消えたオートバイの謎を追う

高瀬甚太

 極楽出版社編集長兼代表の井森公平の知人である東海小百合が交通事故に遭い、入院したと知らせが入ったのは午後二時少し前だ。すぐに井森は病院に向かった。
 大阪市北区のK病院の受付で病室を訊ね、七階フロアでエレベーターを降りて四人部屋の病室に入ると、小百合は一番奥の窓際のベッドで眠っていた。
 「わざわざすみませんねえ。交差点を渡っていた時、信号を無視したオートバイに跳ねられて――」
 小百合の母は、事故の状況を説明して、小百合を跳ねたオートバイがそのまま逃走したことを口惜しげに語った。ひき逃げである。幸い、周囲にいた人の通報ですぐに救急車が駆けつけ、一命を取り留めたが、一時は意識不明の重体であったようだ。
 警察はすぐさま捜査に入ったようだが、三日経った今も小百合を跳ねたオートバイの確認はされていなかった。人通りの多い交差点であったため、事故を目撃した人も多かったが、肝心のオートバイについては曖昧な目撃情報しか届いておらず、苦心していると、小百合の母は警察から報告を受けている。
 車と違いオートバイはその確認が難しい。後姿を見ただけで車種その他を詳しく見分けられる者は意外に少なく、目撃者の多くがオートバイに興味のない主婦であったため、余計に目撃情報が漠然とした内容になったようだ。
鎖骨の骨折、左腕骨折、胸部打撲、ろっ骨骨折――と痛ましい状態だったが、幸い、倒れ方がよかったのか、奇跡的に脳には損傷がみられなかった。
小百合の母は、涙を流しながら井森に言った。
 「井森編集長、お願いです。娘を跳ねてひき逃げをした犯人を捕まえてくれませんか。このままでは悔しくて悔しくて……」
 「大丈夫ですよ。警察が捕まえてくれます。私など何の役にも立ちません」
 井森は一介の編集長である。捜査能力など持ち合わせていないし、ましてやひき逃げ犯人を捕らえるなど素人にできることではない。小百合の母親がなぜ井森に頼もうとするのか、それが不思議でならなかった。
 「小百合が以前からよく言っておりました。井森編集長には不思議な能力があって、これまでさまざまな事件に関わって来て、ことごとく解決していると」
 「いえ、それは違います。小百合さんの誤解です。私にはそんな能力はありませんし、事件といっても些末なものばかりです。解決なんておこがましいことです」
 井森はあわてて否定した。小百合の母親には申し訳なかったが、井森は丁重にお断りした。
 しかし、母親は納得しなかった。
 「今回のひき逃げは通常の捜査では難しいと警察から聞いています。実際、事故から三日しか経っていませんが、すでにお手上げ状態だと聞いています。オートバイの車種、ナンバー、運転者など、目撃者がたくさんいるはずなのに目撃情報がバラバラで混迷していると、警察関係者は嘆いています。どうしてそういった状況が起きたのか、不思議でなりませんが、このままでは犯人を永久に捕まえることができないのでは――、そう思うと、小百合がかわいいそうでなりません。編集長、出版とはまったく無関係の仕事を依頼して申し訳ありませんが、その間の費用、謝礼は十二分にお支払いいたしますのでなにとぞよろしくお願い申し上げます」
 母親の強硬な願いを井森は断ることができなくなり、渋々承諾して、当座の費用を受け取った。
 東海小百合は特殊な絵を描くイラストレーターで、井森との付き合いも長い。年齢は三十代半ばで離婚歴のあるバツイチ、盛大な結婚式を挙げ、新婚旅行にハワイへ出かけたその日のうちに突然、単身帰国して別居生活に入ったという伝説を持ち、気の強さとイラストの特異性で話題に事欠かない女性であった。
 井森も小百合と一緒に仕事をしたことがあるが、衝突したことは一度や二度で利かない。それでも、お互いに認め合っているところがあったせいだろう、十年以上、仕事を通じて今もその関係が続いている。
 小百合の絵は心理面の恐怖を描くもので、妖怪画ともホラー画とも違い、人間の奥底にある心理を描写するという特異なものだった。
