一人称単数 |村上春樹 <新刊レビュー>

村上春樹の6年ぶりの短編集『一人称単数』(新刊)

たいへん読みやすいだけでなく、長年の読者も満足させる仕掛けに満ちた、とても素晴らしい短編集に仕上がっています。

今回の動画では、村上春樹にとっての短編の解説、また、この短編集の全体を代表する作品として、表紙のモチーフになった作品「ウィズ・ザ・ビートルズ」を紹介します。

以下、動画の文字起こしです。


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一人称単数

今回は村上春樹の最新作、『一人称単数』を紹介します。
2014年の『女のいない男たち』から6年ぶりの短編集で、どの作品も傑作です。

まず表紙が素晴らしい。豊田徹也さんという漫画家による表紙です。たまたま珈琲時間とアンダーカレントを持ってるのですが、どちらもとてもおもしろい作品です。豊田さんはインタビューで「これまで描いた自分の作品には、どこか村上作品の残響を感じます。」と話されていますが、特に「アンダーカレント」には「ねじまき鳥クロニクル」のような最良の村上作品の響きを濃厚に聞き取ることができます。アンダーカレントという題名はビル・エヴァンスとジム・ホールの「アンダーカレント」というアルバムから取られています。

さてこの表紙ですが、収録されている「ウィズ・ザ・ビートルズ」という短編がモチーフになっています。
村上春樹が短編小説についてどのように考えているかを書いた本として『若い読者のための短編小説案内』があります。
そこで、短編集には中心的な作品が存在し、他の作品はそれを支えるように存在する、という話をしています。例として、『神の子どもたちはみな踊る』という短編集の「かえるくん、東京を救う」という作品が、中心的な作品として挙げられています。今回の『一人称単数』では「ウィズ・ザ・ビートルズ」が、その中心的な作品に位置づけられるのではないかと思います。今回の短編集でもっとも長い作品でもあります。
中表紙は「品川猿の告白」という作品をモチーフにしています。「品川猿の告白」は『東京奇譚集』に収録された「品川猿」の続編です。「東京奇譚集」で中心的な作品を選ぶとしたら「品川猿」だと思います。

それでは内容に入ります。「ウィズ・ザ・ビートルズ」の冒頭で、一人の女の子のことが描かれます。引用します。

「彼女は美しい少女だった。少なくともその時の僕の目には、彼女は素晴らしく美しい少女として映った。それほど背は高くない。真っ黒な髪は長く、脚が細く、素敵な匂いがした。僕はそのとき彼女に強く心を惹かれたーLP「ウィズ・ザ・ビートルズ」を胸にしっかりと抱えた、その名も知らない美しい少女に。心臓が堅く素早く脈打ち、うまく呼吸ができなくなり、プールの底まで沈んだときのようにまわりの音がすっと遠のき、耳の奥で小さく鳴っている鈴の音だけが聞こえた。」

この表紙では女の子と生け垣に打ち捨てられたビートルズのLPだけがクリーム色で描かれています。しかし表紙を外すと少女はおらず、裏表紙にはLPもありません。収録されている短編にはまさに「クリーム」という題名のものがあります。そこでは人生のいちばん大事なエッセンスとして人生のクリームという表現が用いられていますが、そのことが表紙の女の子とビートルズでも表現されているのではないかと思います。

小説の中では、その少女を目にしたのはその時だけで、実際に存在したのかどうかはわからない、と書かれています。しかしそのような現実だったのか夢だったのかわからない思い出の女の子の記憶が、自分にとって最も貴重な感情的資産となった、とされています。

ここで村上春樹によるものだと考えられる、本文には出て来ない帯文の文章を引用します。

「短編小説は、ひとつの世界のたくさんの切り口だ」

「一人称単数とは世界のひとかけらを切り取る単眼のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、単眼はきりなく絡み合った複眼となる。そしてそこでは、私はもう私ではなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか?一人称単数の世界にようこそ。」

