秘境の温泉宿殺人事件 後編

 翌日、午前8時半。佐川警部が宿に到着した。三名の警官が同行し、パトカーは二台だった。
 女将が疲れた表情で佐川警部を迎えた。9時から事情聴取の予定だったが、山本を除く五名が顔を揃えていた。
 「山本さんはどうしたのかしら?」
 女将が仲居に尋ね、一人の仲居が山本の部屋へ向かった。その仲居を見た時、はっとした。こちらへ来る時、一緒に乗り合わせた仲居だったからだ。宿に入ってその仲居の顔を見るのは今日が始めてで、仲居ではなかったのかと今まで不思議に思っていた。
 宿の従業員は全部で十五名、そのうち仲居が十名、フロント、事務担当が三人、その他、裏方として二人の男がいた。そのうちの一人が湖に向かう時、出会った若い男と知ったのは今朝のことだった。
 「キャー!」
 二階から叫び声が聞こえ、佐川警部が立ち上がった。女将が二階へ向かおうとするのを警部が止め、警官二人を同行して二階へ走った。
 二階の奥まった部屋のドアが開け放されていた、急いでその部屋に飛び込んだ警部は一瞬目を疑った。腰を抜かした格好で蹲る仲居の目の前に山本が泡を吹いて横たわっていたからだ。
 明らかに死体とわかるその様子に、佐川警部は携帯電話を取り出し、急いで鑑識を呼んだ。死体の様子から見て毒殺の可能性が高かった。
 事件はさらに深刻になった。二人の死者が出たのだ。宿に滞在する六人の容疑はさらに深まった。
 今回も白野の事件と同様に青酸カリが用いられたことが鑑識の調べでわかった。死体の状況から判断して死亡推定時刻は午前2時前後。どうやら山本はその時間まで起きていて、眠るまえにお茶を口にしたようだ。そのお茶に毒が混入されていた。状況からそう判断された。
 死体が運ばれ、落ち着きを取り戻した宿のロビーで私を含めた六人が再度、佐川警部の聴取を受けた。
 まず質問されたのは、昨夜の全員の様子だった。それぞれ、聴取を受けた後、部屋に戻ったはずだったが、女将と山本だけはそれが確認出来なかった。
 女将は仕事があったので、宿で片付けをしていたらしく、自分の部屋に帰って眠りについたのは午前1時を回っていたという。しかし、それを証明する人間は誰もいなかった。
 山本は聴取を受けた後、一度宿の外に出ている。その理由はわからない。ただ、30分ほどで帰って来て、その後、部屋に戻ったと、仲居の女性が証言した。
 警部は、ロビーに戻ると、改めて六人を集合させ、言った。
 「この事件が解決するまで、君たちを帰すわけには行かない。犯人は間違いなくこの中にいる。私はそう確信している」
 警部の厳しい目が六人をみた。

