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比治山神社のご由緒


比治山(ひじやま)と読みます

 今回は広島市南区比治山町の比治山神社へお参りに来てみました。こちらは広島市民に馴染み深い比治山という丘の麓におわしますお社です。
 比治山の標高は71.1m。少し登ると御便殿跡の広場があり桜の名所としても人気がございます。毛利元就は広島城の候補地の一つにしていたという説もあるそうです。原爆の際には破壊された広島県庁が当日のうちに臨時でこちらに移されたりもし、被爆者が多数この山へ避難されました。神社の反対側の麓には縄文時代の貝塚もみつかっております。第101代内閣総理大臣 岸田文雄氏のご実家もすぐ近く。有史以前から今日までこの地に住まう人々に愛され、また広島の人々の営みを見守ってきた山です。
 そんな比治山神社にはたくさんの逸話があり、とても今回だけでは書ききれないと思われるので今後も徒然に書いてゆくことになるでしょう。
 そんな比治山について興味のございます方は『比治山 - Wikipedia』もご覧ください。

葉桜をバックに愛らしい狛犬

 この日は高校の部活で頭部をぱっくり割った息子の傷が大事なく癒えますようにとのことで少彦名(すくなひこな)大神に祈願に参りました。

比治山神社のご由緒

 それではいつもの通り由緒書きを読んでいきたいと思います。

比治山神社の由緒書き

由緒
一、神社名 別表神社 比治山神社

ー、鎮座地 広島市南区比治山町五番十号

一、由緒
もと黄幡(おうばん)大明神と称し、比治山南の谷(俗称ー黄幡谷)に鎮座されていましたが、正保三年三月(西暦一六四六年)現在の社地に移して鎮守社となり、藩政時代には稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚、竹屋村などの産土神として祀られ、当時の藩府より毎年正月門松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付されるなど崇められていました。明治元年、神仏分離令の際社名をあらためて比治山神社と称し、明治四年拝殿を再建、明治五年村社に列せられ、明治四十年神饌幣帛料供進社に指定されました。昭和二十年原爆により本・拝殿焼失、昭和二十九年本・拝殿建立、昭和三十四年神社本庁より別表神社に列せられました。

一、祭神
大国主大神(おおくにぬしのおおかみ) 『縁結び、商売繁昌、家内安全』
少名毘古大神(すくなひこなのおおかみ) 『病気平癒、医薬、針供養」
建速須佐之男大神(たけはやすさのおのおおかみ) 『厄除、農業守護』
市寸島比売大神(いちきしまひめのおおかみ) 『交通安全、海路安全、漁業守護』
車折大明神(くるまざきだいみょうじん) 『学業』

一、祭礼
節分祭 立春の前日
祈年祭 二月十七日
夏越祭(輪くぐり祭) 六月三十日
秋季例大祭 十月二十八日・二十九日(平日の場合第四土・日曜日)
新嘗祭 十一月二十三日
七五三祭 十一月

一、神紋 亀甲の中星
一、本殿 三間社流造
一、境内神社 稲荷大明神(いなりだいみょうじん)『五穀豊穣、商売繁盛』

比治山神社の由緒書きより

謎多き黄幡大明神

 ちょっとオカルトっぽくなることを先にことわっておきつつ。比治山神社の前身と書かれている黄幡(おうばん)大明神。黄幡神というのは古事記や日本書紀の神話に出てこない神様です。こういった外国由来の神様は蕃神(あだしのかみ)と言われます。
 さて私が子供の時に育った辺りにも「おうばん神社」と呼ばれているお社があり境内でよく遊んでいました。いつも「おうばん、おうばん」とよんでいました。成長して私も人の子の親となり子供達を連れて「おうばん神社」まで散歩にいった数年前のある日ふと気付いたのです。案内板に『真幡(まはた)神社』と書いてあったのです。「おうばんで鬼ごっこしようや」とか言っていた子供時代のなんでもない思い出が何か急に納得感のないものになってしまいました。
 それで調べてみると詳しく郷土史を調べてWebページにまとめてくださっている方(上西清氏)がおられました。ありがたい。そのウェブサイトより以下に大筋を引用します。

