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ナンバ歩きが廃れた理由と西欧型近代社会

ナンバ歩き

ベテラン登山家やプロの登山ガイドの歩き方を観察すると、腕を組んでいたり、腰に手を当てている人が多い。この歩き方がもっとも体力を消耗しないためである。私もたまに軽登山に行くので、実感として体力の消耗が少ないと言われている理由がわかる。しかし、ただ腕を組むか組まないかというだけの話ではない。それは見た目に現れる最終的な結果であり、このことわりはまず足から始まる。

足を高く上げればそれだけ重力に逆らう。そのため体力の消耗具合は、足が地面から離れる高さに比例する。体力の消耗を最小限にするには、足をできるだけ上げないすり足で、かつ歩幅はできるだけ小さく歩く事がまず基本となる。単純な物理である。
この時、腰から上はできるだけ捻らず、腕を振らない。なぜなら体を捻って腕を振るという動作は、転倒しないようにバランスを取るために行うものであり、体を捻るために筋肉を動かすにはそれだけエネルギーを使うのだから、省エネという観点から言えばマイナスの動作だからである。
歩幅を小さくし足も上げない場合、片足立ちになる時間が少なくなり「バランスを取る動作」の必要性も少なくなる。そのため上半身を捻らないで済む。
さらに、腕は力を抜いて下げているだけでも勝手にブラブラと揺れ動く。これが余計な重しとなってバランスを崩しやすくなるので、人間は無意識に腕にも力を入れて、バランスを取っている。このほぼ無意識の力みがやはり体力の消耗につながる。それを防ぐために、腕を腰につける、または腕を組む。

まとめると、すり足で、歩幅を小さく、腰を捻らず、腕を振らない(腕を組む)。これが省エネに特化した歩き方になる。

ただし登山道は平地の道とは違い、岩が転がっていたり、一度の転倒が命に関わる事故になる事も多い。そのため、省エネ特化が常に理想的な歩き方とは言えず、現代人の普通の歩き方、つまり足を上げ、体を捻り、腕でバランスを取る歩き方も時には必要になる。

ここでは仮に、省エネ特化型の歩き方を東洋型歩行、現代人の普通の歩き方を西洋型歩行と呼ぶことにする。
登山のプロは東洋型歩行でも転倒しない訓練を積んでいるので、登山の道程において東洋型歩行の比率をそれだけ高められ、省エネが可能となるわけだ。だから腕を組んだり、腰に手を当てる姿をよく目にする。
逆に私のような素人は、歩きやすい安全な道以外では、体力を消耗する事がわかっていても西洋型歩行の比率を高くせざるを得ない。

この東洋型歩行をナンバ、またはナンバ歩きと言う。「足と同じ側の手を前に出す歩き方」として知られているが、それは大名行列絵巻の目で見える部分だけしか見ていないことで生まれた誤解が多分にあるように思う。例えば浮世絵の人物の目が細く吊り目で描かれているのはそういう様式美なのであって、現実に江戸時代の人がそんな目だったわけではない。様式と現実を混同してしまうと物事を見誤る。

ナンバ歩きの本質は身体操作を省エネに最適化する事であって、腕をどうするかはあくまでこの理の結果に過ぎない。

西洋と東洋における潜在意識の違いと「歩き方の物理」の相似象

江戸時代までの日本人は、この東洋型歩行(省エネ特化型歩行)だった。当時の西洋人はこの日本人の歩き方を見て馬鹿にしていたという話が伝わっている。明治時代に入り、西洋式軍隊の行進が取り入れられて以降、民間にもこの歩き方で歩く事が良しとされ、東洋型歩行は急速に廃れていった。

西洋と東洋でこれほど歩き方に差が出る根本要因は、おそらく西洋人の潜在意識領域にある。

中東からヨーロッパにかけての一帯では自然は支配し克服するものという男性型の価値観が優位だった。自然と調和する事を重視する東洋(特に日本)の女性優位社会とは対照的である。
数千年にわたってこの価値観に染まり続けていた大陸では、人の遺伝子にこの価値観が刻み込まれた。

この遺伝子がもたらす潜在意識が物質世界にもことごとく影響を及ぼしている。歩き方もその一例である。重力に逆らい、足を高く上げる軍隊の行進。
この姿が自然を克服する人間の象徴として、西洋では無意識に理想化される。もちろん実際の戦場ではこのような行進はしない。足を高く上げる行進はあくまで強さと秩序のアイコン、男性性のアイコンなのだから。