  私はある確信の元に推理をした。この事件の謎を解く鍵はただ一つ、この温泉宿のリニューアルにあるのではと考え、女将と白野の関係にあると確信した。
 昨夜、生方に私は白野について調査を依頼した。その結果、わかったことがいくつかあった。
 白野孝志は三五歳の時、それまで勤めていた宣伝広告の大手代理店博通を退職して県会議員に立候補した。しかし、その時は今回殺害されたと思われる山本が当選し、白野は次点で落選した。三年後の改選の時、再度立候補した白野は、山本と共に当選を果たし、以来、三期に渡って県会議員を務めている。
 常に金銭スキャンダルがつきまとう山本と違い、白野は清潔でスキャンダルとは縁遠い議員として人気を博していた。それもあって白野は、三期目の終了を待って、政権与党の民自党から国会議員として立候補する予定でいた。
 だが、順風満帆のそんな彼のスキャンダルが一部で噂になった。学生時代の後輩である佐藤洋子との不倫である。白野は否定したが、問題視したのは佐藤洋子の夫だった。
 佐藤洋子の夫は、白野に不倫の責任を問う電話をしつこくしていたらしい。しかも、彼は、それを公にしようと考えていた節がある。彼の目的は金であることは明白だった。
 人妻との不倫が選挙民に知られれば、女性票が圧倒的に多い白野にとって、選挙の命運を左右するどころか、政治家としての命脈を断たれてしまうに等しい。
 佐藤洋子の夫は株の失敗が重なり、多額の借金を重ねていたようだ。それもあって白野に執拗に金を要求した。最初は言いがかりだとはねのけていた白野も、佐藤洋子の夫に不倫の証拠写真を突きつけられては抵抗のしようがなかった。
 秘境の温泉宿で頻繁に落ち合い、愛し合う二人の様子がしっかりと写真に撮られていたことがわかった。白野は仕方なく口止め料として二百万円を佐藤洋子の夫に支払った。
 だが、夫の要求はそれでは収まらなかった。
 その間、佐藤洋子は、夫を何度も説得したようだ。だが、金に追われていた夫は、妻の裏切りを責め立てるあまり、その怒りがDVに転じ、洋子に瀕死の重傷を負わせることも度々あったようだ。
 離婚を決意した佐藤洋子は、夫と別居し、母方の実家に帰った。そうなると、夫はますます凶暴化し、白野を責め立て、新聞に不倫を告発すると息巻くようになった。
 生方の所属する新聞社に佐藤洋子の夫から投書があったのはごく最近のことだという。実態を掴み、確認しようとした段階で、佐藤洋子の夫が突然、兵庫県の山中で交通事故に合い、死亡した。そのため、新聞社は、この件を確認出来ないままお蔵入りとなった。
 それが生方から届いた白野のスキャンダルの顛末だった。
 事件は明らかに白野のスキャンダルに端を発している。白野の死もスキャンダルが遠因のように思われ、不倫の舞台も多分、この温泉宿だったはずだ。
 リニューアル記念パーティーの行われる日を狙っての犯行であったことは疑いない。そう考えると事件の糸口が見えて来た。
 私は、一つの仮定をした。それはこうだ。
 まず、想定される犯人像だが、いくつかのパターンが考えられた。
 佐藤洋子を犯人として仮定した場合はどうか。白野にとって佐藤洋子は大きな獅子身中の虫になっていたはずだ。彼女の存在がスキャンダルの元凶であるわけだから、白野が佐藤洋子を疎ましく思っていたとしても決して不思議ではない。それを察した佐藤洋子が白野を追い詰め、やがてそれが殺意に転化したとしたらどうだろう。それに佐藤洋子の夫の死も、あまりにも都合が良すぎた。そこにも作為を感じてしまう。
 では、後援会長の松中はどうか。これも生方の報告でわかったことだが、松中は、土建屋時代、白野と同郷であり、幼なじみの白野の力を得て、のし上がったということがわかった。
 小さな土建屋から県内でも有数の建設会社へと変貌した松中を支えていた影の力が白野だった。そう考えても不思議ではない事例がいくつにも渡って出てきた。ただ、彼等は巧妙にその事実を隠蔽し、秘密を秘密のままにしてきた。白野にとっても松中から貢がれる資金は魅力だったに違いない。だが、国会議員を嘱望する白野にとって、身辺を浄めておくことは必要不可欠なことだった。そのためにも松中と絶縁しておく必要があった。松中とこのままズブズブの関係を続けていたらそのうちメディアにかぎつけられ、今回の不倫と同様の悪夢になることは間違いなかった。
 しかし、松中はどうか。彼には白野をここまで押し上げたのは自分だという強い思いがあったはずだ。たとえ相応の見返りがあったとしても、それ以上の力を与えてきたと松中は自負していたと思う。だから、白野が自分と絶縁することなど到底許せるわけがない。もし、白野がそう考えていたことを彼が知ったらどうだろう。そこに殺意が生まれても決して不思議ではなかった。
 芝谷由佳は四十代の独身女性だ。保険の外交員をしていて、白野とは保険勧誘で知り合い、ファンになったという。そこには何ら複雑な関係が生じていないように思える。しかも、今回は挨拶しただけと紹介されている。彼女をこの事件から除外してもいいのではないかと私は思った。
 秘書の松坂はどうか。彼には特に動機のようなものがなかった。むしろ白野がいなくなると困る立場だ。彼もまた除外していいだろう。
 死体で発見された山本はどうか。白野とは常に敵対関係にあった。そこには憎悪しか存在しなくても決して不思議ではない。白野が国会議員を志望していたように、山本もまた同様に国会議員への道を考えていたのだろう。ただ、これまで山本は選挙資金を捻出するためにかなりあくどい資金調達をしてきた。過去に、それがスキャンダルとなって一時は県会議員の地位さえ危ぶまれたことがあった。白野がそのことを知らないはずはなかっただろう。同様に山本もまた白野の不倫スキャンダルを知っていた可能性がある。山本と白野の確執が山本の殺意を生み、青酸カリを混入して白野を殺し、自身も自害して果てた。そういったストーリーも十分考えられた。
 女将はどうか。白野が倒れ、絶命寸前の時の女将の姿は異様で、とても客と女将の関係とは思えないほどだった。
 白野がこの温泉宿を頻繁に利用していたことは事実だ。だが、彼は佐藤洋子との不倫のためだけにこの宿を利用したのだろうか。むしろ、女将と会うことが白野にとって、ここを訪れる最大の目的ではなかったのではないか。確かに最初は佐藤洋子との不倫のためにこの宿を利用したのだろう。しかし、夫に見つかって脅迫されるようになってからは佐藤洋子とは会っていなかったはずだ。だが、生方の報告によれば一カ月に三度、四度と利用している。しかもつい最近までそれが続いていたという。生方はそれを佐藤洋子との不倫と思ったようだが、私は、それは違うのではと思った。