現在の広島市と、その周辺地域では、「黄幡」という中国由来の神が信仰されていたらしい。庶民には、「おんばんさん」という愛称で親しまれていた。
 今でも、広島市安佐南区には、黄幡神社が多数存在する。しかし、祭神は、別の神に変更されている。
 黄幡神社(旧称を含む)の分布は、安芸武田氏の勢力範囲とほぼ一致している。
 江戸時代になると、黄幡大明神(現在の比治山神社)が、この地域の黄幡信仰の中心地になったと推察できる。
 明治の神仏分離により、外来の神を神社に祀ることが禁止された。ここで、広島の黄幡信仰は抹殺された。
 今でも、「黄幡」という名字の人がいちばん多い都道府県は、広島県である。しかも、広島市安佐南区に集中している。

広島郷土史探訪シリーズⅡ 消された広島の黄幡信仰

南の黄幡谷から現在地への遷座にまたオカルトが潜む

 再度『広島郷土史探訪シリーズⅡ』の第5章から引用させていただきますと。

 立専寺住職・武田庸全氏が1939年に記した「山本史」の記述です。
 時期は不明だが、東山本の黄幡大明神(現、真幡社)のご神体を盗んで比治山の上に持ち帰って祭った者がいる。夜な夜なご神体から「山本に帰る、帰る」という声が出て、恐ろしかった。神社を東山本の方向に向けて建て直したところ、山本に帰るという声は止んだ。その神社は、比治山の黄幡神社(今の比治山神社)である。

 比治山神社が1646年に移転した、という事実とは一致します。しかし、誰が何のために盗んだのでしょうか。1646年という年は、広島城の築城から57年が経過し、その間に戦乱はほとんどなかったので、城下町はすでに整備されていたことでしょう。立地条件に恵まれて発展していく比治山神社を見て、山本地区の人は、「お株を奪われた」、「黄幡信仰の元祖は自分たちだ」という思いがあったのかもしれません。
 しかし、明治の神仏分離により、どちらの神社も「黄幡」ではなくなりました。

広島郷土史探訪シリーズⅡ 消された広島の黄幡信仰

 なんだかご神体が可哀想ですね。社殿を建て直してでも返したくなかったんですね。悲喜こもごもの哀愁を感じる伝承です。

氏子のニーズに最大限応える神社

出雲系の御祭神

 続けて御祭神をみていくと出雲系の神様が目立ちます。
 オオクニヌシとスクナヒコナは共に国造りをしたグッドパートナーな二柱です。こちらではスクナヒコナは医療を広めた神様としての側面が祀られています。スサノオはオオクニヌシの何代か前の神様ですがお義父さんでもあります。ざっくりで申し訳ないのですが古事記、日本書紀、風土記等で伝承がまちまちなので悪しからず。
 「家業」「健康」「芸能」「交通」「学問」と庶民の生活に直結した神様が祀られている印象です。

献燈に歴史を感じる

献燈には弘化四年丁未九月吉日とある

 一の鳥居の左手、由緒書きの裏手に古い献燈があります。弘化四年は西暦1847年です。江戸の末期で天保の改革からペリー来航の間くらい。その頃の地域の崇敬者から奉られたものということですね。いいですね。こういう庶民の生活の跡に歴史浪漫を感じます。

境内社の稲荷大明神

お稲荷さんも境内社として坐します

 比治山神社にお参りに来た際には稲荷神社でも商売繁盛を祈願してゆきます。

厄年早見表

厄年にご注意を

 個人的にはあまり気にしておりませんが厄年の早見表がございましたので掲載しておきます。気になる方はチェックなさって最寄りの神社でお祓いを受けられても良いかと。
 神社でのご祈祷やお祓いは意外と高くなくて数千円(三千円とか五千円とか)からで受けられます。もちろん天井はないので懐に余裕のある方は平清盛などのように神楽殿ごと寄進したりというのもアリです。だからといって小さな子どもや貧しい人は0円でも別け隔てなくお耳を傾け見守ってくださるのが日本の神様(神社の宗教形態)です。神道は数多の宗教の中で最も良心的だと私は思います。

まとめ

 今回は語りきれない部分がたくさんあり、いつも以上にまとまりのない文章になってしまいましたが、そんなこんなで最後までお付き合いくださいまして誠にありがとうございます。
 縄文時代の貝塚からはじまり、毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏、原爆、そして岸田総理と広島の悠久の歴史を感じられる神社なのね、ということが少しでもお伝えできていれば幸いです。
 比治山神社については少し掘り下げてまた記事を書ければと思っております。お目汚しにて恐縮ですがこれからもお付き合いいただけましたら幸に存じます。

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