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「この子の画像、見せたろか」…犯行をデリヘル嬢に語っていた鬼畜殺人犯|奈良小1女児殺害事件・小林薫

週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは……。
小林俊之『前略、殺人者たち 週刊誌記者の取材ノート』より

「俺は疑われている」

 2005年(平成17年)の元旦を、わたしは奈良市内のホテルで迎えた。2日前の晦日、小学1年生の女児(享年7)を殺害したとして新聞販売員・小林薫(36)が逮捕されたからだ。女児が何者かに誘拐され、玩ばれた末に殺害、遺体が造成地の側溝から発見されたのは04年11月17日だった。
 わたしは事件発生当初から、女児の自宅がある奈良市に入り取材をしていた。犯人は女児から奪った携帯電話で「娘はもらった」、「次は妹だ」と書いたメールを母親に送りつけ、あろうことか、痛ましい女児の画像まで送信、鬼畜にも劣る行いだった。逮捕されるまでの43日間、その常軌を逸した犯行は県民のみならず全国民を震え上がらせた。
 遺体と対面した奈良県警のベテラン捜査員は「こんな酷い仕打ちを受けた仏さんは初めてだ」と目を潤ませたという。「女児の前歯、上下4本が強引に抜かれていた」との情報が流れたとき、わたしは言葉を失った。そのワケを、考えることがおぞましかった。取材先で、同じ姓の名刺を差し出すのも躊躇した。

 小林薫は酒好きで、夜ごと飲食店に出没していたとの情報があり、新聞販売店がある北葛城郡の聞き込みに走った。スナックのママが取材に応じた。
「10月1日、小林は1人でふらっと店に来たの。私、新聞を取っていたからね。それ以来1週間に2、3回来るようになりました。いつも1人で来るんですが一度だけ、堺の先輩という2人の男を連れて来たことがあります。なんでも、警察の世話になったときに知り合った人だと言っていました。なんで警察の世話になったのかは、その時は言いませんでしたね」
 いつも焼酎のロックを飲み、酒に強く酔っぱらうことはなかった。
「座ったとたん紺色の携帯電話をいじっていました。『なにをしているの』って聞くと『娘と交信している』と言ってました。いつだったかはっきりした日にちは覚えていなのですが、小林が『おっ。(殺された)女の子の絵が入った』と言ったのです。私は『そんなの消しなさい』と怒りました。『今の携帯は、こういうのが入るんや』とかなんとか言ってましたわ。そうね、事件から1週間か10日ぐらい経った頃ですね。『娘が学校の先生に叱られたというから、しっかりと意見したった』と言ってましたよ。でも、うちの店で小林に電話が入ったことは一度もなかったですね」

 当然、女児殺害事件が店の中で話題になっていた。聞きもしないのに小林は「疑われている」とママに語った。
「『前に警察の世話になったことがあるから、疑われるかもしれんな。眼鏡をかけてるし、血液型がB型だからな』といつもと変わらない表情でしゃべってましたよ。だから、私たちは何の疑いもなく聞き流していたのです。『販売店の同僚が、俺のことを疑っているんや』と憤慨していたこともありました。『俺アリバイあるよな。ここにいたから』とみんなに確認していました。私は見ていないのですが、子供がセックスしている画像を隣に座っているお客に見せてたこともあります。『そんなもの消しなさい』と怒ったのです。今年の正月は奈良の妻の実家に行く、と言ってました。籍は入れてないけれど高校生の娘がいるって。愛人がいるとも言ってましたが、すべて嘘だったんですね」

 別のスナックに勤めるホステスのMさんが証言した。
「(逮捕)2週間前に紹介でうちに来るようになったのです。私が一番若いからかもしれませんが、いつも指名してくれました。声が似ているだろうと言って、よく美川憲一の唄を歌っていました。小林は突然『おっー』と声を上げて、殺された女の子の写真を他のホステスに見せびらかしたのです。私は『そんなの見たくない』といって見ませんでした。それは、女の子のお母さんに2回目のメールを送った後だと思います」
 店で小林は「かおるちゃん」と呼ばれていた。教えてくれた携帯番号に電話しても通じなかったとMさんは言う。

