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#遍路06 人生何周目?16歳の僧侶との出逢い

「オ遍路サンデスカ?」

宿に到着し、冷蔵庫の中へ買ってきた晩御飯を入れ込んでいると後ろから声をかけられた。振り返ると、20代前半くらいの若い男の子が立っている。

「あ、そうです。歩いて遍路旅をしています」

そう答えると、彼はポケットから1000円札を取り出し、「オ接待デス。ドウゾ」と取り出した1000円札を渡してくれた。

ひとまわり近く年下の方にお金をいただくことに少し迷ったものの、旅での学びからいただけるお接待はすべていただくことに決めていたので、感謝の意を伝え、ありがたくいただくことに。

軽く自己紹介をしたのだが、どうやら彼は韓国から1ヶ月半ほどの期間限定で日本に来ているらしい。

「ここに下宿して、近くのお寺に通っています」

・・・なるほど。これは背景が気になる…。

この時は軽い挨拶くらいでそれぞれの部屋に戻ったのだが、せっかくの機会なので彼ともっと話がしたいと思い、シャワーや明日の準備を済ませたあと、買ってきたビールを持って彼の部屋を訪ねてみた。

「よかったら一緒に飲みつつ話しませんか?」

「ぼくは16歳なのでビールは飲めないのですが話でしたらいいですよ」

・・・16歳?

先ほどは帽子を被っていたのでわかりにくかったが、帽子を取った彼は確かに10代の外見をしている。

なんとぼくは一回りどころか2回り近く年下の彼に1000円いただいたというのか。なんかすみませんほんとありがとございます...。

というか16歳にも関わらず、お遍路さんとはいえ赤の他人に1000円を差し出せるってどういう価値観を持っているのだろう。

ぼくが16歳の時は、1月初週、1年間で1番財布があたたかったときでさえ、自分のためにしかお金を使った覚えがない。

その旨彼に伝え聞いてみると、彼も2年くらい前まではお金に執着していたらしい。

「14歳の頃に仏教と出会い、その考え方を勉強するようになった。坐禅を組み、瞑想をし続けるうち、次第にお金への執着を手放せるようになった」

以前、「生は苦である」というのが仏教のベースの考え方であると聞いた。

四苦八苦という言葉が表現する通り、生きているとたくさんの苦しみを感じ、またその苦しみから逃れることもできない。

これらの苦しみがどこから来ているのかというと、「執着」だ。

若さに執着すれば老いることが苦になるし、好きな人に執着すれば別れが苦になる。

そのため、この執着を手放すことが悟りに至る唯一の道である。

・・・うろ覚えだけど、仏教の考え方はこんなロジックだったように思う。

彼曰く、日本にははじめお遍路さんを周りに来たのだが、最初に泊まった宿のオーナーさんが元住職で、修行ができるよう今通っているお寺を紹介してくれたのだという。

今は寺でお勤めをしながら、5時から夕方まで、坐禅、瞑想、読経をしてるんだとか。

来月には韓国に戻り、来年には韓国の寺院に入って修行を積むのだという。

「将来は僧侶として社会に貢献していきたい」

彼はこう話してくれた。

ちなみに、高校にはいかずに修行を積むため、学業については高卒認定試験を受ける予定だそうだ。

世の中は広い。

とても16歳と話しているとは思えなかった。彼の考えや行動にぼくはただ唸らされるばかりだった。

さらに、印象に残っている話がもうひとつ。

2年前、世界がコロナパンデミックでステイホームな風潮になっていた時、彼は自宅でひたすらゲームをしていたという。

だが、毎日同じことの繰り返しであるため、やがて飽きてしまったそうだ。

しかしながら、僧侶としてのお勤め、1日のスケジュールを聞くと、ほとんど同じことの繰り返しに思えた。

「ゲームに飽きてしまったように、僧侶としての行いに飽きてしまう心配はないですか?」

ぼくが聞くと、彼はこう答えてくれた。

「飽きる心配はありません。瞑想や坐禅、確かに毎日同じ行為の繰り返しですが、繰り返すことによって己を磨くことができます。なので、同じ行為ではありますが、厳密には違う行為なのです」

彼の爪の垢を煎じずに、直接ぼくの胃袋へぶちこんで欲しくなった。

世の中は本当に広いな。

16歳の青年にいただいた1000円は、ずっしりと重く感じた。彼との出逢いに感謝。

ぼくも必ず。

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