自叙伝の功罪

高瀬 甚太

 晩秋の、コートを必要とするほど寒い日のことだった。編集の追い込みで多忙を極めた午前が過ぎ、ようやく一息ついた午後、事務所に一人の老人がやって来た。山高帽をかぶり、紳士然としたその老人は、事務所のドアを開けると、礼儀正しく腰を二つに折った。部屋の中に誘うと、ゆっくりとした足取りで中に入り、私の勧める椅子に腰を下ろした。
 「私の人生を本にしたいのですが――」
 老人は、開口一番、そう言った。
 「自叙伝の制作ですか?」
 と改めて尋ねると、老人は「そうです」と答えた。
 自叙伝の制作は、私たち弱小出版社にとってありがたい仕事の一つだ。本来の出版物は、売れなければ大赤字を喰らうが、自叙伝の制作は、よほどのことがない限り、損をすることはない。制作費すべてを依頼者が支払い、おまけに過分な利益までもらえるのだ。
 ただ、時として異常に時間がかかることがあり、依頼者に右往左往させられることが少なくない。そのため、仕事を受けるとまず金額を決め、了解を得た後、スケジュールを決める。通常、私は三カ月を目途に本を作る。普通に作業をすれば、ほとんど三カ月以内で完成することができる。依頼者の多くは、そんな短期間で本ができるのかと驚くが、私は、協力していただければ大丈夫です、と常に答える。依頼者もその時はそれで了解するのだが、いざ、作業を開始すると、三カ月以上かかってしまうことがほとんどだった。
 理由は、依頼者のわがままな理由によることが多い。自叙伝の依頼者は高齢者が大半で、記述した原稿を読むのに時間がかかり、こちらに戻ってくるまで時間がかかる。ひどい時には、一度、納得した原稿を土壇場になってひっくり返すことも少なからずある。おまけに追加する内容がどんどん増えて収拾のつかない状態になってしまうことも多々あった。後はこちらの根気の問題だ。いい加減にして欲しいと、依頼者に向かって短気を起こすと余計に遅れ、最悪の場合は何の保証もないまま、キャンセルされてしまうことだってある。
 そんなわけで自費出版を受ける時は相手をよく見て受けなければならない。来訪した老人に私は説明をした。
 「二、三、お尋ねさせていただいてよろしいですか?」
 気難しそうであったり、わがままなタイプであれば断ろうと思った。質問すれば、ある程度の性格はわかる。
 「どういった理由で自叙伝を作られるのですか?」
 老人は厳然とした態度で答えた。
 「私の人生を残しておきたい。そう思ったからです」
 「いつまでに作りたいといった希望はありますか?」
 「特に決めていませんが、できれば三カ月以内にと思っております」
 「制作について、ご協力していただくことが多々あります。その点は大丈夫でしょうか?」
 「大丈夫です」
 胸を張って答える老人を見て、少し安心した。
 「金銭的な問題ですが、自費出版の制作は高額な費用がかかります。制作する場合は、見積金額の半額をスタート時に支払い、残りの半分を完成時に支払う。そのようになっていますが。大丈夫でしょうか?」
 「お金ならいつでもおっしゃってください。大丈夫です」
 と、明るく笑って言った。私の安心感はさらに高まった。
 「大雑把にあなたの人生を語っていただくことはできますか?」
 「七十五年の人生を一口では語れませんが、長年、商社で過ごした私の人生を中心に本にして残したいと思っています。完成したら、それを商社の新人たちに配って読んでもらいたい。そう思っています」
 しっかりと筋の通った話し方をする人だ、この人なら大丈夫だろう。そう確信した私は、自叙伝の仕事を進めることにした。
 おおよその金額を伝え、日を改めて、契約書と見積書をお渡しすると約束し、老人の名刺を預かってその日は別れた。名刺には、『兼六産業株式会社会長 松岡雄平』と書かれていた。
 三日後、私は兼六産業に電話をした。兼六産業の場所は、大阪市中央区本町にあった。連絡が付けば、すぐにでも伺って話を決めようと思ったが、呼び出し音は鳴るものの誰も電話に出ない。携帯電話ならともかく、会社の電話に誰も出ないことが気になって、会社に行ってみようかと考えた。
 しかし、その日は用が重なって時間が取れず、明日にでも電話をして、その上で再び電話がつながらないようであれば、行ってみようと思っていたところ、松岡老人から電話がかかってきた。
 ――先日は失礼いたしました。その後、どうでしょうか?
