神戸北野坂の怪異

高瀬 甚太

 焼け付くような夏の日の午後3時、取材のため、神戸へ出かけていた私は、涼を得るために一軒のカフェに入った。
 カフェと思って入った北野坂の途中にあるその店は、インド料理の店だった。喫茶だけでも大丈夫と確かめて席に着いた。
 「いらっしゃいませ」
 インド人を思わせる風貌の女性が流暢な日本語で迎えてくれた。白い歯が美しく、笑顔がとてもチャーミングな女性だった。
 「チャイをお願いします」
と注文をすると、ニッコリ笑って、「はい、すぐします。ちょっと待ってください」と言って女性は厨房に向かった。店内には、インドの小物や布が周囲に張り巡らされていて、香辛料の匂いに鼻がくすぐられた。
 しばらくしてチャイがテーブルの上に置かれた。小さ目の厚手のガラスコップを見て、インドの人は一般的に大きなカップではチャイを飲まないと聞いていたことを思い出した。インドでは、水分を摂るというよりも、お菓子を食べるような感覚でチャイを飲むらしい。
 冷房の効いた店内でチャイを飲み、取材の整理をしながらくつろいでいると、争う声が聞こえてきた。先ほどの店の女性とインド人の男性が厨房の中で何事か言い争っている。夏の北野坂である。しかも平日であった。人通りは少なく、店内の客も私一人だった。
 お国の言葉で喋っているせいか、内容までは理解できなかったが、痴話喧嘩のように思えた。しばらくして、男性が店を飛び出し、女性が入口近くまで追いかけたが、それ以上、追いかけることをしなかった。
 恋人同士なのだろうか、夫婦だろうか、そんなことを考えながら女性の背中を見つめていると、私の視線を感じたのだろう、女性が近づいてきた。
 「申し訳ありません。みっともないところをお見せして」
 女性が私のテーブルの前までやって来て、謝った。
 私は、いえいえと首を振り、チャイを飲み干して席を立った。勘定を払おうとレジに向かうと、女性が、「出版社の方ですか?」と追いかけて来て聞いた。なぜ、私が出版社の人間だとわかるのか、不思議に思って尋ねると、
 「これ、忘れていました」
 と、名刺入れと名刺を手に取って言った。
 チャイを飲みながら、取材の整理をしているうちに、名刺入れと私の名刺をテーブルの脇に置いたまま忘れていたようだ。
 「もし、出版社の方でしたらお願いがあります。聞いていただけないでしょうか?」
 取材を終えて、この日はこのまま帰るつもりでいた。時間はたっぷりあったので、女性の依頼に快く応じた。
 女性は、私を奥にあるテーブルに座らせると、「もう一杯、チャイを飲みますか? それともアイスコーヒーにしますか」と聞いた。
 アイスコーヒーをお願いすると、女性は、「お座りになって少しお待ちください」と断って再び厨房に立った。
 掛け時計を見ると午後3時40分を示していた。彼女の依頼というのは一体何だろう。そう思って店内を見回していると、しばらくして女性がアイスコーヒーを持って厨房から戻って来た。
 「私はサーシャと申します。父親がインド人で母親が日本人のハーフです」
 サーシャは椅子に腰を下ろすと、はっきりとした声で自己紹介をした。よく見るととても美しい女性だった。目鼻立ちがくっきりとして、黒くて大きな瞳が印象的だった。
 私は、大阪で出版社を経営している代表兼編集長の井森公平だと名乗り、相談とは何かと聞いた。
 「私の母の話を本にしたいと思って書いたものがあります。私が興味を持って、何年もかけて母親に聞いて、まとめたものです。拙い文章で恐縮ですが、一度読んでいただけないでしょうか?」
 「それは構いませんが、その原稿をどうなさるつもりですか?」
 「自費出版として制作できれば、と思っています。その時はもちろんあなたにお願いするつもりでいますが」
 出版する意志のあるなしで、文章の読み方も違ってくる。少部数の自費出版なら、添削して完成度の高いものにするよりも、そのままの文章がいい場合もある。
 「とにかく読ませていただきます。その上でということでいいですか?」
サーシャは了解し、原稿が手元にあるので、早速、渡したいと言った。
 その時、客が三人入って来た。サーシャは、「ちょっと待ってくださいね」と断って客を迎え、テーブルに案内して注文を聞き、再び私の元にやって来た。
 「奥に原稿を置いていますので持って来ます。お読みになったら私の元へ連絡をいただけますか?」
 「わかりました」と答えると、サーシャは足早に奥へ向かい、大型封筒に入れた原稿を持って来た。
 手渡された封筒を見ると、原稿用紙が三百枚ほどあった。
 「よろしくお願いします」
 とサーシャは言い、厨房に向かった。私は、チャイのお金を払っていないことに気付き、そのお金をテーブルに置いて席を立った。サーシャは厨房で慌ただしく料理を作っている。
