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人生の意味?んなもん知らねぇ

ここ最近、投稿内容が少しエンタメに寄りすぎていたかもしれない?ので、今日は少し堅くなるかもしれない。

そういえば、私がnoteを始めた理由を、まだここでは文章化したことがなかった。

 端的に言うと、「他人より”オモロい経験値”を増やすため」である。これは、私が今後の人生においてのテーマにしていくつもりのことでもある。
”他人より”と書くと、人よりも優位に立ちたいという意が入っていると誤解されるかもしれないが、それは半分合っていて半分間違いだ。

もちろん、この資本主義国家である日本に生まれた限り、潜在意識レベルで我々には「比較」の意識が備わっていると言っていいだろう。それは、幼少期から成年期の現在までをずっと日本で過ごした私にとっては、おそらく一生、完全には抜けないものであると思うので、何を価値基準にしようと、人生において「比較」は常について回るものだと思う。それを肯定しようとも、否定しようとも思わない。この国家に生きていれば、当たり前のものとせざるを得ないのだから、それは仕方ない。

そして、半分間違っていると言ったのは、「他人との比較」自体が目的になることは決してないからだ。「比較」はあくまで先天的な意識の一つにすぎず、人生において「幸福」だと感じる基準はもっと別にある。それは、一つに音楽と共にいることだったり、一つにエロゲと共にいることだったり、一つに尊敬する人や憧れている人の話を聴いていることだったり、友人と過ごたり、自分が面白いと思える新しい人間に出逢ったり、と無数にある。それらを総合して、「オモロい経験」とすると、私の生きる目的の中心はやはり「オモロい経験」を沢山摂取し、心臓が止まるその瞬間も「人生オモロい」のままで意識を失って、灰になることだ。

noteに関しても、とある人物の影響を受け、私もいずれその人のようになりたい!という動機で始めたが、これを書き続けているだけでも、ある意味noteを書いていない人は味わえない経験を味わえていると思うし、その人物に少しでも近づけているのでは(実際は全くそんなことはないが)と少しでも思えることや、書いたnoteに反応をくれる人が少しでもいるという事実に私は幸福を感じているのは事実である。

人生の目的なんてものを見出すのは非常に難しい。難しすぎて、宗教を信仰している人々でもない限り、現代の一般人はおろか、歴代の哲学者たちですら四苦八苦して、ようやく導きだした結論すら、いとも簡単に隣のやつと食い違ったりする。科学技術が発達した現在では、神の存在そのものすらも否定できてしまうかもしれないし、そうなったらいよいよ人生の目的ってなんや?って皆一斉に思い出してもおかしくない。それなら、未来の哲学者たちが確固たる結論を導きだすまで、とりあえず、「オモロい経験値を積み重ねて、幸福になろう」が仮の目標でいいんじゃねと私は思うことにした。


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