この短編集では、どの作品にも主人公の固有名が出てきません。語り手は全て、作者である村上春樹を想像させる漢字の「僕」、ひらがなの「ぼく」、そして「私」という一人称単数を使っています。
この帯文で言われていることは、ひとつの「世界」があり、それを断片として切り取るさまざまな主観がある、ということです。
一般に物語を読む、ということは、現実にはばらばらに存在する読み手が、物語のなかの「僕」や「私」に同一化して読むということです。そこでまず「あなた」は「あなた」ではなくなり、さらに物語のなかで「あなた」は「あなた」という人間を成り立たせている、とても重要な出来事、「クリーム」が、現実に存在したのかわからなくなるような経験をすることになります。そこでさらに「あなた」は「あなた」でなくなっていく。そんなことがこの帯文で示されているように思います。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」は、語り手の僕が過去を回想するという形式で始まります。はじめに僕は、過去の同世代の、美しくて溌剌とした女の子たちが、今では年老いてしまったという「現実」について考えると、悲しい気持ちになる、という話をしています。なぜ悲しい気持ちになるかというと、僕が少年のころに抱いていた「夢」のようなものが死んでしまうということだからで、それは実際に存在している女の子たちが死んでしまうことよりも、もっと悲しいことかもしれない、とされています。
導入から明らかな通り、これは死をめぐる物語です。いくつかの死が記述されます。順番に並べてみましょう。

1927年 35歳の芥川龍之介の自殺
1968年 担任の自殺
1980年 32歳のサヨコの自殺

サヨコというのは僕の高校生の頃のガールフレンドの名前です。この物語に登場する人物で名前を持つのは、このサヨコと妹のユウコだけです。もっとも多く描かれる場面はサヨコのお兄さんとの会話ですが、お兄さんの固有名は明かされることがなく、ただ「僕のガールフレンドのお兄さん」という属性のみで記述されています。

僕とサヨコは高校一年生のときに同じクラスで、二年生のときに付き合うことになります。自殺した担任というのは高校一年生のときの担任です。自殺の原因は「思想の行き詰まり」だったと説明されています。

この物語のほとんどは、「お兄さん」との、二度の会話で成立しています。お兄さんはサヨコの4歳年上です。

まず一度目の会話を見ていきましょう。1965年の秋の神戸です。その日、僕はデートの約束をしていたのでサヨコを家まで迎えに行ったところ、お兄さん以外だれもおらず、家に上がって待つことになります。そこでなぜか僕はお兄さんに、たまたま持っていた教科書に掲載されていた芥川龍之介の『歯車』を朗読することになります。「誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」という一行で終わります。
そのあとお兄さんは、自分の病気について話します。遺伝的な疾患で、年に1、2回、記憶の一部が消えてしまうそうです。その記憶の喪失について、僕にこんな話をします。引用します。

「たとえばそうなったときに、つまりひゅっと記憶がと切れているときに、もしぼくが大きな金槌を持ちだして、誰か気に入らんやつの頭を思いきり叩いたりしたら、それは『困ったことでした』みたいな話では済まされんよな」

このような不安から、お兄さんは学校に行けなくなり、家にこもるようになったと話します。

二度目の会話はそれから1983年の東京で偶然出会ったときのことです。
お兄さんは、サヨコは26歳のときに会社の同僚と結婚するのですが、32歳のときに自殺した、原因はわからないと話します。
僕とサヨコは20歳のときに既に別れています。原因は、僕に他に好きな子ができたことでした。その東京で出会った子は、冒頭の女の子のように「耳の奥の特別な鈴」を確かに鳴らしてくれたのだが、サヨコの場合は、どれだけ耳を澄ませても、その鈴はならなかった、と回想します。
お兄さんは記憶が飛んでしまう病気は治り、いまは父親の事業を継いでいると話します。そして、サヨコは君のことがいちばん好きやったんやと思う、と話し、二人は別れます。

最後に、教科書の設問ふうに「設問・二度にわたる二人の出会いと会話は、彼らの人生のどのような要素を象徴的に示唆していたでしょう?」という問いかけがあります。

もしかしたらお兄さんは、僕とサヨコが別れたことが、サヨコの自殺と関係していると考えているのかもしれません。僕とサヨコの会話の描写は少ないのですが、その中にサヨコが「私は嫉妬深い」と話し、それだけは知っておいてほしかった、そしてそれは、ときにはすごくきついことだ、と話す場面があります。
また、お兄さんは記憶が飛んでしまったときの自分の行為をとても恐れています。自分が原因で引き起こされた、しかし自分の意志ではコントロールできない結果について、どのように考えればいいか。または責任をとればいいのか。二人の出会いは、そんなことを示唆しているのかもしれないと思います。

それでは終わります。


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