 井森は彼女の絵を初めて見た時、その特異さに驚かされたが、やがて彼女の強い霊感を知って納得がいった。彼女は目でものを見るのではなく、霊感でものを見て、それを的確に表現していたのだ。その絵は、人によって感じ方はまちまちで、ある人にとっては恐怖の絵となり、ある人にとっては心の底を見透かされたかのような震撼する絵となる。
 母親は断言しなかったが、今回の依頼は、小百合の依頼でもあるのだろうと井森は思った。依頼を引き受けざるを得なかったのも彼女に恩返しをしなければならない立場であったからだ。井森の会社は、彼女の絵によって危機から救われたことが何度かあった。寡作ではあったが、彼女の描く絵は意外に売れた。それは常に危機的状況にある極楽出版を一時的にせよ、救済してくれるものだった。

 早速、井森は小百合が事故に遭ったという場所に向かった。場所は扇町交差点の一角、天神橋筋を西へ向かう途中で起きた。西には扇町交差点があり、その北側には某テレビ局の建物があった。
 母親の話では、小百合はその日、天神橋筋商店街へやって来て、天四商店街で買い物をした後、梅田へ向かうために歩いていたということだった。最寄の地下鉄はすぐ下にあり、梅田へ行くのであれば電車を使った方が便利であったはずだが、彼女は電車を避けて歩きを選んだ。それが事故につながった。時刻は午後2時、交通量はそれほど多い時間帯ではない。現場は見通しがよく、注意深く運転していたら事故を起こす可能性は少ないと思われた。しかも彼女は青信号を待って渡っている。事故は渡り終えようとした瞬間に起きた。梅田方面から来たオートバイが猛スピードで左折し、彼女を跳ねてそのまま北に向かって逃走した。
 目撃者は、道路東側に集中していた。しかし、その瞬間をはっきりと見た者は少なかった。跳ねた音を聞いて、あるいは急発進するオートバイの爆音を聞いて、初めて事故を知ったという人がほとんどだった。したがって跳ねられた瞬間の小百合の姿こそ多くの人が目撃していたが、猛スピードを上げて走り去るオートバイを見た者はそれほど多くなかった。また、同時に何台かのオートバイが道路を走っていたため、それと見間違った可能性もあった。
 警察の捜査が難航したのは、正確にオートバイを目撃した者が少ないことが原因であった。走り去るオートバイが一台ではなかったこともそれに拍車をかけた。
 事故現場に立って、思いを巡らした時、最初に思い浮かんだのは、オートバイのスピードだ。通常、どのように猛スピードで走っていたとしても、曲がり角ではスピードを緩めるはずだ。それがほとんど減速しないまま左折し、跳ねた後も振り返ることなく走り去―と倍の走行経路を調べることにした。倍の走行経路を調べることにした。当日、梅田界隈で、午後1時から2時までの間、事件が発生していないかどうか、天満警察署と曽根崎警察署で確認した。すると、午後1時35分、堂山町付近でオートバイによるひったくりがあったことがわかった。
 堂山町は梅田周辺の中でも特に雑多な飲食店が多い場所として知られている。しかし、その多くが夜の商売で、昼間は夜に比べると比較的静かだ。ひったくりに遭ったのは、持田康之、三五歳、居酒屋「よし」のマネージャーで、午後5時に開店する店の釣銭を用意するために銀行へ行った帰りを襲われている。
 堂山町の裏通りで持田の一一五万円の現金入りカバンをひったくったオートバイの犯人は、そのまま表通りへ逃走し、扇町筋を北へ走ったとの情報がある。
 小百合を跳ねた犯人は、おそらくこのひったくり犯であろうと思われた。現金入りのカバンを奪い逃走するさなかに小百合を跳ねたのだ。
 井森は、被害に遭った居酒屋「よし」のマネージャー持田の元に出向き、取材と偽って彼に話を聞いた。最初、持田は井森が取材にやってきたことに不信感を持ち、なかなか口を開こうとしなかった。しかし、根気よく、ひったくり犯を撲滅するための本を作っていることを告げ、協力してほしいとお願いをすると渋々承諾し、ようやく質問に答えた。
