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『たまねこ、たまびと』

 すごい作品をみてしまいました。自分の中で頭の中にこんな作品になるのだろうなというイメージを勝手にもっていたのですが、村上監督は軽々とそんな私の想像を超えた力作を完成させていました。鑑賞後の、この胸をかきむしられたような印象は何だろう? それを整理する意味も兼ねて、文章にまとめてみたいと思います。 

不協和音で描かれる多摩川という名の生死の境界線

 この作品は『東京干潟』『蟹の惑星』と同じように多摩川を舞台にしています。ネコやホームレスの方々を支援されている小西さん夫婦を中心に、そこに関わる人々や多摩川で暮らすネコたちが描かれています。今回もさまざまな出会いが紡がれていきます。村上作品は監督自身のコミュニケーションの記録です。そういう意味で村上節は健在でした。しかし今までの村上作品とは何か違うのです。映画としての肌触りというしかないのですが、この映画はどこか不協和音を奏でているような不均衡なバランスが常に内包されているのです。
 例えば多摩川のとらえ方。『東京干潟』『蟹の惑星』の両作では、我々が気づかない多摩川の片隅をマクロ的なフォーカスのあて方で見つめていましたが、少なくとも多摩川は穏やかな流れを表情として見せていた。しかし今回の多摩川の環境はどこか殺伐としていて油断すると牙を剥いてくるかのように描かれます。
 例えばインタビュー。一緒に映り込む多摩川で余暇を過ごす人々と小西さんの姿の乖離感。フィックスでどっしりと捉えるだけではない手持ちカメラの不安定さ。邪魔をするかのように通り過ぎる電車の走行音や風切り音。土手で練習されている楽器の音色や川崎の防災無線の音。まるでインダストリアルノイズのように暴力的に響くようにさえ感じます。重機のCAT(米キャタピラー社のロゴ)が大写しになったのには苦笑い。そんな描かれ方をされた多摩川は愛すべき場所ではなく、まるで生死をわける境界線のように感じます。

今までとは違う監督の創作スタイル

 そんな境界線上を自転車で移動する小西さん(前作でも印象的だったこの自転車移動撮影は、本作でも大きなアクセントになっていました)。でもその小西さんの描き方が私の一番の戸惑いだった気がします。そしてそれは村上監督に新しい創作スタイルをもたらしたのかもしれません。
 この映画の描き方が村上監督の過去作と似て非なる部分が出ています。まず中心人物が1人であるにも関わらず、そこだけが深く掘り下げられているわけではないこと。小西さんの活動を中心に描いているのですが、ではこの映画は小西さんの映画ですか?と聞かれると私は答えに窮してしまうかもしれません。また村上作品には『小さな学校』や『無名碑MONUMENT』のような群像劇もあるのですが、それとも違う。この2作は中心テーマを輪のように囲んだ人々が描かれているのに対して、今回は多摩川をめぐる物語だけれども、多摩川だけが全てではない。では何故こんな描き方や構成になったのでしょうか。

なぜ小西さんは護ろうとするのか、という問い

小西修さんの活動を私は村上監督のツイートなどで知ったのですが、その活動内容はあまりにもスゴく、もしこの活動を全て追いかけようとしたら、監督の過去作『流』のように取材に10年、いやそれ以上のスケールがないと作品世界が成立しないでしょう。しかし村上監督は3年というインターバルでこの作品を完成させました。それはきっと小西さんの「ぶれない」ところにカギがあったと思うのです。
 もちろん小西さんを知らない方も多いとは思いますが、すでにマスメディアにも取り上げられているし、小西さん自身が表現者である。それらも含めて素晴らしい活動をされていると考えます。コンプライアンス的にはツッコミどころ満載だったしじみのおじいさんや、自分の趣味がそのまま文化になってしまった蟹の吉田さんとは、やはり性質が違うのです。監督はなぜ小西さんはネコやホームレスの方々を支援されているのか?という疑問を抱いて撮影に入られているのかと思うのですが、おそらく取材すればするほど、その答えがよくわからなくなったのではないでしょうか。地域猫の保護活動には解決せねばならない側面もある。それは経済的なことであったり、ヒューマンリソースでもあり、糞尿公害かもしれない。もっと単純にネコへの嫌悪感がある人もいるかもしれない。でも小西修さんの活動はそういうものを超越したものがある。一体それはなんだろう。

妻・美智子さんの活動で感じられる根源的な感情

 そこに第2章として小西修さんの妻、美智子さんが登場します。美智子さんの活動ぶりは修さん同様に献身的ですが、その様子はおそらく多くの観客に大丈夫なのかなと思わせるほどだと思います。「彼女は毎日続けているし、さらに自分の行動をちゃんと相手に説明しているのがすごい」というロシア人女性の言葉はまったくその通りですね。そんな美智子さんの原動力は、何かに強制されてとか、こういう理由でとかで言葉では説明できない、もっと根源的なものに突き動かされている感じがします。いわばFaith(=信念、信仰、信心)に似たものといってよいでしょう。美智子さんがゴスペルを歌われていたり、痛ましい虐待を受けたネコにライチャス(righteous=正義、公正)と名付けたりされている行動からもそのあたりがストンときます。ひょっとすると美智子さんにとってはMission(=ここには使命、天命という意味があり、さらにはキリスト教の布教活動や社会奉仕活動なども意味することがある)なのかもしれません。

