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大西、はじめました。


 芸術大学を卒業後、建設コンサルタント会社に就職。その後転職してアートディレクター、さらには化粧品の商品開発に従事。そして京都府亀岡市にて、家業である建設会社の事業承継、第二創業に挑戦し始めて早5年。


 簡潔とはいえ経歴をこうして書いてみて、自分で異色だなと思います。


 こんなふうに書き出してしまうとどんな印象が残るのかわかりませんが、僕は子・兄弟・夫・親・経営者…様々な役割の中で喜びや葛藤を感じながら日々を生きている、一人の人間です。


 noteを始めてみたものの仰々しく「はじめまして!」と自己紹介をするのは苦手。なのであまり肩肘張らずに、これから書いてみたいと考えていることを念頭に置きながら、現在の僕に繋がっているこれまでのストーリーを綴ってみたいと思います。






子ども時代:環境の変化の中で良くも悪くも身に着けたもの


 京都府亀岡市で生まれた僕は、生まれてすぐに京都市内に引っ越して育ちますが、小学一年生の夏、突然亀岡に戻ることになります。


 学校という新しい環境に慣れ始めた頃でしたが、場所が変わればルールや文化が全く異なります。慣れ親しんだ遊びが亀岡にはない。友達も作り直し。何が楽しいのかわかりませんでした。
 加えて幼いながらに嫌だったのは、”よそ者扱いをされている感じ”。周りの大人たちは「大西さんのところの子」のように僕を形容し、「大西」という拠り所がなければアイデンティティが認められない。


 このような環境の変化に疎外感を覚えた僕は、「亀岡」、そして自分が「大西」であることに嫌悪感を抱くようになりました。


 小学二年生の時に弟が生まれ、今でも仲の良い三人兄弟の次男となり、学校生活の中で友達もでき、自分の居場所を確立した頃。中学卒業と同時に亀岡市内の父の実家へ、再び引っ越すことになったのです。同じ市内とはいえ高校入学と重なったため、中学までに築き上げた人間関係とは自然と疎遠になっていきました。


 子どものライフステージなんてお構いなしに親の都合で環境が変わってしまうことに僕は違和感しか持てず、自分のアイデンティティの一部であるはずの「大西」に、ますます嫌悪感を抱きました。先生や友人、上司や先輩から「大西」と呼ばれるのを嫌がり、呼ばれると怒るほどでした。それくらい自分の生い立ちや置かれてきた環境にはずっと反発があったのです。


 環境の変化に適応しなければならなかったため、良くも悪くも順応性は身に着けたと思います。しかしこの順応性は、「この環境に適応せざるを得ない」という、ある種の義務的な観念が生んだもので、自発的でポジティブな動機から得られたものではありませんでした。何でもできて当たり前の自分でいつもいるために、いつしか自分に足りないものを探して補うようになりました。


 子ども時代に形成した自分の影響から、例えばキャリアを考える際には、「今の自分に足りていないものは?」と不足に目を向けて考え、取捨選択の軸にしていました。
 これは要するに、「こうしたい」という自分の希望や欲求に沿った選択をしていないということです。


 「~ねばならない」という義務的な観念から行動に移すことと、心から「こうしたい」と思い行動に移すことは、まったく異なります。僕は前者を選び続けた結果この年齢になるまで、「本当に自分のしたいこと」がわかりませんでした。

決断:避け続けてきた家業に入る


 結婚し子どもが生まれ、自分の家族という「小さな共同体」を持ったとき、僕は初めて「自分のために自分を補いたいだけ補っても、死んだら何も残らない」と思うようになりました。
 「あなたのお父さんはこんな人だった」のように、特に子どもに対して「自分は何を残せるのか?」と考えるようになりました。


 インパクトのある建物のように「モノ」をつくって残すのではなく、「記憶」や「物語」のような形で人の心に何か残したい。「ストーリーを紡いでいけるような仕事は何か?」を考えたとき、自分自身で事業をつくる必要があると思いました。なぜなら事業をつくることやそれに取り組む姿勢が、自分のやりたかったことを体現することになると考えたからです。


 ではどうすればよいか?


 30代になったら新しいスキルを身に着けるよりも、それまでに経験してきたことを生かすフェーズに入りたいと前々から考えていました。30歳という節目に独立を考えていたこともあり、会社を立ち上げようかなど模索していた時期に、ちょうど父から声をかけられました。


 もちろんここまでに書いてきた通り、ずっと嫌悪感を抱いてきた「亀岡」や「大西」の中に入ることに相当な葛藤がありました。僕の良き理解者である兄から「あれだけ嫌がっていたのに」と未だに言われるほど、家業に入るという決断は周りが驚くものでした。


 しかし、「自分で事業をつくるならゼロからつくるよりも、既にある家業に入って取り組むのが最短ルート」と思い直し、ずっと避けていた家業に入ることを決断。


 もちろん、当時はすべてに納得して家業に入ったわけではありませんでした。それでも決断に至った経緯の中で今書けることがあるとすれば、自分のDNAに否が応でも組み込まれている「大西」という存在に、ちゃんと向き合ってみようと思ったことは大きかったかもしれません。そこに至るまでのプロセスや心情の変化なども追々、綴っていけたらと思います。

向き合う中でみえてきたもの:純粋に自分を生きたい


 人間の魂の質量は21グラム、という説があります。


 信じるか信じないかは人それぞれですが、これが本当だとしたら、どれだけお金持ちになろうと、どんなに長生きしようと、全力でも手を抜いても、持っている魂の質量はみんな平等に21グラム。


 ゴールは人それぞれ違う。しかし、平等に与えられた21グラムの魂を持って生きるなら、いつか誰かから「あの人の生き方、いいな」と思われる生き方をしたい。僕の21グラムの魂は、背伸びして着飾って生きたときではなく、純粋に自分らしく生きたときにこそ残せるものがあるんじゃないか?そう思ったら気持ちが軽くなったのです。不足に目を向けて何かを補おうと頑張りすぎなくていい。背伸びも着飾ることもいらない。


 そうして、ずっとわからなかった自分の本当にやりたいことや求めるものを知ること、自分らしさを表現することが、純粋に自分を生きることに繋がるんだと思えるようになりました。


 現在、第二創業として自社ブランドのブランディングに取り組んでいるのですが、これが僕の「自分らしさ」を表現することに繋がっていると感じています。さらには、このプロセスの中で自社の歴史や価値観を知る機会があり、意図せず僕に「大西らしさ」を教えることもあります。


 ブランディングを通じて語られてこなかった価値観を紐解き、「自分らしさ」に気づくこの体験もまた、今しか残せないものかもしれません。

noteでしたいこと:人生を楽しむ姿を残したい


 ここまでつらつらと自身のストーリーを綴ってきましたが、結局のところこのnoteで何がしたいのか?というと、純度の高い自分を求め生きる僕をありのまま表現することで、人生を楽しむ姿を残していきたいのだと思います。


 サムネイル画像のように、自分が生まれてから死ぬまでの回顧録のようなnoteにしていきたいです。



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