霊感老人の競馬術

高瀬 甚太

 十一月半ばの日曜日のことだ。友人に誘われて日本橋のウインズに行った。メインレースを買い、友人と共に近くの居酒屋に寄り、競馬の実況中継をしていたので、生ビールを呑みながら観戦をした。ギャンブルに弱い私は、これまで馬券を買っても当選したことがなく、この日もお金を無駄にしたな、と思いながらテレビに映し出されるレースに注目していた。
 スポーツ新聞の競馬欄の予想に従って馬券を購入するのが私の買い方だったが、たまには勘に頼るのもいいだろうと思って、予想紙にはない数字を購入した。18頭が居並ぶ中、1着から3着までを当てる3連単を当てるのは至難の業だが当たれば妙味がある。時には思わぬ大金を手にすることがあったからだ。俗に言う大穴というやつだ。だが、世の中、そんなにうまい話はなく、私などこれまで一度もそんな美味しい目に遭ったことがない。その時も、どうせ駄目だろうとあきらめて酒の肴のおでんに舌鼓を打っていた。
 予想通りに行かないのが競馬の面白さで、新聞の予想欄を見ると、いつもこの馬しかないと思い込んでしまうのだが、馬にもその日のバイオリズムがあり、枠順の位置やスタートの調子で思わぬ展開になってしまうことが少なくない。私が買った馬番は、5番人気、8番人気、12番人気と、期待薄もいいところで、12番人気の馬などは、どの新聞を見ても無印で、一緒に行った友人も「金を捨てるようなものやで」とあきれていた。
 時間通り、メインレースがスタートした。良好な天気の中、18頭が一斉に芝を駆け巡る。
 2000メートルの距離だ。レースの中で馬の特性が発揮される。先行馬がトップを切るのが普段のパターンだが、この日、どういうわけか18頭のうち7頭がトップに並び、団子状態でレースが進行した。その7頭の中に、私が買った馬番3頭が入っていた。本命の馬は3馬身ほど離れた位置に甘んじている。
 騎手の手綱さばきもレースに大きく影響する。競馬ファンの中には、馬ではなく騎手で馬券を買う人も多いと聞く。私もそうだ。この日は馬ではなく、騎乗する騎手を見て、馬番を選んで買った。
 第3コーナーを回ったところで、団子になっていた7頭から3頭が遅れ、4頭になった。だが、このままゴールまで行くわけではない。最後までわからないのが競馬だ。ただ、私は画面を見てひどく興奮していた。4頭のうち3頭が私の買った馬だったからだ。友人の買った本命馬は早くも脱落して後塵を拝している。
 ゴール前、数頭の差し馬、追込み馬がなだ込んだ。団子状態で5頭、6頭がすごいスピードでゴールに到着し、すぐには順位が確定できなかった。写真判定だ。
 「編集長、もしかしたら入ったのと違うか?」
 一緒に酒を呑んでいた友人が、私の馬券を見て言った。
 「いやあ、どうかな」
 そう言いながらも、私の胸の鼓動は止まらなかった。ゴール直前のシーンがスローで映し出される。5頭ほどが同時に駆け抜けているようで、判然としない。写真判定だ。ただ、その5頭の中に私の買った馬券が絡んでいた。後は順位だけだ。
 3連単なので、順位が違えば、せっかく入っていても残念でしたとなってしまう。私以上に興奮している友人は、
 「入ったら大穴だぞ」
 と一人興奮している。
 しかし、なかなか掲示板に着順が出ない。写真判定が戸惑っているようだ。先に4着、5着が掲示された。これではっきりした。私の馬券3頭はいずれも3位以内に入着している。私はテレビ画面に注目し、祈りにも似た気持ちで手を合わせた。
 やがて、「確定」の朱文字が現れ、掲示板に順位が発表された。掲示板に現れた順位と、私が買った3連単の順番を交互に何度も見直し、間違いないことを確認すると、
 「入った―っ」
 と居酒屋の中で絶叫した。生まれて初めての超大穴万馬券である。3連単九十五万円が表示され、その金額を見た私は卒倒しそうになるほど興奮し、やっかむ友人を後目にすぐにウインズに駆け込んだ。馬券を千円で買っていたから九五〇万円が私のものになる。足が震え、口から泡が飛び出る。馬券を握り締め、駆け込んだが――、係の女性は、
 「残念でしたね」
 と言って笑って私に馬券を戻す。
 「どうしてですか? 当たっているはずですが」
 興奮冷めやらない私は、係の女性をなじるように言って、女性の前に堂々と馬券をかざした。