 「犯人はあなたを狙い撃ちにしていたように思えるのですが、いつも同じ時間に釣銭を用意するために銀行へお出かけになるのですか?」
 「いえ、いつも同じではありません。仕込みの具合を確認してから行きますから、もう少し早い時もあれば、遅い時もあります。時間はバラバラです」
 「あなたが銀行へ行き、釣銭を用意することを知っている方はおられますか?」
 「そうですね……。店の従業員ぐらいですかね。部外者で知っている者はいません」
 「従業員は何人ぐらいいらっしゃるのですか?」
 「開店時には十二人ほどいますが、仕込みに関わる従業員は五名です」
 「その仕込みに関わる従業員の方は、皆さん、持田さんが銀行へ行かれることを当然知っているでしょうね」
 「そうですね。知っています。店を出る時、銀行へ行って来ると告げて店を出ますから」
 「銀行から店までどのぐらい時間がかかりますか?」
 「15分ほどです」
 「毎回、同じコースで行かれますよね」
 「ええ、同じ道を通ります」
 「そのコースも銀行名も仕込みの方五人、すべての方が知っておられるのですか」
 「いえ、知っている者は限られます。仕込みの人間は料理人ですから現場の人間は経営や経理には無関係ですので、ほとんどの者が知りません」
 「ほとんどの者と申しますと、中には知っておられる方もいらっしゃるわけですね」
 「ええ、一人だけ、チーフの鍵林を除けば。彼は現場の責任者ですから、他の者と違って経営や経理のことを熟知しています」
 「鍵林さんは古くからお勤めなんですか?」
 「いえ、彼はチーフで現場の責任者ですが、勤務してまだ一年ほどしか経っていません。一年前に、長く店で働いてくれていたチーフが自分で店を出すことになって、急遽、鍵林をチーフとして雇用しました。鍵林は料理人としての能力に長けた男で、うちとしても非常に重宝しています」
 「難点はないわけですね」
 「ええ、ほとんどありません。ギャンブル好きなところを除けば」
 持田はそう言って笑った。

 居酒屋「よし」を出た後、電話で大阪府警捜査三課の原野警部を呼び出した。
 原野警部は不在だったが、緊急の用があると伝えると、5分ほどして携帯電話に野太く荒々しい声でかかってきた。
 ――編集長、急ぎの電話をもろたようやけど、何ぞあったんですか。
原野警部とは旧知の間柄であったため、挨拶は抜きにしてすぐに本題に入った。小百合の交通事故を推理していて、浮かび上がった推理を伝えると、原野警部は俄然興味を持ったようで、「すぐに調査してみる」と答えた。
翌日午前11時過ぎ、原野警部から連絡があった。
 「編集長、ありがとう。編集長の推理通りやった。鍵林という男をつっついたら、あっさり白状しよった」
 「やはりそうでしたか。それでもう一つお願いがあるのですが……」
 原野警部は、すっかり気を良くしていて、井森のもう一つの願いも快く引き受けてくれた。

 警察で本格的な取り調べを受けた鍵林の供述は以下のようなものだった。
 ――競輪、競馬、ボートレース、パチンコ――、ギャンブルに目がなかった俺は、いつの間にか膨大な借金をこしらえていました。サラ金は言うに及ばず闇金からも借金していた俺は、返済に困って……。闇金の幹部に脅された俺は、マネージャーが毎日、釣銭用として銀行へ百万単位のお金を取りに行っているという話をしました。すると、闇金の幹部は、マネージャーが店を出たらすぐに連絡するよう俺に言いました――。
 原野警部から連絡をもらったのはその一週間後のことだった。
 「編集長、先日はありがとう。おかげで居酒屋『よし』の鍵林の供述は取れたが、残念なことにひったくり犯を捕まえるところまでは行かへんかった。闇金の幹部を問い詰めたが、知らぬ存ぜぬの一点張りでなあ……。鍵林の証言だけではどうにもならへん。証拠がないとどうにもならん」
 ひとしきりぼやいて原野警部は電話を切った。
 確かに鍵林の証言だけでは、事情聴取が精一杯だろう。ただ、これで小百合を跳ねたひき逃げ犯人の目途だけはついた。後はどうやって犯人を燻り出すかだ。
