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根本土龍氏について

彫刻を再開して3年近く。やっと発表の本格化に向けて動いていますが、作りながら「この作品、根本先生が見たらなんと言うだろう?」と思うことが多い。

根本先生というのは、高校3年間+数年交流のあった、木彫家の根本勲(土龍)氏(1983年死去)のこと。
ここ数年、北海道八雲の木彫り熊の文脈で彼が注目されているのは大変な驚きだし、厳しい時代の中で励みにもなっている。
六本木の 21_21 DESIGN SITEや、CASA BRUTUS誌上で彼の作品と再開できるとは思ってもみなかった。
願わくば、彼の本領だった抽象彫刻をまた観てみたいのだが・・。

CASA BRUTUS 2022年1月号
CASA BRUTUS 2022年1月号

コロナ禍中に自分の活動がタイポグラフィからそれ以外のモチーフ、そして彫刻の再開にいたった経緯を何度か投稿してきましたが、もう少し深掘りしたい。今回は美術大学で彫刻を学ぶことになったきっかけである根本氏の存在を中心に回想してみます。

自分は北海道旭川市に生まれ、大企業の社宅で小学校まで過ごしたが、小6で両親が離婚、そして私と3つ違いの兄は母に連れられて旭川から函館へ移住(+転校)した。
親権が父にある自分と兄、旧姓に戻った母との暮らしが、小6の夏休みから中学卒業までの3年半。

しかし、函館では穏やかな暮らしができるだろうという期待は外れ、僕ら兄弟は母の身勝手な行動に振り回されることになった。新興宗教を強要されたり、中学時代は変える必要のない姓と名を変えられたり、酷いものだった。
※上記のような経験を虐待として認識したのは後になってからだが、幼少期からの支配はそれほど強いものだった。

高校入学と同時に母は先妻を失った根本勲(土龍)という彫刻家と再婚し、自分は居場所が無くなったため学校近くに下宿をすることになった(兄は上京)。
ほどなく勉強よりギターの練習とバンド活動に精を出すようになったわけだが、週末は母と根本氏の住居謙アトリエに行って数時間を過ごすことも多かった。おじいさんほどの年齢(当時70代前半)の根本氏とは直接話す場面こそ少なかったが意外とすんなりお互いを受け入れられたと思う。
会社員の父とは全く違う彼の価値観とおおらかな人間性に触れられたことは貴重だった。木を彫るときは真剣そのものだったがそれ以外はにこやかにしていたのを記憶している。

東京の公募団体に所属していた彼が毎年出品していた抽象彫刻は、丸太を極力活かした柱状のものが多かった。接ぎ木はしない方針だったため横に広がる造形はほぼなかったが、大きな穴によるマイナスの形やスリットのバランスによって緊張感を生み出していたのが特徴的。言葉で説明するしかないのがもどかしいが、バーバラ・ヘップワース、オシップ・ザッキン、ジャック・リプシッツなどからの影響はあったと思われる。

そうした抽象彫刻やざっくりした面取りの木彫り熊の数々が、小学校から美術が得意だった自分には眩しく写ったし、彼の本棚にある美術関係書にも興味は湧いた。例えば真っ当な美術雑誌だった頃の「みづゑ(美術出版社)」などだ。ジャスパー・ジョーンズ、イブ・クラインといった美術家の作品は自分にとって海外のロックミュージックと同じようなインパクトがあった。今まで知らなかった世界に触れた瞬間でもあった。

左:ジャスパー・ジョーン、右:イブ・クライン

とはいえ、当時自分が没頭していたのはなんといってもギターだった。彼らの住居謙アトリエにはアコースティックギターを一台「置きギター」にして、そこでの時間はそれを弾いて練習するのが常だった(エレキは下宿部屋でヘッドホンで練習)。音楽への思いの強さが、後に美大に進学しても結局音楽のプロ活動をすることに繋がっていった。

母と会う機会も無くなり、長い間記憶の片隅にあった根本氏だが、2018年のはじめ、六本木「21_21 DESIGN SIGHT」での、中沢新一ディレクションによる「野生展 」で柴崎重行+根本勲による「這い熊」を観て、彼の存在をあらためて意識することになった。しかしその3年後に自らが彫刻を再開するとは思っていなかった。
毒母には高校の途中から美大の彫刻学科進学というレールを敷かれ(学費は父が負担)、自分の意思と関係なく勝手に人生が進んでしまったが、せめてもの抵抗として大学卒業後は音楽やグラフィックデザインなど彫刻以外の仕事をし、2010年からのアート活動も偶像否定の意味でタイポグラフィという平面に限定してきたのだから。

ある作家はこう語っている。

自分の選択とは、まったくの意思に依るのはほんの少しで、その時の環境に左右されている、と考えれば、失敗も成功も全部自分の責任として背負うこともないように思います。

コロナ禍による価値観の転換(崩壊と言ってもいい)によって自分もこういう心境になったし、何らかの大きな力によって美術(彫刻)の方に導かれたのか?とも思えるようになった。

100%正しい選択だけで来られた人などいないし、みんな何がしかの後悔はあると思いますが、その時の環境ではやむを得なかったことが多いと思う。過剰に自分を責めずに、今の持ち駒で何ができるか考えたほうが前向きに生きられる。

美大彫刻学科という旧態依然とした環境は合わず精神も病んだ。他に居場所を見つけてなんとかやってきたのだが、彫刻に罪があるはずもなく身につけた技術を否定せずに活用してみようか、と考え出したら新しい地平が見えてきた。グラフィックや音楽での活動で養った感覚も含め、持つものはすべて投入してやっていけばいいのだろう、と今は思っている。

冒頭の「この作品、根本先生が見たらなんと言うだろう?」
に対する答えは自分で勝手に考えている。
「もっと自由にやっていいよ。」というのがその答えだ。

P.S.
ヘッダー画像はネットで拾ってきた根本氏の熊と「俺の熊」という自分のタイポのコラボ。「俺」というのは根本氏の若い頃の号。パンクだね。

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