 「レースが違っています」
 女性に言われて改めて眺めたが、メインレースに間違いないはずだ。キョトンとしている私に女性は言った。
 「本日のメインレースは10レースで11レースではありません」
 馬券を見ると11レースになっていた。通常、メインレースは11レースがほとんどなので、購入する時、うっかりと11の数字に記しを付けてしまったようだ。
 膝から崩れ落ちる私に、係の女性は冷たく言い放った。
 「そこで座り込まれると他のお客様の迷惑になります。あちらの隅でいくらでも泣いてください」
 放心状態の私を追いかけてきた友人が、
 「よかったな。ほんま、うらやましい。奢れよ」
 と私の体をつついて言う。私は言葉もなく、友人に馬券をかざす。
 「払い戻ししなかったのか? どうして――」
 友人の質問に答える気力さえなくなっていた私は、その馬券を友人に手渡し、
 「よかったらあげるよ」
 と言うと、友人は狂喜乱舞して、
 「ほんまにええんか。もらうで、もらうで」
 と叫びながらウインズの中へ駈け込んで行った。
 
 それ以来、ずっと競馬を封印してきた私だが、三年ぶりに競馬に挑戦したくなって再び日本橋のウインズに向かった。秋のG1レースである。メインレースが11レースであることを確認した私は、新聞の予想欄を眺めて思い悩んだ。各種のスポーツ紙を見ると、どの新聞も本命、対向と同じ馬に記しが付いている。それだけ強い馬なのだとわかったが、決断が付かない。
 「難しいですなあ、今日のレース」
 隣で競馬情報紙を眺めていた老人がひとり言のように言う。八十過ぎだろうか、痩せた小柄な老人は、ボソボソとつぶやきながら、その後も競馬紙とにらめっこをしている。
 「うん、やっぱり、これやな」
 老人の予想した馬を盗み見して私は思わず笑い出しそうになってしまった。老人の選んだ馬は18番人気、最低人気の馬だったからだ。
 G1レースということもあって、錚々たるメンバーが顔を揃えている。実績も全レースの成績も申し分のない馬たちばかりだ。中でも本命に押されている馬は傑出した名馬として評判の高い馬だ。ここまで連戦連勝の成績を残して今日のレースに挑んでいる。
 「その馬で行くのですか?」
 と私が声をかけると、老人は、「ええ」と言って首を振り、
 「単勝に一万円賭けます」
 と言う。
 「一万円も!?」
 驚く私に、老人は、
 「あなたも賭けなさったらどうですか? この馬、狙い目ですよ」
 確かに1着になれば高配当間違いなしだが、お金をドブに捨てるようなものだと思った私は、
 「単勝なら、めっちゃ強い馬があるでしょ。あの馬で決まりじゃないですか」
 と老人に忠告をした。
 「あの馬はだめです。今日は多分7着か8着がいいところでしょう。2着は3番人気の馬です。ちなみに3着は5番人気の馬が来ます」
 断定的な言い方が気になって、老人に尋ねた。
 「その自信はどこからきているのですか?」
 老人は苦笑して、
 「霊感です」
 と一言で言った。
 「霊感?」
 私が問い直すと、老人は、私を見つめて言った。
 「死期が近づきますと、不思議なもので今まで見えなかったものが見えてきますのじゃ。私の予想も昨日まで決めていたものと、今日、ここで画面の上でのことじゃが、パドックを見て、急に変わった。霊感が働いたんじゃ」
 私は笑って、「すごいですね。霊感ですか」と軽く流した。
 霊感とは、一般的に神や仏が乗り移ったようになる超自然的な感覚を言う。直感的に認知される心的状態であるとされるのだが、競馬の予想に霊感が働くなどにわかには信じがたい。
 「あなたも私の言った馬券を買われたらどうですか? 当たれば超大穴ですよ」
 と番号を指し示して去って行った。
 錚々たる名馬を押しのけて18番人気が1着になるなど信じられなかった私は、老人の忠告を無視して、人気馬を中心とした馬券を買った。
 レース番号が間違っていないか、馬番を間違えていないか、慎重に確認して馬券を購入した私は、今回は前回のように居酒屋ではなく、ウインズで見届けようと思い、ウインズの場内にある大画面に注目した。
 先ほどの老人は、どこへ行ったのか近くには見当たらない。ウインズに集まる人の熱気が増して、メインレースがスタートした。