 「失礼します」
 と断って店を出た。夕刻が近づいて、舗装道路から立ち込める熱気はさらに増した。ハンカチで汗を拭いながら坂道をゆっくりと下りた。
 事務所に到着し、取材原稿を整理した後、サーシャに預かった原稿を封筒から取り出して読み始めた。母の物語と聞いて、最初は苦労話かと思って読み始めたが、内容は予想を覆すものだった。
 
 ――サーシャの母は、伊東登紀子と言った。昭和二十三年生まれの団塊の世代である。貧困家庭で育ち、徳島県の中学を出て集団就職で大阪へやって来て、貝塚にあった紡績工場に勤める。三年後、紡績工場を退社し、大阪市内へ出て定時制高校に進学、花屋で働きながら学校へ通う。
 高校へ通う傍ら、独学で英語を学び、高校在学中に日本英語検定試験3級を取得、卒業後2級を取得して、通訳の会社に就職。夜間の大学に学びながら通訳の仕事をするうち、アメリカ人の英語講師と知り合い、結婚をする。 しかし、短期間で別離、離婚を経験して、大学を中退し、翻訳会社を設立――。
 流して語れば淡々とした人生のように思えるが、その苦労は並大抵のものではなかっただろう。十五歳で上阪し紡績工場で三年間働いているが、その間に二度ほど入院している。体の強い方ではなかったようで、一度は肺炎を起こし危篤状態にまで陥っている。また、一度は高熱を出し、病院に運ばれるが原因不明のまま一週間後、熱が収まったところで退院している。
 この時の高熱の後、登紀子はまるで人が変わったように猛烈に勉強に打ち込み、翌春、高校入学を果たしている。サーシャは、母は神の啓示を受けたかのように変貌を遂げたと記しているが、人格も同時に変わってしまったとも書いている。
 登紀子はもともとおっとりした性格で、喋り方も含め、のんびりした感じであったが、高熱を出し、病院から帰って来てからは、行動パターンを含め、喋り方、性格まで180度変わり、テキパキとした話し方や行動をするようになった。
 その理由を、前述の説明に付け加えて、「母は、原因不明の病気で信じられないほどの高熱を出し、意識が朦朧とする中で前世の自分に出会ったことにより劇的な変化を遂げた」とサーシャは語っている。
 サーシャの母は、前世がアメリカ人であったと自身の言葉で語っている。その前はイタリア地方、その前は東アジア――、前世のさまざまな自分に会ったことが、登紀子を覚醒させたようだ。英語を勉強し始めたのもそうだし、アメリカ人講師と結婚したこともそうだった。
 母の自伝は、母の人生を語ることよりも、前世に関わる内容が大半を占めていた。
 サーシャもそのことに興味があったのだろう。母の前世についてかなり詳しく突っ込んで書いていた。
 そもそも前世に出会えるなどということが可能なのか。ごく稀に自分の前世が何であったかを知る人がいて、前世のことを語ったりしているのを見かける時があるが、私などはつい眉唾ではないかと思ってしまう。サーシャの書いた母の自伝もそうだ。にわかには信じがたいものがあった。しかし、サーシャは母の前世をかなりリアルに描いている。さもありなんと思わせる内容の記述を読むと、もしかしたらと思ってしまうところもある。だが、それでもやはり信じがたかった。
 サーシャを産んだのは母親が三二歳の年。相手はインド人の会社経営者で母親より二歳、年が下だった。母親は、二度目のこの相手に出会った時、前世の因縁を感じたと、サーシャに話している。
 サーシャに電話をしたのは、翌日の午後だった。俄然、興味を持った私は、サーシャに原稿を読んだ旨を伝え、ぜひお会いしたいのでそちらへ行っていいか、と確認をした。
 サーシャは、できれば、この間と同じ時間が望ましいと言い、私は3時半頃、伺うと伝えて電話を切った。
 大阪から神戸までJRなら半時間ほどで着くし、私鉄でも40分もあれば充分到着する。
 大阪駅からJRに乗って、神戸に着き、北野坂のインド料理の店まで歩いた。炎天下とはいえ、昨日より暑さはマシで、山間から吹き降ろしてくる風が心地よかった。
 店に入ると、数人の客がテーブルを占領していた。サーシャは、私を奥のテーブルに案内すると、「ちょっと待ってくださいね」と言って、慌ただしく厨房に向かった。
 円形の四人ほどが座れるテーブルが7卓、そのうちの4卓が埋まっていた。
 半時間ほどして、時計が4時を告げた頃、ようやく客がいなくなった。サーシャはアイスコーヒーを二つ、手に持って私の前の席に座った。
 「お待たせしました。原稿、お読みいただいてどうでしたか?」
 アイスコーヒーをテーブルに置き、席に座ると、サーシャはそう言って私を見た。
 「興味深く読ませていただきました」
