碁に潜む勝鬼のたくらみ

高瀬 甚太

 「元気だったか?」
 梅田の繁華街で友人と再会した。江川剛という高校時代の同級生だった。江川は、井森の顔を見るなり、なぜか真っ先に健康状態を尋ねた。
 「ああ、どうにかね。きみはどうだ?」
 井森が尋ねると、江川は、
 「おれはだめだ。きわめて不健康な状態だ」
 と半ば自虐的につぶやくように言った。
 「どこか悪いのか?」
 心配になって尋ねると、江川は、
「今はまだ大丈夫だ。だが、すぐに悪くなる。そして死んでしまう」
とひとり言のように言い、視線を逸らすとそのまま雑踏の中へひっそりと消えた。
江川の死を複数の友人から知らされたのはそれから一か月後のことだった。

 出版の仕事はひとたび怠慢を決め込むと、恐ろしいほど大量のミスを搬出させてしまう。その日の井森は、朝から風邪気味で体調を崩し気力を失っていた。そのため、日頃、注意している細かな校正ミスや問屋への連絡、多くのことをなおざりにして無為に時間を過ごしていた。ミスの結果がどうなるか、それはもう少し後のことだったが、それよりも何よりも井森はその日、ひどく憔悴していた。それは多分、多くは風邪のためであったが、友人から知らされた江川の死に起因しているようにも思われた。
 江川をよく知る友人は、江川の死に衝撃を受けて、夜もろくに眠れないと井森にぼやいた。
 「江川の家族に連絡をもらって急いで病院を訪ねたんだ。つい先日、江川に会ったばかりだったから驚いてね、家人に案内されて病室へ行くと、衰弱しきった江川がいたよ。どうしたらこれだけ衰弱できるんだ、そう思えるほど痩せ衰えて、まるで百歳を迎える老人のようになっていた――。それで奥さんに聞いたんだ。私がつい先日、彼にお会いした時はとても元気そうでした。何があったんですかって? すると奥さんが言うんだ。昨日の夜、風呂から上がってくると突然倒れて、そのまますごいスピードで年老いて行きましたと。にわかには信じられない話で、思わず俺は聞き直したよ。でも、それは事実だった。江川は俺の目の前でさらに年老いていき、一時間後に老衰死した」
 医師が江川の死に疑問を抱き解剖して調査をしたが、何も発見することはできなかった。医師は当初、薬によるものではないかと考えたようだが、それにしても人を一気に老化させる薬などあるはずもなく、解剖してもそういった薬害など何一つ見当たらなかった。唯一考えられたことは、一気に老化する原因、相当なショックがあったのではとも考えられたが、奥さんの話や周囲の話を聞いても何も出て来なかった。
 「井森、悪いが一度、調べてみてくれないか? おまえ、時折、探偵のような真似ごとをしているそうじゃないか。江川とはそれほど親しくなかったとはいえ、高校時代のクラスメートだ。これも何かの縁だと思って――」
 友人はしきりに寝覚めが悪いんだ、を繰り返しながら井森に依頼した。一か月前に江川と梅田で偶然再会したことをその友人には話していなかったが、井森もある種の因縁を感じていたこともあり、友人に依頼されるまでもなく、調査をしなければと秘かに考えていた。
 江川の死は老衰死であったが、一夜にして急激に老化する原因は必ずあったはずである。それを知るために井森は弔問という名目で江川の死後、一週間を経た頃、彼の自宅を訪ねた。
 江川の自宅は兵庫県伊丹市にあった。JR伊丹駅から歩いて数分、住宅街の一角に彼の家があった。豪邸とまでは言えなくても、普通のサラリーマン世帯では手に入れられそうにないほどの大きな邸宅で、よく手入れされた庭木と石灯籠が庭に飾られていた。
 あらかじめ連絡を入れていたこともあり、チャイムを鳴らすとすぐに奥さんが出て来て、迎え入れられた。
 部屋に通されてすぐ井森は奥さんに訊ねた。
 「友人にお聴きしましたが、一夜で急に老け込まれたとお聞きしましたが、それは本当でしょうか?」
 奥さんは頬に皺を覗かせて力なく頷いた。奥さんもまた江川の死にかなり憔悴している様子だった。
 「原因がわからないと聞いたのですが奥さんには何か思い当たることはありませんでしたか?」
