書評:木下龍也・岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』

          光のように、風のように

 木下龍也と岡野大嗣の共著『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』(ナナロク社、二〇一八年一月七日刊行)には、今までの歌集にない読後感があった。風が光りながら通り過ぎていったような感じがした。
「男子高校生ふたりの七日間をふたりの歌人が短歌で描いた物語、二一七首のミステリー」というガイドが帯に記されている。こういう枠組みがあると入りやすいということだろう。が、「男子高校生」というキャラクターを特に意識して読む必要はないように思えた。無理な役作りをしているわけではない。木下龍也と岡野大嗣という歌人の作品として自然に読める。また、凝ったストーリーがあるわけでもない。ここにあるのは、7/1(Thu)から「7/7(wEd)」を経由して7/6(Tue)に到る七日間という容れ物である。
 一週間を駆け抜けること。作者と作中の人物を一旦切りわけること。このあたりが読後感の源泉であろう。五年、十年という実人生の時間を背景に編まれる歌集とは自ずと印象は違ってくる。そして、もともと木下龍也と岡野大嗣の作品には実人生の記録という側面は希薄であった。今までの作品傾向がよりクリアになったということなのである。
 しかも共著である。私個人のために詠むという閉鎖性からは自由だ。寺山修司の「『私』性文学の短歌にとっては無私に近づくほど多くの読者の自発性になりうるからである」という言葉を思い起こすのである。
 作品を読んでいこう。

 消しゴムにきみの名を書く(ミニチュアの墓石のようだ)ぼくの名も書く  木下龍也「7/1(Thu)」

 消しゴムはおおよそ白くて四角形である。好きな彼女の名前を書いてやる。高校生のやりそうなことだ。紙ケースから消しゴムを抜く。白い長方形の面に彼女の名前を書く。哀しい思いがよぎる。小さな墓石に見えるのだ。でも、自分の名前を書くと、ふたりで死ぬという甘美な幻想がやってくる。夏であるが、雪の日を想像してもよいだろう。凍え死ぬイマージュは、白い消しゴムの質感からくるのだ。ピュアな物語である。

 まだ味があるのにガムを吐かされてくちびるを奪われた風の日      木下龍也「7/2(Fri)」

「ガム出して」
「え?」
「今、すぐ」
「う、うん」
(ぺっ)
(ヂュッ)
「う」
こんなシーンを思い浮かべた。やはり高校生だ。大学生ではないだろう。社会人、ありえない。中学生はあるかもしれない。こういう乱暴な女子はいた感じがする。男子高校生は翻弄されるのだ。風の日が巧い。この一語で屋外ということが感じられる。学校帰りの原っぱを想ったらよいだろう。棒立ちの男子高校生の幾分懐かしい甘酸っぱさがある。

海岸に乗り捨てられた幼稚園バスの車窓にびっしりとパー     木下龍也「7/3(Sat)」

 不可解で事件性がある。そこには痕跡がある。車窓についた幼稚園児の手のひらの跡だ。白い手形がびっしりとある。悪戯ではないだろう。必死に救けを求めたのではないだろうか。苦しくて、窓をパンパン叩いたのかもしれない。おそらく通園のコースを大きく外れて、バスは海岸まで来た。運転手はどうしてしまったのか。錯乱したとしか思えない。恐怖の時間があったのだ。今、幼稚園児はバスにいない。何処に行ったのだろう。救出されたのだろうか。
 読者が参加できる作品である。それは短詩型文学の特徴だ。とりわけこの作品の世界は、作者と読者の中間ぐらいにある。ニュートラルだ。作者に情報があり独占しているのではない。作者と読者は対等である。それを無私と言ってもよい。「多くの読者の自発性になりうる」のである。

 心電図の波の終わりにぼくが見る海がきれいでありますように      木下龍也「7/3(Sat)」


規則正しい心電図の波形が平らになる。臨終である。機器の波から幻影としての海が現れる。薄れゆく意識のなかで最期に浮かぶ風景だ。静かで目映い海である。平穏な死を願う。そこは戦場ではない。清潔な病室なのである。この過酷な現実の中で幸福な最期という夢を読者に届けている。