 「でも、信じてはいらっしゃらないのでしょ」
 「最初はそう思って読んでいました。でも、途中から変化しました。それでお会いしたいと思ってやって来たのです」
 サーシャが私の顔を覗き込むようにして言った。
 「前世に興味がおありですか?」
 「出版に関わっていると、さまざまな不思議な事件に出会います。それを無視して、現実の目の前に見えるものしか信じないでいると、不思議な事件は不思議なままで終わりますが、一歩踏み出せば、大きく変わって来ます。不思議が不思議でなくなるのです。私はそうした体験をこれまでいくつか経験しました。
 今回の前世に関するお話もそうです。すごく興味が湧いて、一刻も早くお邪魔して、さらに詳しくお聴きしたい。そう思ってやって来ました」
 その時、ドアが開いた。客が来たのかと思ったが、そうではなかった。サーシャが手を挙げて、「ママ」と呼んだ。
 六十代半ばだろうか、原色の黄色い帽子と、黄色いシャツを着た女性がテーブルに近づいてきた。歩き方と言い、振る舞いといい、年齢を感じさせない若々しさに驚かされた。
 「ママ、こちらが出版社の井森編集長。大阪から来てくださったのよ」
 サーシャの言葉に合わせて立ち上がり、「極楽出版社の井森です。よろしくお願いします」と挨拶をすると、女性は、笑みを浮かべて、
 「サーシャの母親の登紀子です。よろしくお願いします」
と丁寧な挨拶をした。
 登紀子が座るのを待って尋ねた。
 「サーシャさんの描かれたお母さんの本を読ませていただき、前世の話の部分に興味を持ちました。普通に考えると、とても信じられないような話だと思いますが……」
 「それはそうだと思います。私も扉が開くまでは自分の前世が何であるか、考えたこともありませんでしたから。いえ、前世があるかどうかということさえ疑わしい、そう思っていました。私、紡績工場に勤めている時、原因不明の高熱を出し、病院へ搬送されたことがあります。一時は命を危ぶまれるほどの状況だったのですが、その時、扉が開いたのです。つまり、霊界への扉と言いますか、私は一時的に生命を失い、霊界へ入ったのです。その時、私は私自身の前世と遭遇しています。ただ、私は死にませんでした。奇跡的に命を取り戻したのです。
 病院を退院して、私は、自分に不思議な能力が備わったことを知りました。霊的な力と申しますか、能力と言いますか、自らの前世と向き合えることができるようになったのです。自信を持ちました。それまでの私は、自信がなくて、引っ込み思案の暗い女の子でした。でも、前世を知って、本当の私は、暗くて引っ込み思案の弱気な女の子じゃない、と確信しました――」
 「本に書かれていた、前世はアメリカ人だったということですね」
 「アメリカの北部に住む事業家の男性が私の前世でした。バイタリティがあって、いくつもの事業を成功させた人だったということがわかっています」
 「その方とどうやって会われたのですか?」
 高熱で死線をさ迷っている時、呼ばれたのです。手招きされた方向に向かうと、男性が立っていました。私にはすぐにわかりました。その人が私の前世であることが」
 「話をされたのですか?」
 「いえ、会話など役に立ちません。向かい合っているだけですべてがわかりました。輪廻転生とはこのことを言うのかと……」
 「私が信じることのできる何かがありませんか? つまり証拠という奴です」
 話を聞くだけでは、やはり確信が持てない。何か、信じるに足る証拠があれば、そう思って尋ねたのだが、――そんなもの、あり得るはずがないということもまた、よくわかっていた。だが、登紀子の返答はまるっきり違うものだった。
 「あなたにお見せしましょう。それでいいですか?」
 登紀子の言葉に驚いて、聞き直した。
 「私に見せる? いったい何をですか?」
 「前世があるという証拠と霊界の一部をです」
 「……」
 本気で言っているのだろうか――、疑心暗鬼の私の表情を見て、登紀子が笑った。
 「ここでは支障があります。私の自宅へ行きましょう」
登紀子の自宅は、この店のすぐ近くにあるという。自宅へ案内すると聞いて、私は少し恐れをなした。
 「編集長、どうぞ行って来てください。もし、母の言うことが本当だと信じてもらえたら、この本の制作にぜひご協力ください」
 サーシャが私を送り出しながら言った。サーシャもまた登紀子に霊界を覗かせてもらった一人なのだろうか、落ち着き払った態度が謎に思えた。
 登紀子の家は、北野坂を下った山手幹線に至るまでの坂道にあった。夏の真っ盛りであっても異人館を巡る観光客は尽きない。坂を下る途中、観光客らしい女の子たち数人とすれ違った。
 登紀子の家は、周辺の異人館に合わせたようなインドの宮殿を思わせる造りだった。