 しばらく黙していた奥さんは、一瞬ハッとした表情をみせて、井森の顔をじっと見つめ、何かを話そうとしたが、急にそれを打ち消すような表情をみせると、再び黙り込んでしまった。
 「私は出版社の編集長で、探偵ではありません。だからこんなふうに奥さんを質問攻めにしていることなど本当はとんだお門違いですが、ただ、友人の死があまりにも突然で驚いているのと、友人のためにも真相を究明したいという希望を強く持っています。もし、知っていることがありましたら何でも結構です。お話願えませんでしょうか」
 奥さんはしばらく黙し、悩んでいるふうだったが、やがて意を決したような表情をみせると、井森に向かって話し始めた。
 「主人の死がショックで、その信じられない死に方にただならぬものを感じていましたが、それが何であるか、私にもずっとわかっていませんでした。主人は生前、碁が好きで、一人でよく碁を打って楽しんでおりました。つい一年ほど前のことです。仕事の関係で台湾に行った主人が碁石を土産に持って帰ったことがあります。その碁石は数百年の歴史を持つ碁石なのだと、主人はよく自慢していました。それを主人は台湾の古びた骨董店で見つけたのだと私に言いました。確かによく見る碁石とは少し違って見えました。でも、ただそれだけのことだと思っておりました。主人は昔から一人で碁を打つのを楽しみにしていましたが、その台湾の碁を使うようになってから、まるで相手が前にいるような感じで誰かと対話でもしているかのような雰囲気で碁を打つのです。それまでは一人で打っていてもそんなことなどありませんでしたから驚きました。亡くなる数カ月前、碁を打った後の主人があまりにも疲労困憊しているのに驚いて、その碁石で打たない方がいいんじゃない? と言ったことがあります。でも主人は、疲れているのは仕事のせいだよと笑って私の言葉を聞き入ませんでした。
 この一カ月ほど前のことです。一人で碁を打っているはずの主人の部屋から主人以外の人の声が聞こえてきました。どなたかいらっしゃっているのかなと思ってドアを少し開けて覗くと誰もおらず、主人が一人で碁を打っていました。聞き間違いかなと思い、ドアを閉めるとまた、主人以外の人の声が聞こえてきました。私の耳がおかしくなったのだろうかと、思っていましたら、二週間前のことです。今度は一人で碁を打っている主人の部屋から激しく言い争うような声が聞こえました。慌ててドアを開くとやはり誰もいませんでした。主人にお客さんじゃなかったの? と聞くと、主人はひどく疲れたような顔をして、いや、私一人だと言うのです。ここ数日、そんなことが頻繁に起こっていて、主人に何か起こるのでは、と非常に心配しておりました。
 こんなことをお話しても想像で言っているように思われて相手にしてもらえないことはよくわかっています。ですから今まで誰にも話していません。井森さんが初めてです」
 「ありがとうございました。お話ししてくださってよかったと思います。その碁石のある場所はわかりますか。できたらお見せ願いたいのですが」
 奥さんの話を聞いて、井森の直感が碁石に何かあると知らせていた。
 「主人の部屋にあると思います。少しお待ちください」
 奥さんはそう言うと、江川の遺影を飾ってある部屋をいそいそと出て行った。
 数分して奥さんが碁石を入れた碁笥を持って部屋に帰って来た。
 「この碁石です。見ていただけますか」
 井森は碁笥を手に取って蓋を開け、中を覗き、黒と白の碁石を取り出した。
 見たところ何の変哲もない普通の碁石のように思えた。だが、よく見ると、手触りといい、色といい、とてつもなく古さを感じさせるものがあった。
 「奥さん、申し訳ありませんが、この碁石をしばらくの間、お借りできますか? 調べてみたいことがあります。江川の死の原因も突き止められるかもしれません」
 奥さんは快く碁石を貸し出してくれた。井森の直感に間違いがなければ、この碁石には強烈な悪霊が潜んでいる。そんな気がしていた。