 各馬がスタートした瞬間、私の中に、老人の言う通り馬券を買っておくべきではなかったかと、その時になって、ふと後悔の念が顔を覗かせた。
 「死期が近づくと、今まで見えなかったものが見えてくる――」、老人の言葉が思い浮かんだ。疑心暗鬼に駆られながら、それでもまだその時は、老人の霊感を完全に信じているわけではなかった。
 1800メートル、ダートを走るレースは白熱した展開を見せた。本命の人気馬は早々と先行し、他の馬を3馬身近く引き離した。やはりな、とその展開を見た私は一人納得していた。予想紙のレース展開予想でも、本命馬が先行してそのままゴールへ突入すると、どの新聞にも書かれていた。1着は決まっている、問題は2着、3着だと、判で押したように各紙に書かれた予想記事を読み、私も今回ばかりは仕方がない、そう思いながら本命に近い予想を立てて馬券を購入していた。
 第3コーナーを回ったところで、後続の馬が本命馬に追いついた。しかし、この時点でもまだ、本命馬の1位通過を誰もが信じていただろう。だが、第4コーナーを回ったところで、本命馬が著しく失速し、後続の馬に次々と抜かれて行った。会場内からは悲鳴に似た叫び声が上がる。
 半馬身差を付けてゴールしたのは、老人が単勝一万円で予想した、18番人気の馬だった。
 2着に入ったのは3番人気の馬、首の差で5番人気の馬が入った。
老人の予想した通りだった。本命馬は7着でゴールインした。
 霊感――。老人が霊感に従って立てた予想は当たっていた。超大穴である。最低人気の馬が1着なのだ。しかも、2着、3着も3番、5番人気、多分途方もない金額になるだろう。老人の言いつけに従えばよかった。すべては後の祭りである。金額を知らせる場内放送に会場が大きくざわめいたが、私は聞く気にもなれず足早にウインズを後にした。
 翌週日曜日、私は再び日本橋のウインズに向かった。この日もメインでG1レースがあった。私は先週の老人に会えないかと思い、会場内を探索した。だが、老人はどこにもいなかった。
 先週、無念にもせっかくの幸運を逃してしまった。その悔いが一週間、ずっと残り、超大穴を二度も逃した不運に嘆き悲しんで一週間を過ごしてきた。今度こそ、幸運をこの手で掴み取りたい。そう思って予想を立ててきた。だが、今回のレースもまた絶対的な本命馬が2頭おり、勝負の決着はその2頭が1、2位を分けると予想されていた。
 予想紙を読むと、「この馬しかない」。そう思えてくるから不思議で、私もまた、新聞が示す予想通りに馬券を購入しようと考えていた。
 ギャンブルは、どんなに研究をしてもその通り運ぶとは限らないから面白い。運不運に左右されることが多く、ついている時は何をやってもうまく行くが、ついてない時は何をやっても駄目というのは周知の事実だ。その日、私は、起きがけにたまたまテレビの星占いを見て、私の星座が1位だったことに気を良くしていた。家を出て、電車に乗る際も、間に合わない、無理だと思っていた電車にうまく乗ることができた。日本橋近くの喫茶店でモーニングを食べようと思って寄ると、ドアを開けて入るなり、「おめでとうございます!」とクラッカーが数発鳴らされ、店員と店長が揃って大声を発したので驚いていると、私がこの店の一〇〇〇人目の客だと言う。特典として、コーヒーが無料、トースト、卵が無料、サラダが付いて、おまけに記念品までいただいてすべて無料だと言う。ついている、改めて私は確信した。今日は絶対勝てる! そう思った。
 気分を良くしてウインズに入った私は、エスカレータで五階のフロアに行き、スポーツ新聞の競馬予想欄を広げて再度、メインレースの予想を立てた。絶対的な力を持つ2頭の勝負、そう思っていた私だったが、馬券を購入しようと思って、一瞬、躊躇した。
 人気馬2頭の配当はきっと安い。それよりも、自分のツキを信じて、再考してみよう、そう思い直した私は、8枠18頭の馬をもう一度、見直した。
先週の老人はいないか、と思い、周囲を見渡した。霊感老人はいなかったが、その老人とよく似た年齢の老人が私の傍に立った。
 老人は競馬専門紙を片手に天井を見上げ、ポツリと一言つぶやいた。
 「今日は6の日だな」と。
