見出し画像

NZに3ヶ月滞在してわかったこと【自適の留学論】

はじめに

こんにちは。Twitterとnoteでタイプ論考察&ディズニー研究をしております遊々自適です。今回はグローバルなトピックを1つ。

2年ほど前、ニュージーランドのオークランドに3ヶ月半滞在していました。首都ではありませんが、国内では最大の都市です。東京に似た都会ですが、すぐに近くにビーチや森があるのがなんとも不思議な感覚になります。

画像1

北島と南島からなるニュージーランドは、面積は日本の約3/4、人口は500万人の自然いっぱいの島国。共通言語は英語と現地のマオリ語です。

英語を学びながらマオリの文化にも触れ、素敵なファミリーに恵まれた3ヶ月間…だったのですが、「英語を学ぶ意味」に苦しめられた3ヶ月間でもありました。その経験を通して構築した自適の「留学論」を解説していきたいと思います。

1.民泊こそ「異文化交流」

・異文化交流はその辺の人とできる

異文化交流とは海外との交流のことをいうのではありません。自分以外の全ての人との交流が異文化交流です。文字通り一人一人が異なる習慣や思想のもと生きていますから、当然といえば当然です。日頃から身近なコミュニケーションを疎かにしている人が、海外に行ってまともに交流できるわけがありません(自戒)。特にホームステイとなると、パーソナルスペースを重ね合わせながら日々を過ごしていかなければなりません。2,3泊なら我慢で済んでも、数ヶ月となると我慢→交渉するという手に変えなくては身が持たなくなります。

誰かを近くに感じ、その人との適切な距離感を保てるように調節し続けること。民泊こそコミュニケーションの究極形といえるのではないでしょうか。

2.宗教とは「ただの」コミュニティ&自己啓発

「宗教」という言葉は、何かとマイナスワードとして用いられがちです。日本で「宗教に入っている」などと言ったら変な目で見られかねません。そんな「宗教」が比較的身近な海外で、ファミリーと教会に行った経験をもとに現地で書いた手記がこちら。

・現代の教会はライブ会場

『語学学習の一助として、初めて観光以外の目的で教会に訪れた。町でよく見かけるような伝統的な造りのものを想像していたが、実際は普通のモダンな建物で中にはライブステージがあった。聖歌も、歌詞こそ宗教的だったが、普通のバンドが現代的な曲を演奏していた。最初は奇妙に感じたが、考えてみれば教会は歌で教えを広め、そのために歌声がよく響くように設計されている場所。今の時代、現代技術を使ったライブ会場で現代人の感性に合った曲調の歌を歌うのは非常に合理的だといえる。
「宗教の信者」といってしまうとなんだか異質で不可解だが、彼らにとっての聖書とは自己啓発本、教会とは自己啓発講座兼意識の高い人々との出会いの場のようなもの。また、昔は破門される等宗教に属していないことは文字通りex/communicate=コミュニティの外に出されることを意味した。現代はそこまで極端でないにしても、逆に言えば宗教に属することは居場所づくりの意味合いがかなり強いように感じられる。』

・音楽だって宗教だ

そう、宗教って良い意味で「単なる」自己啓発なんですよね。ライブや自己啓発が宗教であるという言い方もできます。日頃私たちが「良い言葉」を耳にしたときそれに準じて生きようと思うのと同じです。お坊さんのありがたいお言葉、有名アーティストの感動する歌詞、核心を突いた名言…。誰を「神」とし何を「聖書」とするかが違うだけで、これらみんな宗教です。熱心なファンのことを「信者」というのは比喩でもなんでもなくそのままの意味なのです。「ただの」私たちの生きるモチベーションを高め、信者同士のコミュニティを与えてくれるもの、それが宗教です。

3.外国人として扱われない場所があるってありがたい

・「ガイジン扱い」は肩身が狭い

オークランドは多文化都市で、アジア料理店や専門のスーパーも多いところです。街を歩いていても様々な人種を目にします。そんな多様性に対してフラットな街ですが、それでも行く先々で現地の人々との扱いの差を感じました。特定のある場だけではなく、バスに乗ってもカフェに行ってもスーパーに行っても常に相対的に「下」に置かれる感覚。誤解のないように言いますと、これは自適が日本人だからではなく「言葉が未熟」だったからのように思えます。言葉というのは、ほんの少しでもおぼつかない部分があると違和感を感じるものです。日本語でも「は」と「が」の微妙な使い分けを間違えるだけでとたんにたどたどしくなります。彼らも悪気があったのではなく、微妙なコミュニケーションの取りづらさを敏感に感じ取って相応の対応をしたに過ぎないのでしょう。しかしそうと分かっていてもこの「ガイジン扱い」はしんどかったです。