「昨日(12月29日)はレストランで食事をして、それから同伴したのです。いつも私を指名してくるのに、口説いたりホテルに誘われたことは一度もありません。『携帯には100枚の写真が入っているけど、そのうち60枚はロリコンだ』と言っていましたから、大人の女には興味がないのでしょう。『自分も別れた妻との間に同じ年の子がおるから、あの事件は許せないよな。人間のすることじゃない』と言っていたのにね、信じられない」
 Mさんは、12月27日に店内で撮った小林薫の写真を提供してくれた。

逮捕直前の小林薫。行きつけのスナ ックホステスが携帯で撮ったもの

筋金入りのロリコン

 小林薫は昭和43年11月、プロパンガスや灯油などを販売する父母の長男として、大阪市住吉区で出生した。わたしは大阪に移動した。近所の主婦が語った。
「お母さんを早くに亡くしたので寂しかったのか暗い感じはしました。2階の窓から唾を掛けるので近所の鼻つまみ者でした。友達なんか1人もいません」
 小中学校ではイジメの標的にされ、また父親からゴルフクラブや金属バットで殴られるなど常軌を逸した暴力にあっている。高校卒業後に調理師見習い、運送会社など職を替え1996年頃から新聞配達員として各社を転々をした。県警担当記者が言う。
「小林は1989年12月、当時5歳の女児2人に対する強制猥褻によって、懲役2年の言い渡しを大阪地裁で受けている。91年10月には当時5歳の女児に対する強制猥褻致傷で懲役3年を言い渡されている。96年11月まで服役している」

 中学時代にも大阪府内で6歳の女児にいたずらして摘発されていた。猥褻事件で逮捕されとき、その動機をこう供述している。
「階段を上がる幼児のスカートからパンツが見えると、襲いたくなる衝動を抑えられない」
 小林薫は筋金入りのロリコンだったのだ。

 取材の中でわたしが出会ったのが、県内でデリヘル嬢として働く20歳の日本人女性Aさんだった。彼女の話は、記者としてどうだと胸を張って記述できる内容ではないが、この男の一端を如実に現しているとわたしは思う。Aさんが小林薫のワンルームマンションを訪れたのは2003年の7月だった。
「部屋に入るとTシャツにトランクス姿でパイプベッドに寝転がっていました。髪の毛はボサボサで背が小さく小太り、とにかくキモかった。一目見て怪しい感じやったわ。最初に行ったときはベッドとテレビ、ビデオしかなかった。取り敢えず早く終わらせようと、早くしごきました。キモイので口を使わずにほとんど手でやりました。わたしが手でしごいている間、小林はセーラー服姿でセックスしているビデオ観てはって10分から15分ぐらいで『あーっ、もうすぐいくー』と叫んで終わりました。いった後はビデオを消して、テレビのニュースを観ていました」

 小林のそれは子供のようで、しぼむと腹の肉に食い込んで見えないぐらいだったという。 性器コンプレックスがこの男の倒錯した性に関係があるのかは承知しない。とまれ、Aさんが2回目に部屋を訪ねたのは、殺害事件後の12月15日。

「2回目は私を指名したのです。またセーラー服姿のビデオ観ながらやるんですが、前のビデオとは違っていました。酒を飲んでいたためか、いくのに前よりちょっと時間が掛かりました。この日は、小林が女の子の母親にメールを送った次の日なので、テレビのニュースはそればかり放送していました。『こんなニュース怖いわ。お客に(犯人が)いたら怖いわ』と私が言うと『こんな男は大人に興味がないから大丈夫や』って言ってたわ」
 ニュースを観ながら小林は淡々とAさんに語った。
「うちのマンション警察に張り込まれているんや。通信記録の圏内やし、ワンルームマンションやろ。メールが送られてから捜査してるんやから、絶対(犯人は)捕まらへんよ」