 鍵林が借りた闇金は大阪市内、ミナミにあると、原野警部から聞いていた。一応、事務所が存在することを確認できたので、訪ねてみることにした。
 旧い雑居ビルの三階の一室がその事務所だった。「幸福ローン」と書かれた名称を確認して、真鍮製のノブを押し、ドアを開けるとすぐのところにカウンターがあり、来客はそこでボタンを押すことになっていた。
 ボタンを押すと、仕切りをした奥の方から男の声がした。
 「どちらさんでっか?」
 明らかにその筋の者とわかる風体の派手な原色のシャツと上着を着た男が目の前に現れた。
 「お金をお借りしたくて――」
 恐々、小声で言うと、男は、しばらく私を品定めでもするかのように眺めた後、
 「中へどうぞ」
 と、私を一室に通し、
 「ここでしばらく待っていてください。担当者が参りますから」と言った。
 男が部屋を出た後、数分後に別の男が現れた。頬骨の突き出た痩せた男で、鋭い目つきで井森を見て言った。
 「うちのことはどこで知りはりましたんや?」
 「友人に聞きました」
 幸福ローンが宣伝広告など一切していないことは予め知っていた。
 「友人?」
 「ええ、友人から聞きました」
 「よかったらそのご友人の名前を教えてもらいまひょか」
 「聞かれても言わないでもらいたいと言われていますので、名前はちょっと……」
 「へえ……。名前が言われへん友人でっか。気になりまんなあ」
 「申し訳ありません。そちらに度々迷惑をおかけしているようで、名前を言ったら貸してもらえないだろうから、と友人は言ってました」
 「――あんたの素姓、確認させてもろてよろしおまっか?」
 「私の素姓ですか?」
 「はいな。近頃、警察も賢くなりましてな。いろんな手を使いまんのや。いや、気にせんといてください。何もなかったらそれでよろしおまんのや」
 井森は、言われるまま住所と名前を用紙に記入した。担当者の男はそれを持って、「ちょっと待っててください」と言って部屋から姿を消した。
 15分ほどして再び担当者の男が現れた。よく見ると、痩せてはいるが背が高くがっしりした体格の男だと気が付いた。しかし、顔色は異常なほどに白かった。
 「調べさせてもらいました。極楽出版の代表者兼編集長さんでっか。経営はかなり厳しいみたいでんな。銀行は、もう相手にしてくれまへんのやろ」
 「ええ、銀行だけではなく、他の金融機関も軒並みアウトです。それでここに来たようなわけで」
 「そうでっか。そやけどうちは高利の金貸しでっせ。それでもよろしいんでっか?」
 「月一割と聞いていますが……」
 「先月まではそうでした。今は半月で一割です。どないでっか。それでも借りまっか?」
 「半月で一割ですか……」
 「一日でも遅れたら大変でっせぇ。利子が半端やおまへんさかいに」
 挑発的に物を言うのはこの男の癖かもしれないと井森は思った。それにどうやらこの男は貸す気はなさそうだ。そう思った井森は作戦を変えた。
 「ちょっと考えさせてもらってよろしいですか」
 「ああ、よろしいで。ゆっくり考えなはれ」
 「ところで少しお聞きしたいことがあるんですが――」
 「聞きたいこと? いったい何でっか」
 「私、こういった仕事をしているもので、職業柄いろんなところの情報に精通しているのですが、そういった情報をお伝えしたら融資の条件は変わりますか?」
 「情報にもよりますわな」
 「たとえば、私の知人の一人に大金持ちの男がいまして、その男、株を手広くやっているのですが、銀行に金を預けたり貯蓄をしたりするのが嫌いで、現金はいつも手元に置いておく主義なんです。株を買う際、知人のその男が自身の手で証券会社へ現金を運んでいます。取りに来てもらうか、だれかに頼めばいいのでしょうが、知人の男はそれを良しとしません。常に自分の手で運びます。近頃、大きな株の扱いをするようで、その時も男が自分で運びます」
 「金額はどのぐらいや?」
 「多分、一億は下らないと思います。株を購入する時は常にそのぐらいか、それ以上の金額を用意しているようですから」