 ――これはどうもわざわざ申し訳ありません。本日、会社の方へ電話をさせていただいたのですが、どなたも出られなくて。
 ――失礼しました。実は今日、会社は終日、休みにしていまして。申し訳ありませんでした。
 ――いえ、先日の見積もりとスケジュール、それに契約書をお渡ししたいと思いまして本日、連絡させていただきました。今日のご予定はどんな感じでしょうか?
 ――今日、これからですね。ちょっと待ってください。調べてみます。今日は何もありません。よかったら私の方からお伺いしましょうか?
 ――そう願えれば有難い。
 ――では、お伺いします。
 電話が切れ、会社に電話をして、少し安堵した。電話がつながらなかったことで、少々不安になっていたからだ。
 松岡老人は、30分ほどでやって来た。昨日と同様に仕立てのいいスーツを着こなし、隙のないスタイルで私の前に立った。八十近い年齢のはずだが、矍鑠としたその姿勢は年齢を感じさせないものがあった。
私は、見積書と契約書、スケジュールを松岡老人に提出し、松岡老人の意見を伺った。
 松岡老人は丁寧にそれを眺め、満足したような笑顔を浮かべて答えた。
 「これで結構です。すすめてください」
 契約書に押印した松岡老人は、半額代金の支払いをいつ振り込めばいいか聞いてきた。「できるだけ早くお振込みいただければ、それだけ早く活動できます」
 と答えると、松岡老人は、
 「一週間以内に振り込みましょう」
 と言い、極楽出版の口座番号を手帳に手早く控えた。
 「自叙伝を書いていただくにあたって、少しお話させていただいてよろしいですかな」
 松岡老人の申し出に、私は快く応じた。気を良くした老人は、静かな口調で自分の人生を語り始めた。
 
 ――昭和十二年八月、和歌山市で生を受けました。三歳上の兄が一人と二歳下の妹が一人、父親は小学校の教員をしていて、母親も同様に小学校の教員をしておりました。
 両親が教員だからということもなかったでしょうが、幼児の頃から非常に戒律の厳しい家庭に育ちました。朝は午前6時起床、朝食の前に家族全員で5キロのマラソン、朝食時は私語禁止、一言でも喋ると箸が飛んできました。三歳の年に戦争が始まり、父親も戦地へ召集されましたが、足をやられて一年もしないうちに家へ戻って来ました。父親がいたことで、戦時中も、規律の厳しい生活に変わりがなく、むしろ厳しくなったほどです。父親は、早く大きくなって、自分の代わりに戦地へ行って活躍するようにと口癖のように言っていました。愛国心の強かった父は、足の怪我のために戦えなくなったことを恥じていたようです。終戦後、小学校に入学した私は、教壇に復帰した父母にかなり厳しく鍛え上げられました。予習、復習は言うに及ばず、父母の作る問題に毎日のように取り組んでいたのです。遊ぶ時間など、ほとんどありませんでした。
 兄も妹も優秀でしたが、私はそうではありませんでした。兄は中学を卒業すると私立の名門高校に入学しますが、私は受験して不合格になり、県立高校に進学しました。大学も兄は大阪にある国立大学に進学しますが、私は一浪した末、関西の二流の私大に進学しました。両親は、この頃になると、私を完全に見放し、あまりうるさく言わなくなりました。
 おかげで私は自由な高校、大学生活を享受することができました。大学に入ってからは特にそうです。寮に入ったこともあり、自由で伸び伸びした青春時代を過ごすことができました。
 兄は、大学途中に学生運動に加担し、過激な行動が災いして警察に逮捕され、大学を退学することになります。両親は嘆き悲しみ、兄の行く末を案じましたが、兄はそのまま東京へ出て行方知れずになりました。
 大学を卒業した私は、大阪の小さな商社に就職し、そこで働くことになりました。商社とはいっても、外国の食料品を取り扱う会社で、従業員が十人もいない、零細企業です。ただ、高度経済成長期のまっただ中ということもあって、外国の食料品はよく売れました。スーパーが林立し、そこへ卸すわけですから、業績は当然アップします。従業員十人の会社は、たちまち五十人規模にまで拡大し、発展しました。
 私も海外へ出張することが多くなり、その先で、大手の商社員たちと親しく話すことが多くなりました。七年ほど働いたところで、大手商社の部長に声をかけられました。「うちの会社に来ないか」と誘われたのです。実戦で鍛えた私の業績をその部長は高く評価してくれたようで、かなりの好条件でスカウトされました。断る理由などなかった私は、大手に中途入社し、期待 に応えて業績アップに尽力しました。