  佐川警部は数時間に渡って六人を聴取した。だが、パーティー会場のことゆえ、曖昧模糊として実態が掴めないでいた。
 山本の検死報告が佐川警部の下に届いたのは午前11時のことだった。やはり死因は青酸カリによるもので、白野に使われたと同じ青酸カリが使用されていた。しかし、自殺か他殺かの見極めについては判然としなかった。もし自殺なら遺書が遺されているはずと思い、警部は徹底的に部屋を調べさせたが遺書のようなものは出て来なかった。
 当初、佐川警部は私を疑って身辺調査をしたようだ。その結果、私と白野との接点は何も見つけられず、そのうち、私が出版社の編集長をしていて、こうした事件に深入りしてたまに解決していることを知り、急に友好的になって相談をしかけて来るようになった。それは私にとっても好都合なことだった。私の知らない新情報を得られる機会が増えるからだ。

  急転直下、犯人が逮捕されたのは、それから数時間後のことだった。
 私は、温泉宿の大幅なリニューアルが事件の鍵を握るのではと思い、佐川警部と共に女将を追求した。結果的にそれが事件解決に至るきっかけになった。
 女将は、代々続く古びた秘境の温泉宿を大幅に改装して新しいイメージの宿にしたいと常々考えていた。しかし、実行に移そうにも資金が大幅に不足していた。
 宿自体は昔からの客も多く、この不景気な時代に好調を持続していたが、湯治客や家族連れなどの利用だけではいずれジリ貧になると考え、危機感を募らせていた。
 多くの客を大量に呼び込める宿、多目的に利用出来る宿を模索していた女将は、斬新な企画を設けて自分の代でさらにこの宿を発展させることを考え、建築会社の松中に相談を持ちかけた。
 松中は女将の美貌に惚れ込み、資金調達の道を模索したが、それにはどうしても白野の政治力が必要だった。やがて、白野も参加し、三人で企画を練った。そこへ白野の不倫問題が発覚し、それを清算することの方が先決になった。
 佐藤洋子の夫は執拗に金を要求してきた。一度ならず二度、三度とそれが続いて白野は殺害を計画するようになった。それに加担したのが松中であり女将だった。
 松中も女将も白野が政治家で居続けることによってすべての計画が叶うと信じていた。そこで、妻の佐藤洋子を巻き込んで佐藤洋子の夫の殺人計画を実行することになった。
 交通事故を装った殺人は、思いの外うまくいき、誰も疑う者などいなかった。ただ、問題は、目撃者がいたことだ。