多摩川の現実を知ることは自分の内側を見つめること

 だから余計に第3部は苦しいです。残念ながら世の中は善意だけで成り立っているわけではありません。ここまでの小西さんご夫婦の献身ぶりが圧倒的なものゆえに、顔の見えない悪意に対する恐怖感や嫌悪感は絶望的なものすら感じます。その中で監督はもっと根源的なものを問うているような気がしてなりませんでした。村上監督が世の中の悪意をどう捉えるのかは興味津々だったのですが、野次馬的な興味本位の捕まえ方でも、憎しみに身を委ねてしまう描写でもなく、圧倒的な光を描くことで、そこにうまれる濃い影として存在を感じさせたことでハッとさせられた部分がありました。

 それは多摩川の現実を知ると言うことは、自分の内側を見つめることと同義な気がしたのです。多摩川の現状は全てがハッピーなわけではなく、またその影の部分に気がつかない人の方が圧倒的に多い。でももし自分の中に影の部分に気がついた時に、あなたはどうするのか。あなたの中にも光と影の部分があり、それはどちらも人として根源的な部分である。ではあなたは信念をもって光を選べますか、と。実際、筆者の生活圏は多摩川にほど近く、このようなできごとをまったく知らなかった(正確に言えば聞いてはいたし、想像もできたけど、わかってはいなかった)という事実は鑑賞中に重くのしかかってきてましたし、あの小西さんの後ろにいる人々の中には私もいるんだという思いも拭えませんでした。

 この問いに関して2つの印象的なエピソードを監督は選びました。ひとつはかつて河川敷で生活していた方の話。もうひとつはミータンの話です。ここではっきりと監督は多摩川、ネコ、人の中で、変わることができるのは人だけなのだと明示します。その証拠に作品で写されたネコたちの愛らしさはもちろんなのですが、私たちが一般的に知っているネコたちとのギャップと多摩川のネコたちの外見や健康状態とのギャップは、そこだけで有無をいわせない説得力があります。特に私のようなネコ好きにはツラかった。彼らは人に捨てられ、虐げられている。でも必死に生きようとしている。最後のミータンのエピソード、ここはグッと来ました。あの鳴き声、胸えぐられました。誰が何といおうとミータンが長寿を全うできたのは小西さんご夫婦をはじめとする多摩川に関わった方々の行動があったからなのです。

なぜ村上監督は今作の表現スタイルを選んだのか

 そして同時に監督が今回の表現スタイルを選んだ理由も自分なりに納得しました。もし小西さんが、長い年月をかけて、多摩川のネコたちや人々に対して、変わらぬ姿勢を通じて関係性を築いてきたのならば、どこを切り抜いても本質は変わらない。ならば、それを組み合わせることでよりその本質を凝縮することができるのでは? 小西さんを狂言回し的な位置に置くことで、そこに関わる人たちを通して人間という存在を見つめてみよう。原一男監督の『水俣曼荼羅』に影響を受けたという村上監督の言葉からもわかるように、今までもずっと人間の素晴らしさを見つめてきた監督は、今回はその並べ方を通して人間賛歌の向こう側を多角的に描いたのではないでしょうか。そうすると前述した不協和音も、自分自身に向けるきっかけになるものとして理解できますし、『東京干潟』『蟹の惑星』とのつながりも、より複眼的になると思いました。

 この作品をみて思い起こした劇映画が2つあります。ひとつはS・ルメットの『評決』でした。この作品では現実に打ちのめされて堕落した弁護士が、医療事故をめぐる裁判の中で、自分の中で失われた正義を取り戻す物語です。現実的な打算で金銭による和解を進めようとした主人公は、法廷に提出するために植物状態となった被害者の姿をポラロイドカメラで撮影していくうちに(奇しくもカメラ!)で、心境が変化していきます。最後に陪審員に訴えます。「まず正義を信じたいと願うならば、自分自身を信じ、正しく行動するのです。正義は誰の心にもある。」
 もう1本はクロエ・ジャオ『ノマドランド』。過酷な放浪生活を選んだ主人公の女性の生き様をさまざまな出会いの中で描いたこの作品がもつ詩のような美しさは、複眼的な世の中の捉え方と、人をあたたかく見つめる力とに、村上監督の本作と似た資質を感じました。

 小西さんの活動の続きを監督はまた追うのでしょうか? 実はここはみた直後と今とでは少し印象が変わっています。みた直後はこれがプロローグかな!という印象でした。でも今は監督は取材をされるかもしれませんが、かなり視点は変わる気がします。ひょっとすると取材もされないかもと思いました。なぜなら小西さんはきっと今日も自転車を走らせていて、それは私たちの心の中に、弱きものを助けたいという心が根源的にあることの象徴だからです。だからここから先は、私たちがそれぞれの心の中に小西さんのような心を少しでももって生きることができれば、物語はそうやって続いていく気がしました。

 素晴らしい作品、普遍的な力をもった作品です。ぜひ多くの方にご覧いただきたいです。


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