 「い、一億!?」
 「ええ、これは私以外、誰も知らないことですが」
 「ほな、その日時があんたにわかると言うんか?」
 「はい。わかります。日時とコース、場所まですべてわかります」
 「……」
 「どうでしょうか?」
 「ええ話や。悪い話やない。それであんたの条件は?」
 「知人が大金を運ぶ日時、コースすべてをお教えする代わりに、融資を安い金利でお願いしたいということと、もう一つだけ条件があります」
 「なんや? その条件ちゅうのを話してみいや」
 「私も仲間に入れてほしいのです」
 「あんたを仲間に!?」
 「ええ、それが条件です」
 「なんでや、融資を低金利でやることだけでは不足なんか」
 「はい。大金持ちの知人の鼻を明かしてやりたいんです。そのためにも、あなた方と行動を共にしたいのです」
 「よし、わかった。その代わり、口外したら命はないぞ」
 「それはよくわかっています。仲間になるのですからそのぐらいの覚悟はしています。そのためにもいろいろ教えていただければと思っています」

 幸福ローンの担当者は桐生忠義と言い、代表を務めていた。予測した通り、幸福ローンは暴力団S組のフロント企業で、貸金業とは別に配下の組員を使ってひったくりや恐喝などお金に絡むさまざまな犯罪を行っていた。
 そのすべてを桐生が語ったわけではなかったが、出版の参考にしたいとおだてると、桐生は意外によく喋った。
 大金持ちの知人は、もちろん私の嘘である。お金に困って融資をしてほしいと頼むことで、金のためなら何でもするという覚悟をみせて相手の信頼を得て、相手に取り入った井森は、幸福ローンを出た後、すぐに原野警部に連絡を取った。
 尾行されている危険性があったから電話での会話であったが、原野警部はすべてを了解し、作戦を進めるにあたって周到な準備をするよう図ると約束してくれた。
 大金持ちの知人の役を快く引き受けてくれたのは、井森の友人の、劇団「ミッドナイト」の男優であり、主催者である斉藤大輔で、恰幅のいい彼の容姿は適役であると思われた。桐生たちには知人の名前は伝えていなかったが、早い機会に伝える必要があった。あまり遅いと彼らは疑いを持ち始める。その証拠に桐生からは毎日のように「おまえの知人の大金持ちの名前と素姓を教えろ」と電話が入っていた。
 原野警部に連絡を取ると原野警部は、関西財界の雄である御萩俊太郎氏に協力してもらうことができたと井森に告げた。御萩俊太郎氏の名前を出せば、桐生たちも一も二もなく信じるだろう。幸いなことに、御萩俊太郎は表に顔を出すのが嫌いな人で、その顔や詳しい内容はどこにも記されておらず、斉藤が御萩氏に化けても桐生たちにばれる心配はなかった。
 原野警部と綿密な相談の上、実行日が決定したのはそれから三日後のことだ。一日前に桐生に知人の大金持ちの名前を伝え、素性も伝えていた。さすがの桐生も御萩氏の名前は知っていて、当日は配下の組員を総動員させると、井森に連絡をしてきた。
 当日、御萩氏に化けた斉藤が一億円分の札束をトランクに詰め込んで車に乗せ、午後1時に自宅を出発した。コースは、箕面から新御堂、御堂筋を通って本町のK証券会社へ向かう道筋を選んだ。
 井森は、当日、桐生たちと行動を共にした。その日の午前、桐生の事務所に全員が集合し、井森は行動隊のメンバーと初顔合わせをした。
井森は集まった全員に作戦を伝えた。
 「本日、御萩氏は、一億円の札束をトランクに詰め込んで箕面の自宅を出発します。目的地は本町のK証券で、コースは箕面から新御堂筋を走り、御堂筋を走って平野町の交差点で左折して平野町筋を走ることになっています。運転手が一人、後部座席に御萩氏、札束を詰め込んだトランクは後部座席、御萩氏の隣に置かれています。そこで作戦ですが、このメンバーの中にオートバイに乗れる方はいますか?」
 井森が尋ねると、幸福ローンの事務所に総動員した七名の中で一番若い男が手を挙げた。
 「あなたですか? いつもオートバイを使用しているのは」
