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空中を自転する猫

みたいな詩を書いた人は、誰だったのだろう。

ここ最近、誰だったのかわからなくて、ずっと書物を漁っている。

飛び降りた猫が自転か公転かしながら、しなやかに着地するような内容の詩。

月に吠えるだな、確か。そう思って近眼な上に乱視も入った目ん玉ひんむいてがんばって青空文庫読み漁ったら、ない。

萩原朔太郎ちゃうんかい。十数年、私はその詩をずっと萩原朔太郎だと思っていた。びっくりした。
猫の詩って言えば、萩原朔太郎か中原中也じゃないの。
中原中也はさらっと常識程度にしか触れてないはず。ゆあーん、ゆよーん、くらいしか記憶にない。でも可能性はあるから、読み流している。見つからない。

読んだのが大昔なため、記憶が曖昧なのがいけない。
一行でもいいから、原文ママで覚えていたら、きっとGoogleが気さくに教えてくれただろうに。

Googleが機能しないから、yahoo!知恵袋にも聞いてみた。あれに書き込むのは生まれて初めてだった。レスポンスは全くなかった。知恵コインっていうのを500つけたし、見てる人はそれなりにいたみたいだけど、揶揄すらなかった。いつのまにか質問は取り下げられていた。そんな曖昧な内容では探しようがありません、くらいの嫌みは想定内だったんだけどな。つらい。

いろいろ探してなかったら、私自身が作った詩の可能性も出てくる。
これは、こわい。自作の詩を、萩原朔太郎と勘違いして、今まで、生きてきたというのは、こわすぎる。そらおそろしい。そもそも、そんなに、詩は書いてはいなかった、書いてたとしても、猫の詩なんて書かないだろ、詩は猫散文は犬って言葉に踊らされたとでもいうの、犬か猫かと好みを聞かれたら、すずめ派ですと答えたい派なのに。あああああこわい。

いやいや、でも、私、記憶にあるし。文庫で読んで、この作者、こんな詩も書くんだって思った、記憶。陰鬱としてなかったからそう思った。だから萩原朔太郎ちゃうんかい。

そもそも、詩じゃなくて、インディーズ系ロックの歌詞かもしれない。ありうる。自分でもなにがなんだか。


私は記憶力がとぼしいのに、自分を記録するのが苦手だ。
例えば日記とか写真。
データに残る私の顔はいちように強張っているし、自分自身あるがままを書いた文章は、無性に消去したくなる。
なんで苦手意識があるのか。自己評価が低いからだろうか。面倒なだけかもしれない。よくわからん。

記録をもればいいのだろうけど、もりかたもよくわからん。やはり面倒なだけな気がする。

創作物においても、なるべく自分でないものが混ざっている方が筆がすすむ。
不純物を取捨選択するのも私自身なので、自分でないものといいながら、それはやっぱり私なのだとも思う。だからかまわん、とも思うし、あかんやろ、とも思う。

話がずれた。なんでそんな話をするかというと、読書録をつけておけば、なんの詩だったのか、とっかかりがつかめただろうに、と思ったから。
やろうと検討したことはあるけど、一度読んだら覚えているだろふつーは、と高を括ってやらなかった。ぽんこつなのに、覚えているわけがなかった。

記憶は蒸発しがち。だから、感動したもの、心が動いたものは、ちゃんと控えておいた方がいいなあ、と痛感した。
皆やってる当たり前のことなんだろうけど、私はあんまりやってこなかったので。

あ。わい猫の詩のプロフェッショナルやで、みたいな人がnoteにいらっしゃるなら、誰の詩なのか教えてください。本当頼みます、お願いします。

#日記 #詩 #小説 #猫 #エッセイ




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