  女将が佐川警部を前にして事件の全貌を語り始めた。
 「交通事故による殺人を考えたのは松中でした。白野が、金を渡すからといって佐藤洋子の夫をこの宿に呼び寄せ、ここへ来る途中、事故死に見せかけて殺しました。あの日、松中は、山間の道で佐藤洋子の夫が車で現れるのを待っていました。予定通り現れた佐藤洋子の夫の乗った車が急カーブに差しかかったところで、松中はスピードを上げて突然、飛び出しました。飛び出て来た車に驚いた佐藤洋子の夫はハンドルを切り損ね、急傾斜の山間に突入しました。そのまま車は転がり落ち、佐藤洋子の夫はあえなく命を落としました。松中がそれを見届けて去ろうとした時、通りかかったのが保険外交員の芝谷でした。彼女はその日、保険セールスの仕事で得意先へ向かっている最中でしたが、事故を目撃し、慌てて車を降りると、携帯電話で助けを呼ぼうとしました。それを止めたのが松中です。救急車を呼ばれて、万が一にでも助け出されると困ります。仕方なく松中は芝谷を言い含めて、目撃しなかったことにしてくれるよう頼みました。芝谷は金の匂いをちらつかされると案外素直に承諾しました。但し、自分も仲間に組み入れてくれるよう頼んで――」
 女将は途中、目の前に置いたお茶を口にすると、なおも語り続けた。
 「交通事故は不慮の死と判断され、運転者の過失死となって、その時点で計画は成功しました。ただ、仲間が四人になったことは想定外でしたし、いつ裏切りがあるかわかりません。それぞれ疑心暗鬼になりながら計画を進めました。この宿のリニューアルには十億円単位の費用が必要で、それで果たして採算が取れるかどうかが問題でした。ただ、白野と松中にはもう一つ壮大な計画がありました。この宿を中心に、この地域全体を一大リゾート地にするというものでした。すでに松中は土地の売買を進行させていて、実現すれば西日本エリアでも有数の山間のリゾート地になるはずでした。それには白野が国会議員になることが絶対条件でした。国会議員になれば地域にも顔が利き、計画の実現を県に対して強く出られると考えたからです。
 それをかぎつけた人物がいました。それが山本議員です。彼がなぜ私たちの計画を知ったのかずっと疑問でしたが、後で芝谷から情報を得ていたことがわかりました。山本と芝谷は出来ていたのです。だから私たちの計画はすべて山本に筒抜けでした。
 山本は常々、白野に敵意を抱いていました。女性の得票数が高いこと、安定した支持があり、国会議員に立候補しようとしていることなど、山本の嫉妬心を高めるのに十分な内容でした。山本は松中を脅迫し、白野から自分に乗り換えろと迫りました。
 山本は金に汚い男でしたが、女性に対しても同様に汚い男でした。彼は私に関係を迫り、受け付けないとみると佐藤洋子にも強姦まがいに手を出しました。芝谷がそれを知るのに時間はかかりませんでした。
 松中は表面上、山本にいい顔をしていましたが、本心はそうではありませんでした。松中と白野は子どもの頃からの付き合いです。ちょっとやそっとでは崩れない固い絆がありました。
 結局、私たちは山本を殺すということで合意しました。つまり、白野、松中、芝谷、佐藤洋子、私の五人です。どうやって殺害するか、考えた末に選んだのが、昨日のパーティーでした。
 あの日、私たちは山本を囲むようにして座りました。青酸カリは松中が用意しました。親戚の農家が防虫のために青酸カリを使っていたことを知っていたので、それをもっともな理由を付けて借用したようです。青酸カリをどのタイミングでコップに入れるか、それが問題でした。誰にも見られないように五人で山本を囲むようにして座り、佐藤洋子がグラスに青酸カリを入れる。それが当初の予定でした。
 誰に目撃されるかわからないということで、停電を装うことを考えました。停電させたのは、私の甥の正治です。正治は自閉症気味のところがあって、ずっとうちで裏方を務めてもらっています。彼は私のいうことなら何でも聞いてくれますから。7時半に近づいたら照明を切ってくれるように依頼し、仲居の晴子にだけそのことを話し、その瞬間、正治の側に誰も近づかないよう見張りを頼みました。
 計画はうまく行きました。時間通り照明が切れ、会場内は真っ暗になりました。その瞬間、佐藤洋子が山本に青酸カリを入れるはずでした。ところが照明が点くと、倒れていたのは山本ではなく白野さんでした……」
 女将はそこまで一気に話して、今回の事件に甥の正治は関係がない、仲居の晴子も関係がないと警部に訴えた。
 正治は、私が湖へ行く途中に出会った若者だった。仲居の晴子は、送迎のマイクロバスに同乗したあの女性だろう。その二人の件で不思議に思ったことが二つあった。それを女将に訊ねた。
 「正治は晴子と付き合っています。半年ほどしたら結婚する予定です。編集長があの日正治と出会ったのは、湖の近くで晴子と会っていたからでしよう。二人の仲はこの宿の者にはまだ秘密にしています。だから時間を見て、湖の近くで落ち合い、話していたようです。正治は晴子以外誰も打ち解けませんからあの湖が唯一の逢い引きの場所なのです」
 晴子がパーティの時、姿を見せなかったのは、女将に頼まれて正治を見張っていたからだと、女将は言った。
 山本殺害を画策したはずが、白野が亡くなり、事態は急転した。佐藤洋子は青酸カリを間違って白野に入れたのか、それとも最初からそのつもりでいたのか。その夜、山本は聴取を終えた後、宿の外に出ている。何のために外へ出たのか。
 佐藤洋子の自白によって白野殺害の全容が解明したのは、女将の告白の後、数分後のことだった。
 あの日、佐藤洋子は青酸カリを入れる役割を自ら買って出た。
 「パーティーでの計画が練られた後、私は山本に呼び出されました。ホテルのラウンジで私を待っていた山本は、巧妙な話術で私を言い含め、私たちが画策していることを知るために私に言い寄りました。もちろん私は山本をはねつけました。芝谷から山本の異常な性癖を聞いていましたから最初から警戒していました。芝谷は山本の性癖と金に対する異様な執着心にあきれ果て、すでに別れる決心をしていました。芝谷に逃げられて白野の計画をスパイする者がいなくなった焦りから山本は私に狙いを定めたようです。
 私が山本に会いに行ったのは、彼が夫の生前の借金のことで、解決するいい方法が見つかったと言ったからです。私は夫の借金に苦しんでいました。保証人になっていましたから。それでその時、私は藁にもすがりたい思いでした……」
 まんまと山本の計略にはまった佐藤洋子は、酒の中に入れられた睡眠薬のためにホテルの一室に運ばれ、そこで山本に辱めを受け、その痴態を撮影されてしまった。佐藤洋子はそれを白野にだけは知られたくなかった。彼女は白野を心底愛していたのだ。
 当日、佐藤洋子は青酸カリを混入する役割を買って出た。彼女は照明が消えるとすぐにそれを実施した。山本は今回の計画を佐藤洋子から聞いて知っていた。だからみんなを偽って白野に青酸カリを混入するものと信じて疑わなかった。ところが、照明が急に消えたため、不安に思った山本は自分のグラスと白野のグラスをとっさに取り替えた。
 結果的に白野は亡くなり、山本は安堵した。これで自分を中心に計画が回って行くはずだ、そう信じて疑わなかった。聴取を終えた山本は外に出て女将の携帯に電話をした。女将を脅迫したのだ。同時に松中と芝谷にも釘を刺した。
 放心状態でいた佐藤洋子はそれでも気丈でいた。自分が殺した、愛する白野の死を前にして山本への殺意を膨らませていた。
 その夜遅く、佐藤洋子は誰にも知られず山本の部屋を訪ねた。山本は佐藤洋子の来訪に喜んで部屋の中へ招き入れた。山本は佐藤洋子が白野のグラスに青酸カリを入れたと信じていたのだ。不安になって寸前に取り替えたのが自分だということを、この時、山本は完全に忘れていた。通常では考えられないことだが、山本は佐藤洋子の自分への愛を信じていた。だから山本は事件の後、佐藤洋子にだけは脅迫の電話をしていなかった。
 山本は佐藤洋子を抱いた。佐藤洋子はその後、山本のコップにお茶を入れ、青酸カリを混入して飲ませた。少量でも死に至る毒薬だ。山本は翌朝、死体となって発見された。