 Aさんは「早く捕まったらええなー」と言うと「せやなー」と答え、自分の携帯電話を取りだした。
「『あの子の画像がサイトで出回っているんや。見せたろか』って言ったので、私は『いらん』って言ったのに、ニヤニヤして『これやで』っていきなり見せられたの。その映像はベッドの上で、足を開いて目をつぶっていたので寝相の悪い子供という感じでした。『ほんまに死んでいるの』って聞くと『死んでるねん』って薄笑いを浮かべていたわ。おさげ髪の女の子が、フェラチオしてるスリーカットのムービーも観せれましたが、目がくりっとしていたので違う子だと思います」

 インタビューの途中、Aさんは「そうや、誰にも言ってないことを思い出した」と語り出した。
「死んだ女の子の画像を見ていたとき『口の中から陰毛が発見されたんや』と言うので私はエッて聞き返すと『下に入らんかったさかい、無理やり口でやったんや』と言うのです。『なんでそんなこと知ってるねん』て言うと『ニュースで言ってたわ』と小林は平然と言ってました」
 耳を疑うような会話だが、Aさんは奈良県警の事情聴取で一部始終を語っている。このワンルームからはレズやアナルなどの成人ビデオ64本、未成年・児童ビデオ13本が押収されている。コミック9冊はすべて女児ものだった。幼女の下着類も多数押収されている。

女児の死体遺棄現場に置かれた花とぬいぐるみ。
事件から2年が経った、2008年11月撮影

弟に捧げた詩

 取材の過程で「もうひとり」の小林薫と出会ったのは、彼が小学5年生で書いた詩を読んだときだった。三男の難産が原因で、母親は亡くなっている。小林薫は10歳だった。障害を持って産まれたその弟に捧げた詩だった。題名は「かわしそうなK」(詩では実名)。

〈おまえが生まれたとき出血多量で死んだ。おまえはお母さんの身がわりだから大切に育ててやる〉(抜粋)

 弟を思う深い慈愛と女児への非道な行為、このギャップにわたしは人間が持っている深い闇、不可思議、不条理に打ちのめされた。
 小学校の卒業文集には母親を亡くした悲しみを綴っている。

〈ぼくは、5時間以上ないた〉
〈いつか、お母さんのいる天国へ。お母さんとこんどあうときは人をいじめないようになってあおうと思う〉

 文集に描いたイラストは、涙を流す自分の姿だった。父親の暴力、同級生のいじめが小林薫の性格を歪めたとしても、この男の償いはどうにもならないだろう、と思った。

 事件から4年後の2008年11月、わたしは大阪府住吉区の実家を訪ねた。小林商店の看板もなく、建物はなくなっていた。近所の主婦が言う。
「薫が事件を起こしたころ、お父さんは糖尿病を患い入院していました。でも住吉神社の露天商にガスを配達するため、病院を抜け出して仕事をしていたのです。その所為かしりませんが、間もなくお父さんは亡くなりました。お父さんも変人で、薫が猥褻事件を起こして刑務所に入ったときに『あいつは他人が経験できないことをしているので、たいした者だ』って親戚に言っていたそうです。三男が生まれるときに、子供と奥さんどっち取るかと医者に聞かれて、奥さんではなく子供を取ったのです。子供はいつでも作れるじゃないですか」

 わたしはレンタカーで、遺体が遺棄された平群町の造成地を訪ねた。道路脇には熊のプーさんの縫いぐるみや雑誌、ジュースが多数供えられていた。取材中、中年の男性が鉢植え4個と水を持って車から降りてきた。
「毎年1回はKちゃんのお参りに来ます。私とは縁もゆかりもないのですが、かわいそうでね。この事件を風化させてはいけません」
 奈良市内のKちゃんの両親を訪ねた。インターフォンに応答はなかった。玄関の階段には楓の鉢植えが置かれていた。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。