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「人を刺したら、気持ちが晴れるかもしれない」“ヒラヒラさん”と呼ばれた恐怖の女通り魔|名古屋連続通り魔殺傷事件・伊田和世

2003年3月から4月にかけて名古屋市で連続して発生した通り魔事件。自転車に乗った女に包丁で刺された被害者2名はともに20代の女性で、うち1名が死亡した……。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

フリルと赤い自転車

 赤々と燃えるようなレインコートを着た女が、赤色のママチャリに乗り、包丁で若い女性を突き刺し、走り去った。
 2003年3月30日午後8時頃、名古屋市北区の路上を友人と歩いていた看護師の菅谷悦子さん(22)が、自転車に乗った女に突然腹部を刺された。2日後の4月1日、菅谷さんは多臓器不全で、市内の病院で亡くなった。
 その日の白昼、千種区の商店街を歩いていたAさん(23)は、赤色の自転車に乗った女に腹部を数回刺され、持っていたシャネルのトートバッグが奪われた。相次ぐ自転車通り魔事件に、名古屋市民は怖気だった。

 事件発生から4ヶ月後の8月、別の窃盗事件で逮捕された伊田和世(38)の自宅から、奪われたAさんのトートバッグなどが見つかり9月17日、本件の強盗殺人未遂事件で逮捕された。名古屋に入ったわたしは、伊田が住んでいた守山区の借家周辺を聞き込みした。近所の主婦の話。
「挨拶しても返事はないし、ゴミ出しがきちんとできないほど常識がなかった。いつもフリルの白いドレスを着て、自転車を乗り回していたので、わたしたちは彼女のことを『ヒラヒラさん』と呼んでいたのです」
 借家をのぞくと猫缶や空き袋が散乱、足の踏み場がないほど荒れていた。自営業の男性が言う。
「近くで腹を割かれた多数のリカちゃん人形が捨てられていて、あの女がやったと噂になりました」

夜の店でも人気の美女だったが、派手なフ ァッションで浮いていたという。
2006年、無期懲役が確定

 ヒラヒラさんの足跡を取材するため、わたしは生い立ちを辿った。伊田和世は水道工事業を営む両親の次女として、名古屋市内で生まれた。幼い頃に、父親は妻子を残し家を出ている。小中学校の男性同級生が語った。
「小学生の頃から真っ赤なマニュキュアをして化粧もしていた。学校にはたまにしか来なかった。不良ではなかったが、浮いていたね」
 高校へ進学しなかった和世は、スナックやクラブでホステスとして働いた。整った顔立ちの和世は、男たちから人気があったという。92年9月から3ヶ月間、昭和区内で、ある男性と奇妙な同居をしている。当時を知る主婦が語る。
「一時期、派手な洋服を着た女性が住んでいましたが『あの女は息子を部屋に入れない』とお母さんが嘆いていました」

 この頃、愛犬を亡くした和世は心のバランスを崩し、精神科に通い始めた。以後、鬱病の投薬治療を続けていた。愛犬の死が一連の事件にどう関係していたのか、わたしには分からない。しかし、 翌年1月から開かれた裁判で明かされた和世の行状は驚くべきものだった。わたしは初公判を傍聴するため名古屋地裁にいた。
 茶髪のロン毛にピンクのスエット、ピンクの靴下。鮮やかなブルーのカーディガンを羽織って入廷した和世は、やはり「ヒラヒラさん」そのもの。注目された初公判は、わずか25分で閉廷。それは和世が飼っていた2匹の猫の世話を巡って対立、弁護人を解任したためだった。事件も異様なら、裁判も事ほど左様な滑り出しだった。
 検察側の冒頭陳述によると、和世は23歳からソープ嬢として働き、犯行時にはそこで知り合った妻子ある男性から毎月17万円、占い師の実父から毎月30万円の援助を受けていた。しかし「この生活がいつまで続くかわからないと前途に不安を感じ」イライラした気持ちを強めた。その頃、死体や解剖に興味を持ち、刺殺体などのビデオテープを繰り返し観て、興奮を覚えていたという。
「殺人がしてみたい。人を刺してみたい」との願望を持つようになった和世は、犯行当日「人を刺したら、自分の気持ちが晴れるかもしれない」と包丁を手に街に出た。狙ったのは「清楚な感じで、今までに苦労を知らずに育ったお嬢さん風の若い女性」だった。

 ペットに対する異常な執着は、月並みな言い方をすれば「心の隙間のパテ」だったのだろう。それと“刺殺”との間の乖離をわたしには埋められない。拘置所から和世が幼なじみに出した手紙には、
<わたしの頭は猫のスマちゃんとチーちゃんの事でいぱいです>(原文ママ)
 被害者への謝罪や、反省の言葉は一切なかった。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。