 輸入先、輸出先の現地の状況を把握し、実態を踏まえたビジネスを行うことで、自然に業績がアップするのですが、他の社員たちは、現地を単なる買付先、買い取り先としてしか捉えておらず、一日も早く本社に戻りたい、その一心で、腰を据えた営業などしていませんから、どうしても失敗が多くなります。その点、私は、彼らのようなエリートではありませんから、現地にずっといてもいいんだ、常にそんな気持ちで取り組みました。現地に馴染み、現地の人たちとも親しくなり、さまざまな情報を得られることができたことで飛躍的に業績がアップしました。
 中途入社して、五年したところで、係長待遇になり、七年もすれば課長になっていました。異例の出世です。業績を認められた私は、十年目に、アマゾン奥地に建てられた大手電器会社に社長として赴任するよう、出向命令を受けました。その電器会社は、家電製品を製作し、南アメリカ、アメリカなどへ販売していたのですが、現地の従業員の反発などで、製作が遅延し、業績が悪化していると説明を受けました。同時に、販売も停滞し、他国の製品に押されて売上が大幅に減少し、資本提携している大手商社へ協力の要請が来て、私がその役割を担うことになったのです。
 大役を引き受けることになった私は、ずいぶん悩みました。経営など自分にできるとは思わなかったし、その器ではないと思っていました。しかも、売上、稼働、共に激減している会社です。私が行ったところでどうにかなるわけはずもない。その思いがありました。
 しかし、会社の執行部が決めたことに逆らえば退職するしかありません。熟考し、悩みに悩んだ末、引き受けることにしました。
 その年の春、私はブラジルへ向かい、アマゾンの奥地に作られた、従業員一〇〇〇人余の会社の社長として赴任しました。
 日本人は一〇〇人ほどいましたが、彼らは私をあまり歓迎していませんでした。それはそうでしょう。電器事業に何の知識も実績もない、商社の課長がいきなり社長になって赴任したのです。面白いはずがありません。彼らのほとんどが私を無視し、社長として認めないといった態度を取りました。
 私は、私を無視する日本人の現地社員を頼らず、現地のブラジル従業員の中で、これはと思う人物を引っ張り出して、その者に私の手助けをするよう申し伝えました。
 それが幸いしたのでしょうか。それまで、会社のやり方に反発していた現地の工場労働者たちが率先して協力してくれるようになりました。現地の労働者たちが不満を抱いていた最大の原因は、自分たちを機械の一部分のように扱う管理者に対する怒りが根底にありました。声をかけ、話しかけ、身近に接すると、労働者たちの意識が予想以上に変わり、熱心に働くようになりました。私が現地の労働者を登用し、管理部門に抜擢していたことで、自分にもチャンスがあると思うようになったことも大きかったようです。
 現地人を採用し、製造販売に着手したことで、販売ネットが大きく広がり、売上が加速度的に伸びました。慌てたのは、日本人管理者たちです。私が来たことで販売が促進され、製造が問題なく行われるようになったわけですから、本社へ言い訳が立ちません。何度か私の追い落としを謀り、暗躍しましたが、現地人を味方に付けた私には手が出せず、首謀者の何人かは本社に呼び戻され、冷や飯を食わされる羽目に陥りました。
 年に一度ぐらいしか帰国できず、日本に残してきた家族に会う機会が少ないまま六年が経ったところで、本社から帰国命令が出ました。ブラジルの会社の方は、誰が社長になってもやっていける状態になっていましたし、製造も順調で、売り上げも伸びる一方でしたから何の問題もありませんでした。
帰国し、家に戻った私は、荒廃した家庭に愕然としました。妻は極度のアル中になっており、息子は高校を中退してフリーター、中学生の娘は、先生を悩ませる問題児となって幾度かの補導歴がありました。
 本社に戻ったものの、ブラジルでの実績が正当に評価されず、子会社への出向を命じられるありさまです。岡山市にある従業員一〇〇人の中小企業の社長、それが私に与えられた新しい任務でした。まるで左遷のような扱いに、周囲の者は怒りましたが、私は、むしろこれでよかった、と思いました。
 家族再生のためには、新しい土地に移るのが一番だと思ったからです。幸い、移転する家屋は、岡山市内の風光明媚な場所にありました。
 アル中の妻、フリーターの息子、問題児の娘を連れて引っ越した私は、今度は家庭の再生に力を入れました。
 岡山市という土地柄もよかったのでしょう。妻のアル中は時間の経過と共に回復に向かい、息子も新しい土地に移り住んだために心機一転、フリーターから料理の道に進むようになり、市内のホテルのレストランで修業を始めました。問題児の娘は、当初、学校に通うことを嫌がっていましたが、登校初日に友だちが出来たことで様子が変わり、以前とは180度転換した生徒になって真面目に学校へ通うようになりました。