 江川は、囲碁好きが高じて台湾の骨董品店で碁石を購入した。江川はこの碁石に誘われるようにして頻繁に一人囲碁をしたのだろう。手元に置いてある碁石が闘争心をむき出しにしているように感じて不気味だった。碁石から妖気のようなものが漂い、それが頻りに井森を囲碁の闘いへと誘う。井森に囲碁の素養があれば、江川と同様、碁石に潜む妖気に簡単に囚われてしまったことだろう。しかし、残念ながら井森には囲碁の素養がなかった。
 考えた末に囲碁の雑誌を出版している会社を訪問し、相談を持ちかけた。多分信じてはもらえないだろうと思いながら話をすると、囲碁雑誌の編集長である大森乙矢は井森の話にひどく興味を持った。
 「昔、中国でそういった話を聞いたことがあります。碁に潜む勝鬼の話です」
 「碁に潜む勝鬼?」
 「ええ、そうです。霊というわけではなく、滅多にないことですが勝鬼と呼ばれる妖気が旧い碁石に忍び込むことがあると言われています。霊であれば霊媒師なり、霊を払う方法がいくつか考えられますが、勝鬼の場合はそれでは追い払えません。勝鬼を囲碁で木端微塵にやっつけなければ追い払うことができないのです。ただ、この勝鬼というやつ、囲碁に強くてしかも戦いに長けています。並みの実力では追い払うことなど不可能で逆に生気を奪われて死に至ります」
 大森編集長は井森より十歳ぐらい年上の落ち着いた人物だった。白髪が目立つ前髪を時折押し上げるようにして勝鬼に勝てる対戦者をリストアップし、検討してくれた。
 「井森さん、この人はどうでしょう」
 大森編集長がそう言って紹介してくれたのが、八雲栄達という九〇歳を超える年齢の老囲碁師だった。
 「九〇歳ですか……。大丈夫でしょうか? 対局の際、相当な体力が要求されると思いますが」
 「大丈夫です。八雲先生は普通の囲碁師ではありません」
 井森の心配をよそに大森編集長は早速、八雲栄達に連絡を取った。

 八雲栄達の自宅は猪名川の上流、山深い人里離れた場所にあった。古い農家を改造した八雲栄達の自宅はまるで仙人の棲み家のようにも見えた。玄関に立ち、ドアをノックしようとすると、「入りなさい」と声が聞こえた。八雲は気配で人が訪れたことがわかるようだ。
 ドアを開けると、八雲栄達が目の前に立っていた。背筋がピンと伸びたその姿は九〇歳を超えたなど信じられないほどの若さに満ち溢れていた。眼光の鋭さもそれに呼応して光を放ち、七〇代だと言われても簡単に信じただろう。
 「これが勝鬼の碁石か……」
 碁笥を開けて碁石を眺めながら感慨深い表情で八雲が言った。
 「戦中、わしは満州にいたんじゃが、その時、一度だけ勝鬼の話を耳にしたことがある。勝鬼の存在は中国では古くから言い伝えられている話だが、だれもそれを見たものはおらず、単なる伝説か寓話のように思っている者も多かった。このわしもそんな話など露ほども信じていなかった。しかし、もし現実にそれが存在するのであれば、命を取られてもいいから戦いたい。そんな希望は持っていたが……。だから大森くんから話を聞いた時はたいそう驚いた。生きているうちに勝鬼に出会うなど思ってもみなかったからだ。勝鬼の力は名人クラスでもかなわないほど強いと聞いておる。このわしの力が通用するかどうか、甚だ疑問だが、魔力というものは、どんな名人でもひとたび恐れを持つと負けてしまう。幸いわしには恐れがない、年齢が育てた並外れた丹力と執念、そして意欲がある。勝機があるとすればそこだろう」
 大森編集長の話では、八雲栄達の実力は相当なものらしい。知る人ぞ知るといった存在で、三〇年ほど前に第一線を退いて以来、ずっと孤高を保っているとのことだった。
 八雲は待ちきれないとばかりに碁盤に碁石を並べ戦いを開始した。
 囲碁とは二人で行うボードゲームの一種で、チェスやシャンチーと並ぶ世界三大棋類の一つといわれている。二人のプレーヤーが碁石と呼ばれる白黒の石を、通常19×19の格子が描かれた碁盤と呼ばれる板に交互に配置する。一度置かれた石は、相手の石に全周を取り込まれない限り、取り除いたり移動することはできない。囲碁の目的は、自分の色の石によって盤面より広い領域を囲うことにある。
 八雲の前に誰も存在していないにも関わらず、八雲の白い碁石に合わせて黒い碁石がまるで生きもののように勝手に動いた。
 伯仲した戦いであることは八雲の表情から充分感じ取れた。幾度か八雲はため息を洩らし、悲鳴のような声を上げた。闘いは続いた。二時間を経過してもまだ決着はつかなかった。
 途中で休憩を取った。矍鑠としていた八雲の背中がいつの間にか猫背になっていることに気が付いた。白髪も顔の皺も相当数増えているように見え、わずかな間に八雲はさらに年老いたように見えた。八雲が劣勢であることは明らかだった。
 だが、八雲はへこたれなかった。何より勝鬼の鬼気迫る妖気を恐れていなかった。少しずつ挽回し、やがて、三時間が経過した頃にはいくらか勝機の兆しさえみせていた。
 試合が決着したのは五時間が経過した頃だった。八雲が盤面を見つめ、小さいがしかししっかりした声で「勝った……」とつぶやくような声で言った。
 井森は驚いて盤面を見た。すると盤上の碁石がその形を少しずつ萎ませていき、やがてゆっくりと消えて行った。
 井森私は大森にすぐに電話を入れた。
 「大森編集長、八雲さんが勝利しました」
 喜びの声を伝えると、大森は、「そうですか、よかった」とため息に似た声を上げた後、
 「八雲先生は大丈夫ですか?」と聞いた。
 八雲は先ほどから変わらない姿で盤面を見つめている。
 「大丈夫なようです。ずっと盤面を見つめています」
 井森が答えると、大森は、
 「……井森さん、八雲先生の脈を診てください」
 と八雲の様子を再確認するよう井森に言った。井森はすぐに八雲のそばに行き、
 「八雲先生、お疲れ様でした。おめでとうございます」
 と声をかけて八雲のそばに座り、そっと右手を取った。冷たくなった右手に脈音は響いていなかった。魂の抜けた八雲栄達の肉体だけがそこにあった。