 「さあ、どうぞお入りください」
 登紀子は、門の扉を開けると、私に中へ入るよう促した。
宮殿を模した外観と同様に、屋敷の中も宮殿の中のような造りだった。立ち込める香の匂いがいやがうえにも異国情緒を高めた。
 「ここへお座りください」
 応接間のような一室に私を案内した登紀子は、その部屋に置かれた椅子に私を座らせた。
 「いいですか。たとえ何があっても、言葉を口に出してはいけません。何を聞かれても答えてはいけません。もし、答えると、あなたは現世に戻ることができません」
 登紀子はそう断って、私に念を押した。
 ブラインドが下ろされ、電気が消えると、部屋の中は漆黒の闇になった。
 「では、始めます。いいですか。驚いても声には出さないように」
 再度、登紀子は念を押した。暗闇のために判然としなかったが、どうやら彼女は私の前方に立っているようだ。
 沈黙の時が過ぎた。前方を凝視していると、ぼんやりとしたものが見えてきた。
 何か、と思って目を凝らすと、うすらぼんやりとしたものの姿がはっきりと見えてきた。
 「公平か」
着 物姿のちょんまげを結った年老いた男が立っていた。
 「公平だろ」
 思わず返事をしそうになったが、押し止まった。
これが私の前世なのか――。
 大小の刀を帯刀した、ちょんまげの男は、なおも私の名前を呼んだ。
言葉を呑み込むようにして私は前方を凝視して答えなかった。その男が闇に消えたかと思うと、続いて女性が登場した。年代がわからなかったが、土を扱う仕事をしている女性のようだった。この女性も登場するなり、私の名前を呼んだ。
 幾人もの人、中には犬もいたし、馬もいた。入れ代わり立ち代わり、私の前に現れ、私の名前を呼んだ。
 すべて私の前世だと直感した。
 どの程度、時間が経っただろうか。電気が点いて、照明に照らされて気が付いた。
 「どうでした。あなたの前世は?」
 登紀子が聞いた。
 「私の言ったことが少しは信じられるようになりましたか?」
私はまだ、言葉を発せずにいた。言葉の代わりに大きく頷くと、登紀子は私に言った。
 「霊界と現世を行き交いできるようになった私が、あなたの前世を呼び寄せたの。前世に出会った人には幾通りものパターンがあって、私のように劇的に人生を転換する者もおれば、気が触れて病院に入院する者もいる。あなたは冷静沈着に前世を見つめていたけど、どちらかしら」
 私は、何を考え、何を思って、前世に当たる人を見ていたのだろうか。 ――無になってただ前世を見つめていた。前世がどうであろうと、今の自分がすべてだ。そんなふうに思って見ていたのだと思う。
 何も語らない私を見て、登紀子は少し心配になったようだ。それに気付いた私は、スックと立ち上がって登紀子に言った。
 「ありがとうございました。世の中の不思議は不思議にあらず、あなたに出会って改めて感じました。サーシャさんの描かれた内容を信じることができました。それが私には一番うれしい。本を完成させるために全面的に協力します」
 素直な気持ちだった。登紀子は、何事か言いかけたが途中で辞めて、私の背中を叩いた。
 「お願いするわ。本の完成を楽しみにしています」
 
 インド料理の店に戻ると、テーブルがほぼ埋まっていた。サーシャが忙しく立ち働く傍らで、最初にこの店を訪れた時、喧嘩をしていたインド人の男性が厨房を手伝っていた。
 仲直りしたのか、二人の表情が明るく見えて、私の心を和ませた。サーシャもまた、前世でのつながりが縁で彼と共にいるのだろうか。
 サーシャは私を見ると、走り寄って来て、
 「どうでした?」
 と聞いた。
 「本のことですが、全面的に協力させていただきます。原稿をもう一度読み直して、添削したものをお返しします。スケジュール的には――」
 私が簡単に説明をすると、サーシャは顔をほころばせた。
 「ありがとうございます。母に導かれて平然としている人を私、初めて見ました。それがうれしい」
 「鈍感なだけです。でも、おかげであなたの書いた内容を信じることができました。頑張っていい本にしましょう」
 手を差し出すと、サーシャが私の手を強く握りしめた。
 「お願いします」
 サーシャの声が登紀子と過ごした霊界の時間を一瞬間、忘れさせてくれた。店の外へ出ると、暑気は少し弱まっていたが、凪いだ風は涼を運んではきてくれなかった。ハンカチで汗を拭きながら坂道を下りた。登紀子の家で見た、前世の顔が一つずつ浮かんでは消えた。坂道を下り終えた頃には、すべての顔を思い出し、そしてすぐに忘れてしまうのだろうなと思った。
〈了〉

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