 仕事の方は常務と部長がしっかりやっていてくれたので、私は印鑑を押すだけの存在。以前と比べてかなり自由になり、好きなゴルフと釣りに精を出す日々を過ごしていました。
 しかし、安穏とした日々を過ごすのに抵抗があった私は、定年を前にして会社を退職し、新しい会社を興すことにしました。
 その頃には、息子はホテルでチーフを任されるほどの料理人になっており独立、結婚して子供も誕生していましたし、娘も高校を卒業して、大阪の短大に通い、アルバイト先で知り合った男性と結婚し、今は二人の子供を抱える主婦になっていました。
 私は妻と二人で岡山を離れ、再び大阪へ移住し、東住吉区に住んで、本町のビルの一室を借りて、『兼六産業株式会社』を立ち上げました――。
 
 松岡老人は、自分の人生のあらましをざっと語り、私の人生の中で最高のエポックともいえるブラジルでの奮闘を軸に自叙伝にまとめてほしい、と言った。
 「素晴らしいと思います。現地に同化して、現地人と共生する、とても大切なことだと感じました。それに常に驕らず気取らず生きる松岡さんの生き方が素晴らしいと思います」
 それはお世辞ではなく私の本音だった。
 「ところで行方不明だったお兄さんはその後、どうなりましたか?」
思い出したかのように私が聞くと、松岡老人は、
 「一緒に働いております」と
 と言った。
 「『兼六産業株式会社』の社員ですか?」
 「はい。そうです」
 と笑った。
 松岡老人の人生に共鳴した私は、すぐにでも原稿を起こしてみたい衝動に駆られ、通常は前金の振り込みがあってから書きはじめるものを、松岡老人を見送った後、すぐさま原稿を書きはじめた。
 
 三日ほどして、私は原稿の大半を書き終えていた。しかし、松岡老人からの振り込みはまだなかった。催促するつもりはなかったが、取り急ぎ書いた原稿を見ていただこうと思い、松岡の会社を訪ねることにした。あえて電話をせずに向かったのは、前金の催促と勘違いさせないためだった。
 松岡老人の経営する兼六産業株式会社は、本町のミゾロビルディングの五階にあると名刺に記されていた。そのビルは中央線の本町駅から近い場所にあった。十五階建ての錚々たる建物である。
 入口に、各階のテナント名が表示されており、五階に兼六産業株式会社の名称があった。エレベータで五階へ昇った私は、五階フロアに八室ある中の一番奥まった場所に迷うことなく向かった。入口の名称を確認してドアを叩くと、女性が現れた。
 「松岡社長はいらっしゃいますか」
 尋ねると、女性は、
 「もうすぐ帰ってまいります。お待ちになりますか」
 と聞く。私は事情を話し、
 「三日前においでいただき、原稿の一部ができたのでお届けに上がりました」
 と伝えた。
 「原稿ですか――?」
 と一瞬、怪訝な表情を見せたが、それでも私を事務所の中の応接室へ通し、お茶を出してくれた。
 応接間に入ると、ブラジルの写真が目に付いた。アマゾン川を行く船やアマゾンの秘境、そして、ブラジルの市街地とサンバの風景――。国旗までもが部屋の中に飾られていた。
 松岡老人が語っていた言葉を思い出した。
 「私の人生の中で最高のエポックともいえるブラジルでの奮闘を軸に自叙伝にまとめてほしい」
 松岡老人のブラジルに対する愛情がひしひしと伝わってくるような応接間の風景だった。
 15分ほど経っただろうか。ドアがトントンとノックされ、一人の男性が入って来た。松岡老人と見間違うような、よく似た顔立ちの老人は、私を見ると、首を傾げ、
 「井森さんとお聴きしましたが、私とは初対面ですよね。どのようなご用件でいらっしゃいましたか?」
 と聞いた。
 「私、出版社をやっていまして、三日ほど前、松岡社長がわが社へ来られた時、自叙伝を頼まれました。原稿の一部ができたので、お届けに上がりました」
 「松岡社長?」
 「ええ、そうです。その時、ブラジルの話もお聴きしています。こちらへ来て、改めて、社長のブラジルへの熱い思いに感激した次第です」
 松岡老人とよく似た顔立ちの老人は、しばらく黙した後、ポツリと私に言った。
 「松岡社長は私ですが――」
 「えっ!」
 私は絶句した。
 「それじゃ、私の事務所を訪れた方は――?」
 松岡社長からもらった名刺を差し出すと、老人は、それを眺めて、
 「弟です」
 と言葉少なに言った。
 「弟? では、あなたがお兄さんでいらっしゃいますか? 大学時代に学生運動にのめり込み、退学になって行方不明になったと、そして、今は会社を手伝ってもらっていると――」