 あと10分です、のコールはこの世から退室するときも鳴ってくれ     岡野大嗣「7/4(Sun)」

 共著ということで二人の作品が掲載されている。岡野大嗣の作品は二文字下げて始まる。高いほうが木下龍也の作品である。「7/1(Thu)」と「7/2(Fri)」は、掛け合いの形で二人の作品が並ぶ。白熱した接近戦である。「7/3(Sat)」は木下龍也の作品のみ。ソロのパートである。そして「7/4(Sun)」は岡野大嗣のソロのパートだ。
この作品は、木下の心電図の作品と呼応しているように思われる。自分の最期のシーンだ。同じテーマだとすると二人の個性が見えてくる。木下は安らかであった。岡野は急き立てられるような感じである。「あと10分です」は何かの競技のコールだろう。岡野は、死を世界からの退室と捉えた。そのときも「あと10分です」と鳴り響く。慌ただしく最期を迎える。生きているのだ。そして死後も別の世界で生き続けるのだ。荒々しい。ずっとアクティブであるという生のパワーを感じる。

 なにかものすごい決意をしたように両手をジェットタオルから抜く    岡野大嗣「7/7(wEd)」

「7/4(Sun)」の次に突然「7/7(wEd)」と最後の日がやってくる。異変である。この構成は巧い。過重な説明はない。そして活字が少し傾いている。微妙な傾きだからかえって変な気分になる。本当に傾いているのか、自分の目がおかしくなったのか、わからない。これは読者のエクスペリエンスに訴えるデザインである。刺激的な試みと言うべきだ。
 トイレのジェットタオルである。物凄い勢いで熱風が吹いている。両手はぐっと風圧に耐えている。そして、手を抜かなければならないのだ。うまく抜かないと装置に手が触れてしまうかもしれない。それは嫌な経験なのである。さっと抜くんだ。さっと。おそらく、だれでもそんな緊張感がジェットタオルにある。それを「なにかものすごい決意」と言い当てたのだ。読者と経験がシェアされるのである。

 玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはず  だ   岡野大嗣「7/5(Mon)」

一首の歌を歌集名とする。ごく稀なケースである。作品への強い自負を感じる。
 薄暗い室内を想像する。ずっと閉ざしている部屋なのだろう。覗き穴が自分と世界の関係を語っている。世界に向けて全開しているのではない。こっそり、用心深く限られた世界を見ているのだ。その覗き穴を通して細い光が射してくる。太陽と覗き穴と眼が一直線に並んだ瞬間である。奇跡とも恩寵とも言える。もともと自分は、そしてだれもがそんな存在として生まれたはずなのだ。ここには、はずなんだが…という僅かな負性が滲んでいる。それを感じながら、生まれたはずだという希望が歌われている。

 原型をとどめて蜂が浮いている水 夢にまで塩素は匂う     岡野大嗣「7/6(Tue)」

 最終日「7/7」は既に過ぎてしまった。そうするとその前日は何なのだろう。明日はないとすると今日が最終日なのか。どうなんだろう。そんな宙ぶらりんの感じになる。
 奇妙な夢である。死骸は原型をとどめていない。そんな示唆がある。だから原型をとどめている蜂は鮮やかなのだ。蜂はただ浮いている。夢とわかっているのだ。水塩素が匂うのはなぜなのだろう。ひょっとして夢という認識は錯誤かもしれない。

倒れないようにケーキを持ち運ぶとき人間はわずかに天使 岡野大嗣「7/6(Tue)」

最後の作品である。だれでも天使になれる瞬間がある。ケーキを待っている人がいる。倒れないように恐る恐る運ぶ。ほんのささやかな幸福のために懸命な自分がいる。そんなとき天使になれる。「わずか」というのがよい。ささやかであること。わずかであること。そんな有りように安らぐのだ。
 ジェットタオルから抜く両手。玄関の覗き穴から差してくる光。そしてこの歌。日常の中に奇跡の瞬間があることを岡野大嗣は歌っている。


            ○


 本書には、舞城王太郎の掌編が2冊、特別付録冊子として付いている。短歌・歌人に少し交差しながら、この親密な雰囲気は本書にマッチしている。

 なんか絶対意味判んないだろうけど、五七五七七の五が頭で七がおっぱいで五が腰で二つの七が両足って感じがするんだよね、絵的に。       舞城王太郎

風通しがよくて気持ちのいい一冊である。


初出:「井泉」80号 2018年3月

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