 6? 予想紙を見ると、馬番6は、無印の馬だ。人気も最下位に近い方だろう。絶対的な2頭がいるのに、6番の馬が入るなどとても思えなかった。だが、先週の例もある。思い悩んでいるところに、再び老人の声が聞こえた。
 「やはり6だ。6で行くことにしよう」
 そう言い捨てて老人はその場を去った。私は当初の予定を捨て、老人がつぶやいた6を軸に馬券を購入することにした。
 私はこれまで基本的にギャンブルをやらないでここまで来た。パチンコもしなければ麻雀すらせず、およそ賭け事とは縁の遠い生活をしてきた。唯一、競馬だけが例外だったが、その競馬にしても、メインの1レースだけに限り、他のレースには手を出さなかった。
 ギャンブルに手を染めないのは、パチンコ中毒に陥った友人がいたり、博奕に嵌って家や土地、すべての財産を失い、飛んでしまった友人を見てきたこともあるが、それ以上に私にはギャンブルの才能がなかった。子供の頃から、何かを賭けても勝ったためしがない。悉く負けてきた歴史が、私をいつしかギャンブルの世界から遠ざけてしまった。
 競馬に興味を持ったのは、友人に誘われて阪神競馬場に行き、そこでサラブレッドを見てからのことだ。パドックで馬を見た時、私はその美しさに惹かれ、毛並みや艶、目の輝きに心を打たれた。その時は馬券を買っていなかったが、パドックを見て、予想した馬が悉く当たったことで競馬に関心を持ち、G1レースに限って馬券を購入してきた。
 その日、私は6を軸に3連単と馬単、両方を買った。占めて一二〇〇円の出費である。
 ファンファーレが鳴り響き、各馬が一斉にスタートする。大方の予想通り、本命、対向の絶対的な力を持つ2頭が先頭を争って走った。当初の予定ではこの2頭を軸に馬券を買う手はずにしていたが、老人の声を聴いて、2頭を外し、6を軸に馬券を買った。
 馬番6は、最後方を走っていた。先頭を走る馬とは10馬身ほどの差があった。だが、レースはまだ序盤である。何が起こるかわからないのが競馬だ。その言葉を信じて、静かにレースを見守った。
 第4コーナーを回ったところで、6は完全に脱落していた。先頭を走るのは人気の2頭である。そのままゴールになだれ込み、写真判定となったが、私はそれを確認しなかった。私の購入した馬券に関係のない入賞であったからだ。
 私の購入した馬券は、3頭とも最後尾を走り、ゆっくりとゴールを切って、無残な結果に終わった。
 
 翌日の新聞のレース結果を見て、老人がつぶやいた6の意味がわかった気がした。老人は馬番の6ではなく、6枠のことを言っていたのだ。その通り、ゴールを切ったのは6枠2頭の馬であった。
 なぜ、そのことに気付かなかったのか、後で悔やんだがもう遅い。一度ならず二度までも幸運を逃してしまった私は、その時を境に競馬と決別した。
死期を悟った者は霊感が強くなる――、以前、超大穴を当てた老人の言葉がふと思い出し、気になり始めたのは、競馬をやめて半年後のことだ。
 本当にそうなのだろうかと気になり始め、さまざまな文献を探してみたがそういった記述は一切見られなかった。あれは、あの老人だけの感覚だったのだろうか、そう考えて納得しようと思ったが、一度気になり始めると収まりがつかない。私は再びウインズに足を運んだ。
 競馬の愛好者には意外と老人が多い。ウインズに行くと老人たちの姿がやたらと目に付く。私は、高年齢の老人に的を絞って、その老人の傍に立って話しかけた。
 「今日のメインレースはどうですか?」
 だが、応えてくれる老人は少なかった。知らぬ顔をして場所を移動し、話し相手になってくれない人がほとんどだった。数人目でようやく応えてくれた老人がいた。立っているのがやっとといった様子の老人は、私の問いに笑顔で応えてくれた。
 「今日は荒れるよ。多分、本命は飛ぶじゃろう」
 「どうしてですか? 天候の影響ですか?」
 「いや、天候のせいではなくて、わしの勘じゃよ」
 「勘?」
 「ああ、そうじゃ。年がいって高齢になると勘が冴えて来てな。何となくわかることがある」
 「霊感というものですか?」
 「そうかも知れん。高齢になると、欲も得もなくなって神様のような境地に立ってしまうことがある。そんな時、今まで見えなかったものが見えてくる、ちょっと大げさかも知れないが、わしの実感じゃよ」