 「弟は、商社の話とブラジルの電器企業の話もしたでしょう?」
 「ええ、お聴きしました。一体どういうことでしょうか」
 私の頭は混乱していた。わけがわからない――。
 「弟の話を聞いて書いたという原稿を見せていただけませんか」
 用意しておいた原稿を手渡すと、老人はそれを読み始め、途中、何度かため息を漏らした。
 「井森さんでしたか。申し訳ありませんね。井森さんが書いたこの内容のほとんどが私のことです。悪気があったわけではありません。弟は、数年前に悪性のガンで非常に危険な状態に陥りました、その時、医師から、ドイツの新薬を試してみたら、もしかしたら助かるかも知れないと言われまして、投薬してもらうことにしました。弟のガンにドイツの新薬は劇的な効果をもたらしましたが、命こそ取り留めたものの薬の副作用からか、認知症からくる健忘症となり、同時に虚言癖が顔を出すようになりました。ここに書かれている内容にそれが如実に表れています。私の両親は教師でもないし、私たちには妹はおりません。弟は大学に行っていないし、私も大学こそ出ましたが、学生運動には加担していません」
 虚言癖、認知症からくる健忘症――。話し方も本人の様子からも、そんな影は微塵にも感じられなかったし、私には普通の、ごく正常な人間としか見えなかった。
 「とてもそんな様子は微塵も感じられませんでした。話し方もしっかりしていましたし、聞いている限り、疑う要素など何もなく、ごく正常な人間のように見えました」
 「他人にはまずわからないと思います。これは弟の家族か肉親だけにしか見破れないことです」
 松岡老人の兄はそう語ると、弟の人生の、私が聞いた話と違う部分について語り始めた。
 
 ――私と弟は三つ違いの兄弟で、私の家は先祖伝来の農家です。私たちは仲の良い兄弟でした。弟は性格のやさしい大人しい男で、病弱なために両親はその将来を危惧していました。私は幸運にも大学を卒業しましたが、それほどいい大学を出たわけではありません。弟は病気がちなこともあって高校卒業で学業を終えました。
 大学を出て貿易会社に入社したのは私の方です。スカウトされて大手の商社に勤務するようになり、業績を上げてブラジルの日本企業に赴任したのも私です。ただ、社長として赴任したわけではありません。臨時の指導員として赴任しました。ただ、現地の人たちと交流を深め、それが起因となって業績が大幅にアップしたことは間違いありません。ただ、そのことが現地の日本人社員や管理者に疎まれ、三年で日本に戻されました。
 帰国した後、派閥などの絡みで会社勤務が嫌になり、退職して現在のこの会社を立ち上げました。それが私の人生で、弟は、自分の人生と私の人生とすり替えてあなたに語ったようです。しかも、かなり脚色を施して――。
 
 では、本当の松岡老人の人生はどうだったのか。私は松岡の兄にそれを聞いてみた。
 「高校を卒業した弟は、公務員になりました。岡山の市役所に勤務するようになり、二十四歳の年に見合い結婚をし、一男一女を設け、ごく平凡に定年まで過ごしました。夫婦仲が良く、子供たちも真面目でいい子たちばかりです。孫も三人出来て幸せな老後を過ごしていました。ところが、ガンでドイツの新薬を使用するまでと、使用して命を救われた後では、180度転換したと思えるほど変わりました。認知症が災いして健忘症が激しくなり、それに平行して虚言癖が顔を出しました。弟は昔から私に憧れていたところがあって、同時に私に負けたくないと思う気持ちも心の底にあったようです。それが、弟の語る物語に如実に表れています。平凡で波風のない人生を生きてきた弟が歩みたかった人生があなたに語った中にあるのだと思います。  ――弟を責めないでやってほしい。お金が必要であれば、ご用意します」
 松岡の兄の申し出を丁重にお断りした私は、放心した状態のまま、兼六産業株式会社を後にした。あれは本当に嘘だったのか、どのように考えてもそうは思えない真実の語りが松岡老人の語りにあったような気がして、松岡の兄の話を聞いた後も、しばらく、それは消えなかった。
 まっすぐに自分を見つめる目、嬉々として語る松岡老人の話には何のブレも感じられなかった。
 翌日もその翌日も当然のように松岡老人からの振り込みはなかった。もちろんあれ以来、連絡もない。月末の支払いを前にして私は、少し残念な思いを抱きながら、松岡老人に聞いた話をパソコンから削除した。
 今でもドアをノックする音を聞くたびに、松岡老人ではないかと思い、ドキンと胸を鳴らすことがある。
〈了〉

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