この遺伝子は、平和な時代になっても無意識領域で働き続け「感情」となって表出する。足を高く上げるとそれだけバランスを崩しやすくなるから、転ばないように上半身を捻り、同時に腕を足とは逆方向に振ってバランスを取る。人が自然に逆らうこの歩き姿を西洋人の目から見ると「カッコいい」「美しい」「心地よい」というポジティブな感情が湧いてくるのだろう。

エネルギーを消耗しやすい歩き方なので、体力や筋力も必然的に鍛え上げられる。白人の平均身長が高いのももしかしたら自然(重力)に逆らうという潜在意識領域の願望がもたらした結果なのかもしれない。

赤ん坊はこの親の歩き方をずっと見て育てば、それを真似するので、物心ついた時からすでに西洋型歩行が常識として刷り込まれる。こうして大陸では西洋型歩行が「文化」として当たり前になる。地球に空気があることと同レベルの常識として刷り込まれているので、それ以外の歩き方があるということなどは一生意識することもない。だから彼らが日本でナンバ歩きを見て非常に奇妙に見えたのだろう。

一方の日本では、自然と調和する意識が縄文人の遺伝子レベルで受け継がれているため、歩き方も省エネが当たり前の文化になっていた。日本人が西欧文化を理想化し、真似し始めた時からこの東洋型歩行は一気に廃れた。

しかし日本人の潜在意識がもたらす感情は、依然として省エネ型の身体操作を見た時に美しいと感じさせる。能ではこれを「舞う」と言う。「踊る」は重力に逆らう躍動感のある垂直方向の動き。「舞う」は水平方向の静かな動き、という明確な違いがある。

これらの事をさらに抽象化して考えると、西洋の男性性は「自然から離れるベクトル」東洋の女性性は「自然に近づくベクトル」であると言い換えられる。人間はこの二つのベクトルの引っ張り合いで成り立っている。地球と月が相互に引力で引っぱりあっている関係のような物だ。
ここで「自然」という概念を、宇宙の唯一神(ヤハウェ=アラー)と置き換えれば、宗教がどんどん本来の宗教のあるべき姿から遠ざかり、支配と憎悪と戦争に走っていく事もある意味では当然の物理法則(エントロピー増大の法則)と言える。
意識の上では平和や自然回帰を望んでいても、遺伝子がもたらす潜在意識領域では遠ざかる事を求めている。個々の人間の意思は、遺伝子がもたらす感情に比べればとても弱いのだ。
この自然(神=カミ=上)から離れていくベクトルの慣性の法則によって、いまだ自然から遠ざかり続けている。

しかしここ数十年で、地球規模でのエコ意識の高まりと、多くのセレブやインフルエンサーが日本の精神性を理想に掲げた影響で、今後は逆に世界中が日本文化に高い関心を持ち始めている。

これは「カミから離れるベクトル」の逆方向「カミに戻るベクトル」が世界的に生じ始めている証と言える。ベクトルの方向としては依然としてまだ離れる方向だが、ブレーキがかかりはじめているという事だ。

それなのに当の日本人が「昔は手と足を一緒に出して歩いていた」と呆けたことを言っていたら知性を疑われるので、日本人の先祖の精神性が具体的にどのようなものだったか、実際正しいかどうかはともかくとして、せめて説得力のある持論くらいは持っておきたいものだ。

「カミから離れる」と言葉で書くと拡散するイメージを持たれるかもしれないが、そうではなく、この場合のイメージとしては「集中」と表現した方が適切だ。富士山のような形の整った山をイメージするといいかもしれない。山の中心は、地面から離れ、宇宙により近いところに向かおうとする。この上に向かう集中の力が男性性。そこから下に向かって標高が低くなるほど、水平に近づく。この末広がりの力が女性性だ。

男性性は女性性の支えが無ければ高みに昇る事ができず、女性性は男性性の高みに昇ろうとする力が無ければ低地に留まりつづける。

我々人間が認知できる物質世界では拡散(エントロピー増大)、非物質世界では集中(エントロピー減少)になる。それゆえに男性性が究極的に行き着くところは一神教であり、一神教がこの世に生まれた瞬間から拡散、劣化、崩壊のプロセスが始まるのだ。

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