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ハンガーストライキから1年 〜全県実施のために賭けたもの〜(中②)

「あのとき何してたの?に応えられる大人に」

2日目の朝は太陽の暑さで目が覚めた。
むき出しのテントは、のぼりかけの陽の光を直接浴びていた。
近くの公園で朝の支度をして、またテントに戻った。
保育園、小学校のときに自分が遊んでいた公園をハンストで使うなんて思ってもみなかった。

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午前10時頃、ウーマン・ラッシュアワーの村本さんが「話を聞かせて欲しい」と宜野湾市役所前に来てくれた。
おそらく、彼のラジオで使うために録音をしながら、話をした。マスコミもその様子を撮っていた。

「沖縄にもいろんな意見の人がいるけど、どう思うの?」

「もちろん私の周りにも様々な意見・思いを持っている人はいます。県民投票では対話を通していろんな意見に耳を傾けて、その中で最終的に賛成か、反対かを選んでほしいと思ってやっています」

「元山くんはいつから基地問題に関心を持ち始めたの?」

「沖縄、宜野湾にいるときは側にあるのに全然考えたことなくて。東京に出て、地元とは違う環境に身を置いてはじめて自分の“日常”が“異常”だったことに気づかされました」

「なんでハンガーストライキをやろうと思ったの?」

「今まで署名集めからがんばってきて、条例が制定されたにもかかわらず、参加を拒否しているからです」

「究極、なんのためにやってるかを聞かせて欲しい」

「いままでも沖縄で権利や生活を守るために体を張っていた人たちがいたという歴史がある。自分が体を張るのは何ら突拍子のないことではない。もし子どもから、お父さんあのとき何してたのって聞かれたときに、自分の言葉で話せる大人になりたい」

このようなやり取りを40分ほどした。

その後、村本さんは慰安婦の話をききに韓国に行くとのことで、滞在時間は1時間くらいだったが、真摯に話を聞いてくれた。

THE MANZAI 2018で沖縄・辺野古や高江のことに触れ、沖縄でも話題になっていた直後だった。一方的に話してくるのかと構えていたが、村本さんはそこまでやっている私に直接話を聞いてみたいという衝動に駆られて、市役所前に来ていたという印象を受けた。

真っ直ぐで、かっこよかった。

村本さんハンスト時

その後も、喜納昌吉さんや南城市長、豊見城市長などが足を運んでくれて、訪問者は絶えないくらいだった。

集まった署名から数えると1日あたり平均500〜600人ほどの人々が宜野湾市役所前を訪れていたと思う。

テレビや新聞、週刊誌、フリーのライターなどもひっきりなしに私のところを訪れていたが、このマスコミの対応が一番きつかった。

上空を飛び回るオスプレイやジェット機の音も、体に堪えた。

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2日目の日の夜からお医者さんが来てくれるようになり、1日に1回、血圧と心拍数を測る簡易的な検査をしてもらうことになった。

3日目の夕方の検診から塩を舐めた方がいいという助言をもらい、塩も舐めることにした。

訪問者からの差し入れであった「ヌチマース」が、その名の通り、私にとっての命の塩となった。

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夜は比較的快適だったが、2日目の夜は雨が降っていた。

夜中に冷たっ!と思って目を覚ますと、テントの中が浸水していた。水を外に出して、タオルを敷いて横になり、どうにか朝までしのいだ。

道行く車の音も最初は気になって眠れなかったが、だんだんと道沿いのテントの中で寝れるようになっていた。

「右翼」の街宣車による威嚇は、3日目の16時から始まった。
そのとき不思議だったのは、私に対する批判ではなく、私の周りにいる、彼らの言う「左翼」を非難していたことだ。あれ、おれには言わないんだと一瞬戸惑った。

街宣車の音は大きく、かなり威圧的だったので、訪問した方々は怖かったと思う。せっかく足を運んでくれているのに、「右翼」のせいでテントのところまで来られないのは嫌だと思い、毅然とした態度でじっと立って街宣車の方をにらみつけていた。

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ボランティアスタッフの子が、訪問者からの差し入れでもらったサーターアンダギーをあげたら、時間が来たこともあってか、帰っていったのはおもしろかった。
「イデオロギーよりサーターアンダギーだね」と、撮影していた大袈裟太郎さんが笑っていた。
しかし、もう来ないということはなく、毎日仕事のように時間通りに、最後の日まで彼らは市役所前に来ていた。

「右翼」の方は車の外に出て来ることもあって、殴り込みに来ないか、寝込みを襲われないかという心配もあり、ボランティアスタッフは警備も兼ねて、寝ずに私のことを見張っていてくれていた。

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宜野湾市役所の職員も、3日目からテントを移動してほしいと私の元に話をしに来た。
おそらく右翼による騒音の影響もあったと思う。
公示用の掲示板前のテントや物は移動させ、縮小させてどうにか折り合いをつけながらハンストを続けていた。職員の方も、気持ちはすごいわかります、と小声で言ってくれ、柔軟な対応を見せてくれたのが印象的だった。おそらく上からの指示で言わざるを得なかったのだろう。職員の方に葛藤を抱かせてしまった点は申し訳なさも感じていた。

日が経つにつれて私自身も辛くなっていったが、とりわけハンストを支えてくれた周りのボランティアスタッフの方々の体力、精神が削られていることに胸が痛んでいた。彼・彼女らは、バイトのようにシフトを組んで、交代交代で常時2人以上がいる体制を組んでいた。

ハンストのことは全国でも話題になっていた。
Twitterでは「元山さん」という単語が1万6000以上もつぶやかれ、トレンド入りしていた。

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3日目、17日は県民投票条例改訂に向けた動きが水面下で始まった日でもあった。
公明党の金城勉県議は、同日の『琉球新報』を読んでいた。
そこには、県議会での審議の段階で県民投票の会と与党県議との間で選択肢を「賛成/反対」から「容認/反対」変更するかどうかという話があったことを発言した安里さんの記事が載っていた。

金城さんから安里さんの司法書士事務所に電話があり、二人は会って話をしてする。私のハンストをみて、どうにかこの現状を打開したいとも語っていたという。しかしながら私は、金城さんの本気度を試したいと思い、安里さんを通して、ハンストの現場に来て欲しい旨を伝えていた。
実際に金城さんは4日目に市役所前まで来ていたのだが、私が検査入院で現場を離れており、ニアミスに終わってしまった。しかし、その覚悟は信頼できるのではないかと強く信じていた(<下>に書くが、金城さんはハンスト後の私の病室を訪ねてくれ、そこで直接話をした)。

19日の午後5時頃、診てくれていた医者からドクターストップが出る。
副代表の安里さん、周りのスタッフと相談して、中止を発表した。

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正直まだ続けられると思っていた。でも、スタッフをはじめ心配してくれている方々の表情がよぎり、ここで一つの区切りをつけようと決心した。

署名集めから共にしていた瀬名波くんの肩を借りて病院へと向かう車へと乗り込んだ。

市長たちはまだ態度を変えておらず、悔しい終わりだった。目には涙がにじんでいた。

しかし、県議や沖縄県側の動きに賭けるしかない、とも思っており、そのために、一度休んでまた奔走しないけないと、前を向いていた。

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(写真:普久原朝日撮影)

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