。)

手品における演出、つまり「不思議が何の力で起きているか」という問いに対して「”魔法”によって起きている」と説明する演出の立場が「マジカル・アトモスフィア」だという整理をしているのだろう。
したがって、反例として、「メンタルマジック/メンタリズム」や「陰陽の呪術」、「超魔術」(Mr.マリック氏の手品に題される語)、「ブレインダイブ」(新子景視氏の手品に題される語)、を下村氏は挙げている。

しかし、「マジカル・アトモスフィア」は、手品における演出法のみを定義する語ではないと私は考える。

『氏の説明によれば、「マジカル・アトモスフィア」とは、本物の魔法が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気だということです。』

「マジカル・アトモスフィア」が指すのは、「不思議が何の力で起きているか」について手品師がなんと説明するかではなく、その場を満たす雰囲気、あるいは観客がそれをどのような印象で受け取るかどのような機序として理解するか、という方に重点を置いているのではないか。
したがって、『本物の魔法が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気』を「本物の【陰陽の呪術】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」、「本物の【超魔術】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」、「本物の【ブレインダイブ】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」、と置き換えたとしても、その実際の雰囲気や、観客の受ける印象や感覚(美的感覚)自体は変わりないのではないか。
そして、その雰囲気を指して「マジカル・アトモスフィア」とアスカニオが呼んでいるのであれば、下村氏が挙げる反例は反例ではなくなる。

※メンタルマジックについては要検討。
「本物の【人間心理を当てる(高い確率で推測する)方法】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」は、「本物の【魔法】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」と、その実態を異にすると思われるからである。
したがって、メンタルマジックは「マジカル・アトモスフィア」で説明しきれない手品の例になりうる。が、それはどちらかと言えば、ある不思議な現象が、実は物理法則/自然現象によって起きたものであったと知った時のような例に近いのかもしれない。(この点は「手品」自体の定義の話に関わる。)

指摘②「奇跡」が何を指すかが不明瞭であること

下村氏は、『奇術が扱う不思議の源は「魔法」だけに限らない。』とした上で、『では、奇術のゴール(目的)はなんだろう?』と問いを立てています。
そして、以下のように答えています。

下村氏
「奇術のゴール(目的)は、奇跡の実現である」
__奇術は観客の前で奇跡を現出させてみせることを目標とする芸能であるというものです。その演出としては、魔法の力だけでなく、何の力を使ってもよいのです。』

演出法を「魔法」に限らず、「奇跡を現出させてみせること」が奇術のゴールであるとしているが、その「奇跡」とは、何を指しているのだろうか。

ここで重要な点は、もしも「本物の【魔法】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」と「本物の【奇跡】が存在するかのように感じさせたときに発生する雰囲気」が実態において同じものであったならば、下村氏の論は、アスカニオの論に回収されてしまうという点である。
これを踏まえて、下村氏の言う「奇跡」とは何か、を以下で見てみよう。

「奇跡」というのは、人によっては「死んだ人が生き返る」とかのように、絶対に起こりえないことと捉えることもあるかもしれませんが、そうとも限りません。どんなときに奇跡という言葉は使われているのでしょう。

たとえば「故郷で同じ小学校だった友達と、何十年もしてから、渋谷の交差点でばったり。これは奇跡だ」などという場合もあります。絶対に起こりえないとはいえません。

恋人に「何億という人類の中から君と出会えたのは奇跡だ」そんな使い方もします。実際に起きていることなのに、確かに奇跡のような気もします。

ところが、日食などという自然現象や、「テレビが映る」なんていう現代人にとっては当たり前なことも、その理を知らない人にとっては、奇跡に見える場合もあるわけです。
「春になるたびにこんな美しい桜の花が咲くなんて、これは自然の奇跡だ」などという表現もありますね。

奇術の世界では、たった52枚の中から選んだカードを当てただけで、奇跡のように感じさせることができるのは皆さんご存知の通り。いやそれどころか、コインをどっちの手に隠してるかの1/2の確率を当てただけでさえ奇跡と思わせることができます。

こう考えていくと、単純に、起きない確率の高い事柄を、人は奇跡と呼ぶのではないようです。

(太字強調はじんによるもの。)

ここでは、氏の定義する「奇跡」を説明してほしいのに、「奇跡」が人々にどう使われているかという語用例を持ってきている点が問題だ。
下村氏が、「奇跡を現出させてみせること」が奇術のゴールであるとしている、その「奇跡」とは何を指すのか?を述べるべきである。

「奇跡」とは、
絶対に起こりえないことに限らない
単純に、起きない確率の高い事柄を呼ぶのではない
というのは、下村氏も主張するということでよいのか?

しかし、そうすると、下村氏が後に述べている『奇跡を起こすということは珍しいこと・新しいことを感じさせること。』という言葉と矛盾する。
「珍しい」と言う語は、起きない確率の高い事柄を呼ぶ語のはずだ。

指摘③単に「珍しい・新しい」というだけではない何かがあるからこそ、手品は特有のジャンルなのではないか

下村氏
『それはズバリ、珍しいこと、目新しいことが奇跡なのだと思います。
そして、奇跡がウケるのは、人間は新しいこと、珍しいこと、物事の新しい見方を知ることに感動を覚える生き物だからなのです。』

<まとめ>
マジシャンが行うべきことは奇跡であり、「奇跡とは相手にとって、目新しいこと、珍しいことである」と知ろう。

下村氏が「奇跡」を「珍しいこと、目新しいこと」と定義しているとして、その定義は不十分であると考える。
手品師が、手品において奇跡(珍しいこと、目新しいこと)を実現する(べきである)として、「珍しいこと、目新しいこと」は手品に限らないのであるから、珍しい花を育てている花師とか、目新しい品をつくっている発明家は、手品師に当たるのだろうか?

私が思うに、手品は、単に「珍しいこと、目新しいこと」というだけに留まらない魅力があり、それを「魔法」(「”マジカル”・アトモスフィア」)と呼ぶかはさておき、珍しい花や目新しい発明品と、「手品」とを区別できるような説明の仕方をしておく必要がある。
単に「珍しい・新しい」というだけではない何かがあるからこそ、手品は特有のジャンルなのではないか。

この点については、先日私が書いた「2022/3/20 第2回奇術史研究会 じん感想」でも触れられている。


以上、私から下村氏へ3点指摘した。
私の研究テーマ(手品美学)に関することであるから、下村氏から再応答があると非常にありがたい。
他の方からも何かあれば、リアクションや私のTwitter等に連絡をしてほしい。

あと、「マジカル・アトモスフィア」に詳しいですと言う人がいたら解説を書いてくれ。

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