 勝鬼との闘いは無事終わった。しかし、勝鬼は最後に八雲の命を奪った。放心状態の井森は、急いで病院に連絡を取り、救急車を要請した後、大森にそのことを報告した。
大森は言った。
 「八雲先生は捨て身で勝鬼と闘ったのだと思います。逆に捨て身でないと勝てない相手だったのだと思います。私が勝鬼との闘いに八雲先生を指名したのは、八雲先生の精神力の強さにあります。囲碁には頭脳、先を読み取る力、さまざまな要素が必要とされますが、中でも最も必要とされるのは精神がタフであるということです。相手を食らい尽くすといった激しい勝利欲も問われますが、そのいずれにも八雲先生は長けたものがありました。
 碁石の中の勝鬼は八雲先生に敗北したことで、雲散霧消したように見えますが、焼失したわけではないことを知っておいてください。新たな形で我々の前に現れる可能性があります」
 空になった碁笥をそのままにしておくと、勝鬼が戻ってくるのではないかと思った井森は、八雲栄達の庭にそれを埋葬することにした。大森が言った、勝鬼はこの世から消えていない、そのことを思い出したからだ。
 八雲栄達の直接の死は心臓麻痺であったが、内実は老衰であった。死の直前、八雲は最後の力を振り絞って勝鬼に勝利したのだろう。おそらくその差はわずかであったのだと思う。
 八雲栄達の葬儀が終わった後、囲碁雑誌の大森編集長にお礼を言って、井森は久々に事務所に戻った。留守番電話、ファックス、メール……。クレームが殺到していた。少しでも気を抜いたり怠慢な作業を行うとこういったはめに陥る。それが出版という仕事の宿命だ。
 一つひとつ、クレームに対応しながら井森はふと勝鬼との闘いに勝った後の八雲栄達の顔を思い出していた。穏やかで充足感にあふれたあの笑顔に八雲栄達の生きてきた証しがみてとれた。自分はどうだろう。この世から去る時、あのような満ち足りた笑顔で死ねるだろうか。井森はそんなことばかり考えていた。
<了>

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