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常識と真理



常識とは、ある時代のある社会で、人が知っておくべきこと・身につけておくべきこと、という指針に近いようなものです。道徳も似たようなもので、人はどのように振舞うべきか、という指針に近いと思います。

常識は人間または人間社会によって生み出されるものです。比較的長い年月の中で生み出されたものは伝統と呼ばれたりもしますが、人間によって生み出されたことに違いはありません。

それゆえ、時代が変われば変化もしますし、場所が変わっても変化します。ある文化では男性の仕事とされていることが、他の分化では女性の仕事とされることがあるように。

それに対して真理とは、時間や場所を変えても不変のものです。それは時間軸を超えたものであり、それゆえ人間が生み出したり、変更したりできるものではありません。

常識と真理は、一見似たようなものに見える場合もありますが、明確に別物です。そして、両者を見分けられるかどうかは、生きる上でとても根源的な意味を持ちます。

常識は、日常生活を円滑に進めるために(おそらくは、常識に従う限り円滑に進むという集団の希望を日々再確認するために)必要なものです。それは、その時代・その社会で支配的な観念や勢力の意向を反映するものです。

対して真理は、常識が破綻しかけたところでひょっこりと顔を出すものです。俗に修羅場と呼ばれるような場が、その例でしょうか。常識の範疇では処理できないような問題が生じると、無理に常識を通そうとすればするほど、人の反感は高ぶり感情が暴走していきます。そういうとき、常識にほころびが生じ、その穴から、真理が静かにそっと顔を見せます。

先に述べた通り、常識は人間が生み出すものですから、人間が変更することができます。しかし真理は人間がどうこうできるものではありません。真理に対して人間が取りうる対応は、静かに頭を垂れるか、刃向かうか、のみです。

真理に対して刃向かうということは、自分に対してウソをつくということであり、宗教的な用語では「罪」とか「業」とか呼ばれたりします。これは真理に対する違反であり、(常識の高級バージョンである)法律に対する違反を意味する犯罪とは異なります。それゆえ「罪」が裁判所で確定することはありませんし、また刑罰を受けたからなくなるものでもありません。

だからこそ、その場に真理が顔を出していることを察知する能力は極めて重要です。

そうでないと「罪」をかぶる可能性があり、また「罪」をかぶったということは、その「罪」に気づけないということです。これは「罪」の特徴の一つで、「最大の罰とは、罰せられていることに気づけないことだ」という言葉に表されています。「罪」に気づくときとは、その「罪」が赦されたときです。

人が自らの人生において根源的と感じるような問題とは、基本的に「その問題が何なのかわからない」という類のものです。それゆえ、自らを苦しめるその問題の正体がわかるときとは、その問題が解決したときです。なぜならその問題が真理にかかわることだからです。

真理に関わる現象では、「認識」と「解決」は不可分であり、同時に起こります。これが真理以外のものとの大きな違いです。

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