  事件はこうして解決した。直接手を下した犯人は佐藤洋子、彼女は二つの殺人事件と一つの殺人事件の教唆の疑いで逮捕された。女将は直接ではなかったが、その罪は決して軽くなかった。それは芝谷も松中もそうだった。
 温泉宿は女将が、仲居の晴子と甥の正治に継いでもらうよう命じ、一線を退いた。松中は建設会社を息子に譲り引退し、服役した。
 白野の後は、秘書の松坂が継いだ。線の細い松坂では到底務まらないだろうと多くの人が噂したが、彼は見事に当選し、やり手の県会議員になった。

  事件から数カ月後、ほとんど一年が過ぎようとしている日、女将からハガキが届いた。
 晴子と正治が結婚式を挙げるから来てくれという知らせだった。
 女将は半年で釈放されたようだ。これからは別の道を歩いて行くと、ハガキの隅に小さく書かれていた。私はその日のうちに返事を書いた。
 『喜んで出席します。ただ、その時、正治と晴子に一つだけ聞きたいことがある』と、言葉を添えて。
 あの事件の中でわからないことがあるとしたら二人の役割だ。照明を消すよう正治に指示したと女将は語っていた。晴子には正治を見張っておくようにと伝えていた。二人の役割は本当にそれだけだったのか。
 秘境の温泉宿には謎が多い。新たな事件が起きないよう、私は心から祈った。

〈了〉

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