 確認すると、若い男は、長い髪の毛をたくし上げながら、ニヤリと笑った。
 「榎本ちゅうんですわ。うちの組員でひったくり専門です」
 幸福ローンを訪れた時、最初に出会った男が説明した。
 「榎本さんですか。よろしくお願いします。あなたは、新御堂で待機して、御萩氏の乗った車を尾行してください。もし、怪しい動きをみせたらすぐに連絡するように」
 榎本はヘルメットを手に持って小さく首を振った。
 榎本が尾行して車を追う、万が一コースを変更することがあればすぐに桐生の元へ連絡をする。平野町の交差点を左折してすぐに、車の前へ男が一人飛び出して、車を停める。飛び出した男が「危ないやないか」と言って運転手に怒鳴る。怒鳴って運転手を引っ張り出そうとする。運転手が車をから出たところを見計らってすぐに一人が運転席へ飛び込み、後部ドアを開ける。ドアを開けると二、三人の者が後部座席にあるトランクを外へ運びだし、予め停車していた車の中へ運び込む。車の中へ運び込んだのを確認して、一斉に散り散りバラバラに逃走し、トランクを運び込んだ車をスタートさせる。
井森の立てた作戦に、全員が同調し、役割を分担した。桐生にも当日は参加するよう強く促すと、案外素直に応じた。

 平野町の交差点を越えてしばらく行ったところに原野警部を含む警察署員が待機していた。何も知らない桐生たちは、警察が待機していることも知らず、同じ場所で御萩氏にばけた斉藤の乗った車を待っていた。
 桐生の配下の一人が作戦通り車の前に飛び出して斉藤の乗った車を停車させた。飛び出した男が運転手に因縁をつけ、車の外へ引っ張り出すと、待機していた配下の一人が運転席に飛び込み、後部ドアを開けた。その瞬間、オートバイの榎本を含む配下の者たち数人がトランクを奪い、急いで待機していた車に運ぼうとした。その車には桐生が乗っていた。
 それを待っていたように原野警部をはじめとする警察署員が姿を現し、一網打尽にした。有無を言わせぬ現行犯逮捕であった。井森もこの時、桐生に同行していて、共に逮捕された。
 井森が裏切ったことを桐生たちに知らせないための方策だった。
 警察に逮捕された桐生は、すべてを白状し、この計画の首謀者は井森であると警察に告げた。原野警部は、桐生たちの余罪を追及し、事務所の捜索などによりさまざまな悪事が露呈した。その中には榎本によるひったくりもあり、小百合を跳ねたひき逃げ犯であることについても自供した。

 ひき逃げ犯人が逮捕されたことを告げにK病院に向かった。病室に入ると、すっかり元気になった包帯だらけの小百合が母親と共に笑顔で井森を待っていた。犯人逮捕の情報はすでに警察から小百合の元へ伝えられていたようだ。
 「編集長、ありがとう」
 小百合は、本当に嬉しそうだった。母親はそれにも増して明るい笑顔を見せた。
 「編集長だったらきっと犯人を突き止めてくれる、そう思っていたわ」
事故の二日目、小百合は夢を見たと井森に語り、灰色の雲の中に一条の松明が浮かび上がり、その松明を井森が手にしていたのだと語った。だから編集長が見舞いに現れたら依頼してくれと母親に頼んだそうだ。
 母親は、少ないですけど――、と目を細めながら井森に謝礼と表書きした封筒を手渡した。謝礼を入れた封筒は思いのほかずっしりと重かった。
 「ありがたいことですが、小百合さんにはこれまでお世話になっていますので」
 と謝礼を受け取りかねていると、横から小百合が、
 「編集長、いいんですよ。無理をしなくても。私の件ではずいぶん時間を使わせちゃったし、面倒もかけたから」
 井森は仕方なく謝礼を受け取ることにした。
 病院を出て、井森はすぐに封筒の中身を確かめた。一万円札が三〇枚、三〇万円も入っていた。こんなにあるとは思っていなかったので戸惑った。戸惑いながらも、月末の支払いに役立ちそうだと胸を撫で下ろした。出版社は辛いよ。公園の脇を歩きながら思わず井森はそう呟いた。
〈了〉

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