・差別って要はいじめ

そんな体験を通して、生まれて初めて人種差別を受ける人の気持ちを体感したように思えます。学校内でのいじめなら、外に出れば普通に接してくれる人がいる。しかし例えば国中、または世界中のどこにも居場所がないとなれば逃げ場がありません。それはまるでいじめグループの規模が国単位まで拡大したような感覚でした。日本に帰ったところでただの1人の若者ですが、世間知らずで言葉もおぼつかないガイジンとして扱われるよりはよっぽどマシです。母国があるって、本当にありがたい。

4.「英語ペラペラ」は目指すな

・「綺麗な英語」がベスト…?
よく語学学習の目標として掲げられるのは、「世界中の人とコミュニケーションを取れるようになる」こと。さらに、「どうせなら『綺麗』な英語を身につけたい」という思いのもと訛りの少ない地域に留学する人も多いです。しかし、世界と交流したいなら「ニュートラルな英語」の方が断然おすすめです。「ニュートラルな英語」とは、様々な国のアクセントが混合している英語のこと。英語は様々な国や地域の人が話しますから、アクセントは実に多様です。特にスペインアクセントはRをはっきり発音するので、person(パーソン)が「パルソン」となったりして非常に聞き取りにくい。

このように相手がどんなアクセントでどんなボキャブラリーを使用してもある程度理解できないと英語を用いた交流は成り立ちません。様々な種類の英語を聞き取れるようにすべきだと、いろいろな人と接する中で思ったのです。

・いつか「ペラペラ」に…なれるの?

どんな人も、留学にある程度の「目標」は立てていると思います。「TOEICで800点取る」「英検準一級を取る」「とにかくペラペラになる」…など。しかし、その「目的」が明確になっている人はあまりいません。「なぜ自分は時間をかけて英語を学ぶのか?」、言ってしまえば「本当に『喋りたい』のか?」。
言語は、単なるコミュニケーション手段としてであれば数%もあれば機能します。しかし一方で、「社会的信頼」や「情報収集手段」としてだとほぼ100%に近くないと厳しいです。外国語を90%喋ることができればそれはとてつもない強みですが、ネイティブからすればほんの少しの違和感でも信頼を削ぐには十分です。片言だと信頼性に欠け、軽んじられやすいのは私たちも感じているところだと思います。
現地語が堪能でないことによって、
・人々からの扱いが違う
・情報収集力が低い
のは、生きる上での二大ハンデといってもいいでしょう。

本拠地をわざわざ有利な母国語フィールドの外に置く必要はないし、コミュニケーションだけなら10%で十分です。100%まで持っていく労力を考えたら、外国語をペラペラになる必要なんてない、というのが結論です。

グローバルコミュニケーションができる人というのは、外の言語を自分に叩き込む人ではなく、自分の言語を周りに覚えさせられる人です。自分が英語を覚えるより先に周りに日本語を喋らせてしまえるような人が、結果的には最強なのです。

結局のところ留学はすべきなのか

海外生活をして知った四つのこと、
①民泊こそ「異文化交流」
②宗教とは「ただの」コミュニティ&自己啓発
③外国人として扱われない場所があるってありがたい
④「英語ペラペラ」は目指すな
をまとめると、留学の不必要性が浮き彫りになります。何処にいたって自分は自分で、日本でできないことはできません。海外に行けばなんでもできるような気がしますが、現地では日本に帰れば何でもできるような気がするものです。しかし同時に、これらを知れたのはやはり身をもって体験したおかげなわけです。これらの「学び」とそれにかかる機会費用を天秤にかけてなお行った方が得だと思うのならば、留学は「行くべき」なのではないでしょうか。

以上、留学をすべきか悩んでいる人たちのお役に立ちますよう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?