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逃亡15年の果てに…「一人って淋しいものよ。大河にうかぶ木の葉みたいな孤独」|松山ホステス殺害事件・福田和子

1982年8月、松山市で起きたホステス殺害事件。犯人の福田和子は15年間にわたり逃亡を続け、逮捕されたのは時効わずか3週間前だった。
週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは。

時効21日前の逮捕劇

 1982年8月19日の昼下がり、愛媛県松山市は30度を下回り過ごし易かった。クラブホステスの福田和子(34)は、同僚の安岡厚子さん(31)を着物の帯紐で絞殺。部屋にあった現金と預金通帳、家財道具334点総額1千万円相当を奪い、情夫が住むマンションに持ち込んだ。
 捜査の手を察知した和子は金沢市に逃亡、3日後に東京で美容整形を受けた。金沢に舞い戻った和子はスナックで働き、間もなく客の男と同棲。85年には菓子店経営者に見初められ同居、大胆にも愛媛から長男を呼び寄せ生活している。天性の客あしらいで店は繁盛した。当時取材した社会部記者が言う。
「入籍を拒む和子に不審を抱いた親戚が88年2月12日、警察に通報した。捜査員が店に到着する30分前、盗んだ自転車で和子は逃走。間一髪で逮捕を逃れた」
 動物的な予覚で追っ手をスルーする和子は各地を転々、20以上の偽名を使って逃げ延びた。時効1年前の96年8月、警察は日本で初めて懸賞金(100万円)を提示、情報提供を求めた。国民は総探偵化した。

 時効半年前の97年1月、和子はれい子と名乗り、JR福井駅近くのおでん屋に姿を現す。客はすぐ虜になった。
「ミニスカートで椅子に腰掛けると、太腿がチラッと見えて色っぽかった。もち肌で、小柄だけれど90センチ近くはあったおっぱいに目のやり場に困ったよ」(常連客)
 時効を間近に控え、ワイドショーは連日放送。整形したとはいえ、顔と甘ったれた声にピンときた男性客と女将が指紋を採取。時効まで21日前の7月29日、福田和子の逃亡生活は5459日でピリオドが打たれた。
 別の取材で能登半島にいたわたしとカメラマンは、レンタカーで福井市に急行した。和子が通っていたパチンコ店やスナックを回ると「れいちゃんがかわいそう」と涙を浮かべたマスターもいた。福井駅から列車で移送される福田和子は、ちっちゃい体を屈めわたしの前を通り過ぎていった。

 和子が生まれて間もなく両親は離婚、売春宿を経営する母親の手で育てられた。18歳で男と強盗に入り逮捕、服役した松山刑務所内でヤクザに強姦されるという有り得ない体験をしている。事件当時を知る知人が言う。
「スナックやクラブを転々としていたが、サラ金などで借金が嵩み追い込まれていた。和子にはいつも男がいた」
 逮捕から5ヶ月後、わたしは福井のおでん屋を再訪した。通報した女将が言う。
「仕返しされるのではと不安でしたが、『怨んでいない』とれいちゃんは言っているそうです。今でもれいちゃんが大好きなんです」
 タクシー運転手も「重い刑なんだろうね。会ったことはないが、情が移ったのか何か助けてやりたい気持ちだよ」と笑った。警察を欺いた天晴れさか、和子の人徳なのか、世人の多くは同じ思いだったに違いない。

整形し名前を変え、住居を転々としながら捜査の手を逃れた和子。
誰からも愛される魅力があったという

 拘置所の和子と文通していた加藤優子(仮名)さんが語った。
「〝魔性の女〟〝稀代の悪女〟と報道されていますがまったく違います。わたしの子供たちの世話や勉強を見てくれ、本当に優しい人でした」
 2年間で81通交わした手紙に、和子は胸の内を吐露した。

<この逃亡の15年の私の気持ちをわかってよといってもだれも想像つかないでしょうねぇー。一人って淋しいものよ。大河にうかぶ木の葉みたいな孤独、たどりついては流されて、泥流にのまれてしまう>
<私の弱さのせいで男性にたよったこともあります(略)高級品を身につけても心の渇きや叫びがいやされるものではありません>

 一審判決は求刑どおり無期懲役。控訴した和子は「同性愛の関係にあり、殺害は愛情のもつれによる偶発的な犯行」だと爆弾を落としたが2003年11月、最高裁で無期懲役が確定した。その2年半後、福田和子は脳梗塞で倒れ、波瀾万丈の57年の人生に幕は下りた。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。