その老人が予想したメインレースの番号を控え、礼を言ってその場を辞した。
 メインレースを待つ間、場内をウロウロしていて、友人と顔を合わせた。
 「珍しいなあ、競馬をやめたんじゃなかったのか」
 「やめたんだけど、ちょっと用があって……。それより、今日の調子はどうだ?」
 「黒星続きでどうしようもない。今日のメインレースに外れたら、俺もしばらく引退するよ」
 「それなら、この3連単を買ってみないか? 当たるかも知れないぞ」
と言って、私は老人が予想したメインレースの番号を友人に教えた。
 「本命を外しているな。確かにこれが入ったら大きい。万馬券間違いなしだ」
 友人の喜ぶ様子を見た私は、
 「絶対買えよ」
 と念を押した。
 「わかった」
 馬券を買いに行く友人と別れた私は、メインレースを観戦するために、大画面のテレビの前に移動した。
老 人すべてに霊感があるとは思えなかったが、高齢の老人には、何か特殊な能力、霊的な力が兼ね備わっているのかも知れない。今日のレースはそれを確かめるためのものだった。
 老人は、本命馬を外し、4番人気の馬が1着、10番人気が2着、3番人気が3着と予想していた。私の目から見ても、当選するとは思えないような予想だった。しかし、当たれば大きい。
 ファンファーレと共にスタートが告げられると、私の周りは人で一杯になった。先ほどの老人の姿はどこにも見えない。二階から五階までの会場である。フロアを移して観戦しているのかも知れない。
 先頭を切ったのは、老人が予想した10番人気の馬だった。先行場でもない馬の走りにざわめきが起きる。すぐに捕まると思われた10番人気の馬は、その後も先頭を快走した。その衰えない脚力に、観客はさらにざわめく。本命の馬は、馬群の中で抜け出せずに苦労している。間隙を縫って、2着に躍り出たのが4番人気の馬である。その後を数頭の馬が足音を高くして追いかける。騎手の鞭が飛び、ゴール直前で2着だった馬が先頭の馬を抑えてゴールインする。2着はそれまで先頭を走っていた10番人気の馬である。3着は写真判定、画面を見ただけでは見当が付かなかった。それほど多くの馬がほぼ同時にゴールになだれ込んだ。
 老人が3着に予想した馬もその馬群の中にあった。それを見て私は、友人を探した。もしかしたら3連単が的中しているかも知れない。そう思ったからだ。
 友人は三階フロアのテレビの前にいた。
 「よかったな。まだ3着が確定していないけど、当たっている可能性は高いぞ」
 声をかけると、友人は泣きそうな顔をして私を見る。
 「どうしたんだ。買ったんだろ」
 その時、着順が掲示版で発表された。老人の予想通りの着順、3連単の大当たりである。万馬券は間違いないところだ。
 「よかったなあ」
 友人の肩を叩くが返事がない。しょげた顔で私を見ると、
 「買おうと思ったんだが、やめたんだ。当たるはずがない。そう思ったから……」
 がっくりと肩を落とした。
 それを見て、私はふと自らの体験を思い出した。私もまた、老人の言葉を信じられず、みすみす超大穴を逃した経験が二度もある。一度目は友人と同様に、教えてくれた番号を無視し、二度目は、老人に確かめることなく、枠ではなく馬番を買って全滅した。
 信じる力もまたギャンブルには必要不可欠なものだ。幸運を逃すのも得るのも本人の力次第だとその時思った。私にも友人にもその力がなかっただけのことなのだ。
 高齢の老人、死期が近づくと霊感が強くなる――。その言葉が実証できたかどうかはともかくとして、ギャンブルには向き不向きの人間がいるということだけはよくわかった。私もその一人で、友人もまたそうだ。
 その日を限りに私はウインズに行くことさえやめた。私の友人は相変わらず競馬新聞を片手に持ち、足しげくウインズに通い詰めている。その勝敗の度合いはわからないが、友人は競馬が終わるたびに肩を落として私の事務所に立ち寄る。出て来る言葉は「惜しい、もうちょっとだったのに」ばかりだ。慰める言葉すらなく、私は友人に早く高齢者になれ、そうしたら霊感が働いて勝てるかも知れない。心の中でそう思い続けている。
〈了〉

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