福島和夫(1930.4.11-2023.8.19)さんについての追想

福島和夫さんは、長らく自分にとって、「謎の作曲家」だった。1970年代のはじめに作曲活動を停止し、東洋音楽研究の音楽学者となったこともあり、演奏会場で姿をお見かけすることはなかった。目にするプロフィール写真は若いころの、光が眼鏡に反射して表情が読めないものばかりで、そのことが孤高の作曲家というイメージを増幅した。極端な人間嫌いゆえに隠棲してしまった、といわれれば、そうなのかなと納得させられる雰囲気も確かにあったように思う。

もちろん、フルート作品を中心とした作品集は何種かリリースされていたし、1959年のストラヴィンスキー来日時に、武満の「レクイエム」より、まず福島和夫の「エカーグラ」が賞賛された、という伝説も知っていた。ただ、当時70歳を迎えたはずの福島さんが、どのような姿をされているのか、この業界に関わる前の自分には知るすべがなかった。

その姿を初めて見たのは、2003年、高関健指揮の都響が特別演奏会で福島さんの「月魄」が演奏した際のこと。「月魄」は、松平頼則の「近代和声学」にそのスコアの一ページが紹介されており、この本を読んだ誰もがその異様さに瞠目していた。24挺のヴァイオリンが各々独立に半音を重ねていき、2オクターブに亘るクラスターをつくる。その中で、ページの中央を軸とし前後対称に極めてグラフィックな記譜がなされ、システマティックに時を刻んでいく。

松平頼則「新訂 近代和声学」(音楽之友社)397ページ

そのときも、お話することなどもちろんできず、遠目で「あれがかの福島和夫さんか。写真より年相応のお顔になられている。案外よく笑う人だな」と仰ぎ見ただけだったのだが。なお、この際の演奏はアフィニス文化財団が比売品のCDにしており、某動画サイトで聴くこともできる。

その後、2008年とその翌年に、松平頼則の個展を開催することにした私は、頼則氏の自筆譜を手に入れる必要に迫られた。ある時期までの頼則作品の自筆譜は、氏が教授をつとめていた上野学園大学の図書館に収蔵されている。学内の人間関係から陰から支援下さったある方、もう「時効」だろうからお名前を挙げると、のちに上野学園の学長になられる、音楽学者の船山信子さんのご尽力で、これらの自筆譜の一部を写真に撮らせてもらえる(幾つかの理由から、コピーは許可されなかったので)ことになった。その際、この作業を福島和夫さんが監督される、というので、俄かに緊張した。

実際に作業が始まると、大変フレンドリーに接してくださり、作業途中に、大学近くのレストランに相伴し、昼食をご馳走になったりもした。「エカーグラ」初演にまつわる、アルトフルートのキーが一部動かず助演者をつけて二人羽織的に演奏したという、コントのような顛末もその際に伺った。福島さんに昼食を奢ってもらった私の世代の現代音楽関係者って、ほとんどいないんだろうと思う。

上野学園での福島さんは、一般学生からは「素性のよくわからない、図書館によくいるニコニコ顔のお爺さん」みたいな感じで接されていたので、「この人は大変な人なんだよ。実験工房というのがあってね。。」と、学生らに一席ぶちたくなるのを懸命に堪えた。

荷物が多かったので、上野学園には車で出かけていた。帰りがけ、用意頂いていた駐車場まで福島さんは見送りに出てくださった。そのとき、私の車の隣に、真っ白なベンツのスポーツカーが止まっていることに気づいた。そのシャープなフォルムに、「この車凄いですね。どんな方が乗ってらっしゃるんでしょう?」と何気なく口にしたら、「私です」と恥ずかしそうに福島さんは笑った。

その日は、「冥」の作曲家が真っ白なスポーツカーに乗って、首都高を疾走する姿を想像し、愉快な気持ちで床についた。上野学園のキャンパスが創価にもあったころで、福島さんはここに設立された日本音楽研究所に車で通っていたはずだ。それはさぞ、快適なドライブであったろう。

2008年の松平頼則個展にご招待した際、現代音楽界から離れている間に奏者の演奏レベルが格段に上がっていることに驚嘆されていた。だから、若いフルート奏者諸賢には、これからもますます「冥」や「エカーグラ」の演奏に取り組んで、その演奏レベルの高さであの世の福島さんを、さらに驚かせてあげて欲しい。

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